魔弦使いのギフテッド

川崎俊介

魔弦【ベルトロッティ】

 ストラディバリウス。


 それは、演奏者の実力に忠実な楽器。


 並みの楽器より多くの倍音が混じるその楽器は、上手く弾きこなせば優美な音を響かせるが、半端者が弾けばより下手に聞こえてしまう。倍音が雑音と化してしまうからだ。


 またそれは、過去の演奏者の音色を吸収する楽器。


 かつて活躍したヴァイオリニスト、ジノ・フランチェスカッティの使用楽器、【ハートエクスフランチェスカッティ】を受け継いだとあるヴァイオリニストは、その楽器を初めて弾いたところ、フランチェスカッティの音色と間違われたという。


 現代では再現不能な伝説の名器には、そんな怪しげな逸話が付きまとう。


 私が手にした楽器も、ストラディバリウスではなかったものの、そんな曰く付きの楽器であった。


 そのヴァイオリンは、【ベルトロッティ】といった。


 曰く、演奏者の音を吸収する。

 曰く、演奏者の精気を吸い取る。

 曰く、演奏者に破滅をもたらす。


 アントニオ・ストラディバリの暮らした街、クレモナの名工が作ったとされるが、詳細は何も分かっていない。


 だが、クレモナのオールドヴァイオリンが安価で手に入ると聞いて、私は思わず飛びついた。


 弾きこなすのに時間はかかったが、四か月ほどして、ようやく『鳴る』ようになった。


 それからはとんとん拍子で美しい旋律を奏でられるようになった。


 欲しい時に、欲しい音色が出る。


 そのとき表現したい感情に、適切な音が出る。


 曲想に合ったアーティキュレーションで、完璧に弾ける。


 試しに自分の練習録音を聴いてみると、名ヴァイオリニスト、ミルシテインに似た音だった。あるときは、メニューインに似た音色。憧れの音色が、いつの間にか出せるようになっていた。


 もっと上手く弾けるはず。もっと美しく、完璧に弾きたい。


 そう思うようになっていた。


 楽譜を見ると、頭の中で理想の演奏が鳴り響くのだ。それを再現しようとして演奏すると、上手く弾ける。


 だが、頭の中の旋律に近づくことはできても、どうしても完璧に再現することができない。


 もっと練習しなければ。


 もっと楽器の特性を理解しなければ。


 そうのめり込むうちに、頭の中の旋律は、鳴り続けるようになった。


 寝ようとしても、旋律が鳴りやむことはない。


 ほどなくして、私は不眠症になった。


 調べると、ブラームスの交響曲第三番の第三楽章のメロディが頭から離れなくなる病気にかかった人もいるという。


 だが、それとはまた異質な呪いでもある気がしていた。


「霧島さん、目の下のクマがすごいけど、大丈夫?」


 そんなあるとき、同級生が声をかけてきた。


 彼女は、王条玲といった。


 学生でありながら既にプロオーケストラとヴァイオリン協奏曲で共演を果たしており、将来を嘱望される天才だ。


 私は常に彼女の次の成績。音大でも常に比較され続けてきた。


『霧島さんもテクニックは完璧だけど、音色に温かみがないよね』


『それに引き換え、王条さんの演奏は技術・芸術性ともに優れている』


 そんな陰口を叩かれるのにも、もはや慣れてきた。


「ちょっと根詰めすぎたかな。そうだ。最近結構希少なオールドヴァイオリンを手に入れて……ちょっと弾いてみる?」


 私はそんな提案をしていた。


 彼女がベルトロッティを手にし、弾きはじめると、途端に私の頭の中の旋律は消えた。


 してやった。


 そう思った。これで彼女の精神も蝕まれ、演奏どころではなくなるはず。


「この楽器、一週間くらい借りてもいい? お願い!」


 彼女もこの楽器の魅力、いや、魔力に憑りつかれたか。まぁいい。彼女も私と同じ目に遭えばいい。そう思っていた。


 だが、何かおかしい。


 そう感じたのは、翌週の彼女のリサイタルでのことだった。


 マスネーの『タイスの瞑想曲』、サラサーテの『バスク奇想曲』、イザイの『無伴奏ヴァイオリンソナタ』と、曲が変わるごとに、音色が全く違うものになるのだ。その違いは、普通の聴衆には分からないかもしれない。だが、私には分かる。


 エルマンのように太い音から、ハイフェッツのようにシャープな音、フランチェスカッティのようにギラギラとした音。レコードの中の巨匠たちの音が、完璧に再現されている。


 そうか。


 彼女の音は、ベルトロッティに吸収されたのだ。次代に遺すべき音色として、かの名器に認められたのだ。名だたる巨匠たちの音色と共に、あの楽器の中に収蔵されたのだ。


 そして、他の収蔵品たる巨匠たちの音色を、自由に使う許可を得た。


 私の魂はベルトロッティに呑まれてしまったが、彼女はその類稀なる芸術性で以て、楽器の方を従わせたのだ。


 私では、到底たどり着けない境地だ。


 それを思い知った。


 所詮私は、音楽の神からも、伝説の名器からも愛されなかったということか。


 私は音大卒業後、民間企業に就職し、二度とヴァイオリンを手に取ることはなかった。

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魔弦使いのギフテッド 川崎俊介 @viceminister

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