覆水壺に返らず
セイロンティー
一本の電話
う~ん、ここのコーヒー、実にいい香りだ。初めて入った喫茶店だったが、前々から狙っていた店なだけある。そしてこのトースト。さっくりふわふわ、バターが染み込んでいて実に旨い。
休日の朝、一人静かにモーニングセットで優雅に過ごすこの時間。なんと尊い時間なのだろう……。
ん? 電話だ。何だろう、全く、折角の素晴らしい時間を邪魔しないでほしいものだ。
あ! こ、この電話は……。
私はアタフタとしながら、スマホの通話ボタンを押した。
「……はい、かしこまりました。では、次に私からお電話をさせていただく際には、そちらの番号におかけすればいいのですね。はい、只今控えさせていただきます」
私はスマホから、今まさに告げられようとしている電話番号をメモに残したかった。だがしかし、生憎紙もペンも手近にはなかった。
一先ず私は、告げられた番号を頭で記憶した。先方との電話が終わった後、すぐに携帯の電話帳に記録すればいいと思ったからだ。
その時だった。私は手をうっかり滑らせてしまい、スマホを床に落としてしまったのだ。慌てて拾い上げたのだが、目の前に広がるのは最悪な光景だった。
私のスマホは見事にひび割れを起こし、最早電話帳どころの騒ぎではなくなっていたのだった。
どうしよう、この間機種変したばかりなのに。いやそれよりも、電話番号だ。先方から預かったとても大切な電話番号を忘れるわけにはいかない。今はまだ記憶に留めていられるけど、早くどこかに書き留めたい、記録したい。久しぶりに大口との契約が取れそうだというのに、不手際があっては全てがおじゃんだ。そんなことになったら部長に何を言われるか分からない。
こんなことなら、わざわざ喫茶店なんかに来るんじゃなかった。いくら休日だからって、わざわざバス賃を払って来たのが間違いだった。大体、コーヒーとトーストなんて、家でも食べれるじゃないか。大して旨くもないってのに。独身で料理もしない身だから、つい人のいる温かさを求めてしまい血迷ったとでもいうのだろうか。
さっきまで絶賛してた喫茶店を一転、悪態まみれにした私。でも許してほしい。それだけ私は今、追い込まれている。大口の先方の大切な電話番号をメモする術が無くなってしまったのだから。
仕方がない。ここは家に帰ってメモするまで、脳内で番号をヘビロテで反芻するしか方法はないだろう。考えてみれば、一昔前の電話番号は、みんな語呂合わせで覚えたものだ。
私は口に付いたトーストのバターを紙ナプキンで拭うと、急いで会計を済まし喫茶店を後にした。
店を出てバス停まで駆け出した私だったが、ハッとしてすぐに足を止め立ち止まった。
万年平社員の私。安月給の身が履く靴底は実に薄っぺらかった。だからアスファルトを駆けると脳にダイレクトに振動が伝わり、その振動のせいで番号が脳から漏れやしないかと危惧したのだ。
歯痒いものの、ここは慎重に行くべきだろうと考えた私。急がば回れとはこのことだ。
私はゆっくりと、なるべく頭を動かさずに、まるでアフリカの人が頭に水の入った壺を乗せて運ぶように慎重に歩いた。その間も頭の中では休むことなく090・・・と先方の電話番号をヘビロテで反芻していた。
バス停を目指して暫く歩いていると、国道沿いの大きな横断歩道の前で小学生たちが募金活動を行っている場面に出くわした。
「ご協力お願いしまーす!」
拙い声だが実に一生懸命にやっているのが伝わる。近くにのぼり旗が立てられており、読むと、成程子供の社会教育の一環とはいえ、実に素晴らしい運動をやっているなと感心した。
「……あの、ご協力お願いします」
横断歩道で信号待ちの私に、募金箱を持った一人の女の子が近寄ってきた。
そりゃあ私にもボランティア精神はある。いくら家路を急ぐ身とはいえ、ここは迷わず募金をするのが人道と思った矢先だった。
私は尻のポケットに突っ込んだ財布に手をかけたまま硬直してしまったのだ。
この女の子、他の小学生の子たちよりもとりわけ背が小さかった。まだ一年生だろうか。この女の子の持つ募金箱に募金するためには、私が屈む必要がありそうだった。
じゃあ屈めばいいじゃないかと言われればその通りだが、それは普段の私なら容易なことだろう。でも今の私の頭の上には、とても大切な電話番号が入った壺が乗っている。もし屈みでもして脳を揺らしたら、番号が壺から零れ落ちてしまうかもしれない。そんなことになってしまえば、部長の逆鱗に触れ、最悪クビ。明日からの生活もままならなくなり、逆に私が物乞いの募金活動をしなければいけなくなる。
