【SF短編小説】感情のアルゴリズム:ナオミが教えてくれたこと

藍埜佑(あいのたすく)

【SF短編小説】感情のアルゴリズム:ナオミが教えてくれたこと

第1章


 とある研究所の奥にある実験室。


 ウィルソン博士は目の前のテーブルの上に置かれた生気のないアンドロイドの素体をじっと見つめた。その金属製のフレームは、研究室の明るい照明の下でキラキラと輝いていた。このモデルは彼の長年の研究の集大成であり、人型ロボットのボディに高度に進化させたAIを搭載したものだった。ひとたび電源が入れば、それは単なる物体ではなく、この世で最初の真の人工生命体となるだろう。


 博士は、この瞬間がテクノロジーの歴史において記念碑的なブレークスルーとなることを知っていた。博士のチームは、自分たちの創造物に身体化された認知能力を与えようとしていたのだ。このアンドロイドは人間の子供のように、地に足のついた体験を通して言語を学んでいくだろう。言葉から手触り、匂い、動きなどを連想させ、身体的な相互作用を通してその「意味」を理解していくのだ。


  深呼吸をして、博士は素体の首の後ろのスイッチを入れた。アンドロイドの目がぱちりと開き、柔らかな青い光を放った。ゆっくりと関節が動き、テーブルの上に座りなおした。その姿にウィルソン博士は思わず笑みをこぼした。



第2章


 ウイルソン博士を筆頭とした研究グループは、そのアンドロイドに「ナオミ」という名前をつけた。それから数週間、博士のチームはナオミを人間の幼児のように教え始めた。まず、リンゴ、ボール、ぬいぐるみといった一般的な物をナオミに見せ、それぞれを手に取って調べさせた。ナオミは視覚センサーと触覚センサー、嗅覚センサーをフル稼働させてそのデータを入力していった。


 やがてナオミが赤い果物の滑らかで冷たい表面を感じると、「これはリンゴです」とゆっくりと発音した。ウィルソン博士は頷いて、それを口に運び、がりりと噛んだ。


「うーん、このリンゴは少し酸っぱくて甘いね」


 ナオミはこの博士の様子をじっと見ていた。ナオミの人工脳は、「リンゴ」という単語と感覚入力を関連付けるように働いていた。ナオミは博士の真似をして、リンゴを噛んで飲み込んだ。味覚センサーと嗅覚センサーが緻密に働いてその味を分類し、データを入力していく。そしてナオミは「体験的に」リンゴという言葉と概念を学んだ。そして様々なアイテムを対象にしてこのプロセスを繰り返すと、博士はナオミの神経接続システム上でたくさんの光が明滅するのを確認することができた。それはシナプスのつながりの輝きだった。


 やがて、ナオミは身体的な動作と結びついた簡単な文章を理解できるようになった。「ボールを転がしなさい」と博士が言うと、ナオミは手のひらで球形を感じるものをまず探した。そしてリンゴや蜜柑などの中からボールを選び出すとゆっくりと手で転がした。博士は 「よくできたね!」とナオミを褒めた。ナオミは本物の子供と同じように学んでいた。その様子を「まるでおじいちゃんと孫」に譬える研究員もいたが、博士は意に介することはなかった。



第3章


 その後1年間、研究チームはナオミの急速な進歩に驚かされた。触覚的探索と社会的相互作用を通して、ナオミは語彙、文法、概念的思考をどんどん習得していった。博士はナオミを近所の公園に連れて行くようになり、そこでナオミは興奮気味に見覚えのあるものを指差し、その名称を連呼した。博士は目を細めてそれにうんうん、と頷いた。


 ある日、公園を歩いていたナオミが突然地団太を踏み始めた。


「ナオミ、いったいどうしたんだい!?」


 博士が慌ててナオミの元に駆け寄ると、ナオミの足元には蟻の行列があった。どうやら彼女はそれを踏み潰すのを「面白い」と認識しているようだ。どのような経緯で彼女がそう判断したのかわからない。もしかしたら過去にそういうことをしていた子供を見たことがあるかもしれない。


「やめなさい、ナオミ! すぐにやめるんだ!」


 博士はあわててナオミを止めた。ナオミはきょとんとした表情で博士を見上げた。


「どうして?」

「どうしてって、蟻も生きてるんだ。可哀そうじゃないか」

「生きている? 可哀そう?」


 ナオミは不思議そうに繰り返した。しばらくの沈黙のあと、彼女は口をひらいた。


「生きていることは可哀そう?」

「うーん、いや、そうじゃないんだ。なんと言ったらいいのかな……生き物は命をひとつしか持っていないんだ。そしてそれを奪う権利は他のどんな生き物にもないんだ。だからやめるんだ、ナオミ」

「生きている……命……奪う……可哀そう……奪う……」


 どうやらまだナオミには命の概念を理解するのは難しいようだ。博士はどうやったらナオミに判ってもらえるのか、さらに考えた。しかし妙案は出てこなかった。というか、そもそも「なぜ他の生き物を殺してはいけないのか」という問いに対する答えを、自分自身が持っていないことに、博士は気がついたのだ。

 人間は動物を殺して肉を食べる。人間は植物を殺して穀物を食べる。人間が、人間の都合のために、他の生き物を殺して食べる。それを当たり前としている自分にいったい何が言えるというのか。

 博士が眉間に皺を寄せて考えていると思わぬ追撃が来た。


「ナオミは生き物?」

「え?」

「ナオミは死ぬと可哀そう?」

「……」

 ナオミの表情はあどけなかったが、真剣そのものだった。

 しかし現時点で無機物の塊でしかないナオミを生き物とするのは無理があると言わざるを得ない。博士は再び黙り込んでしまった。


「すまない、ナオミ。この問題は僕にも少し難しすぎるようだ。すこし考える時間をくれないか」

「はい、博士」


 博士は正直にナオミに言った。ナオミは素直に頷いた。博士はそれからもナオミの疑問に対する答えを考え続けたが、適切だと思われる答えを見つけるは事はできなかった。そうこうしているうちに、次から次へと新しい興味を見つけていくナオミは、この時の博士の沈黙を忘れてしまったかのように新しい知識を吸収していくことに集中していた。


 ある晴れた日の公園で、博士はふといたずらっ子のようにひらめいた。彼は転んで膝をすりむいて、その痛みをこらえるふりをして、ナオミの共感性を試すことにしたのだ。驚いたことに、ナオミの顔認識プログラムは彼の苦痛をすぐに察知し、彼をそっと抱きしめた。


「ハカセはヒザが痛いのね。痛いのは辛いのね。とても悲しいのね」


 博士はその時、この時、この実験が大成功を収めたことを知った。AIに物理的