信号が青になった。私はあれこれ考えた結果。下した決断はこうだった。
「あ……」
私は女の子に微笑みだけ湛え、横断歩道を渡った。せめて謝るくらいはした方がいいかなとも思ったけど、私の壺からは番号がいつ零れてしまうか分からない状態。余計な会話をして神経を乱してはいけないと判断した。なんという外道だろうと思ったたし、後ろ髪引かれる思いも当然あったけど、今は壺を安全に家まで運ぶことが先決だと私は心を鬼にした。
また暫く歩いていると、駅前の路上でギターを持って弾き語りをしている男が目に入った。
朝っぱらから弾き語りなんて珍しい。しかし、何かと忙しないこの時間帯に、そんなバラードを聞く余裕なんてないと思うのだが。夜の酔っ払いが出没する時間帯に歌えばいいのに。
当然というか、彼の歌を聞こうとわざわざ立ち止まる人は一人もいなかった。まあ時間帯もそうだが、彼の歌唱力にも問題がありそうな気もするけど。
私も例に漏れず。彼の前を素通りしようとした。すると、恐らくサビに入ったんだろう。彼は気持ちよさそうに目を瞑った。そして再び目が開いた瞬間、私と彼は目が重なった。
少し気まずかった。しかし、彼はそんなことはないのか、寧ろ私と視線が合ったのを喜んでいるようだった。しきりに私の方を見ながら相変わらず気持ちよさそうに歌っている。
彼はどうやら自分の歌を聞いてくれる人をロックオンしたらしい。気持ちよく歌唱中のため、当然直接言われたわけではないのだが、そこを離れるなと言われている様な圧が私にのしかかってきたのだ。
どうしよう。このまま悠長に、こんな下手な歌を聞いている場合じゃない。こうしている間にも、番号の下3桁が怪しくなってきているというのに。もう090は確定ということで、4桁目からを重点的にヘビロテしようか。いや、今更ルールを変更すると、それこそ動揺して危険だ。
その時だった。彼は急にとんでないことを口走った。サビが終わり、曲調が少し変化したかと思えば、彼は急に「12月24日と12月31日は君と一緒に居たいね。もちろん君の誕生日の3月8日と僕たちが出会った日の5月31日にも一緒に居よう……」と、急に歌詞の中にありとあらゆる数字をぶち込んできたのだ。
止めろ、止めてくれ! 私の脳内は電話番号で一杯なんだ。そんなところに、余計な数字を刷り込まないでくれ!
私はとうとう我慢ならなくなり、彼に大声で怒鳴った。
「毎日一緒にいればいいじゃないか!!」
私の怒鳴り声で、彼はビクりとしてギターを落としたが、暫く何事かを考えこんだ後、私に言った。
「お兄さん、それいいアイデア! どうもしっくりこなかったんだよねここの歌詞。そう歌えばいいんだ! 毎日一緒にいればいいじゃないか~ララララ~」
彼は目をキラキラさせて私に感謝の意を表した。私は適当にあしらってその場を急いで後にした。
とうとう私は家にたどり着いた。ここまで非常に長く険しい道のりだった。帰りのバスに乗っている間も、車内広告アナウンスが突然鳴り「……へお越しの際はこちらで降りられると便利です。電話番号、03……」と言うもんだから、すぐさま私は両耳を塞ぎ、何とか事なきを得たのだが、すっかり精神をすり減らしてしまった。
危機一髪の道のりだったが、その苦労もようやく報われる。私は急いで紙とペンを探した。しかし、こんな時に限って見つからない。あたふたする私。そうやってバタバタと足を踏み鳴らしていると、何かが足の指に触れた。
見るとテレビのリモコンだった。うっかり電源を押してしまったようで、パッとテレビが付いてしまった。
「……それでは、この万能フライパンセット、お求めの際はフリーダイヤル、0120……」
私はその瞬間、脳内の大切な先方の電話番号が全て、テレビショッピングのフリーダイヤルに置き換わってしまった。
膝をつき項垂れる私。こんなことなら、あの喫茶店にあった紙ナプキンに指を嚙み千切った血文字でもいいから番号を書けばよかった。
茫然となった私。目の前に見えた固定電話から電話をかけた。その電話番号は覚えたてホヤホヤだから間違えるはずもなかった。
「もしもし、テレビ見ました。万能フライパンセット一つください」
これからはちゃんと自炊をしよう……。
覆水壺に返らず セイロンティー @takuton
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます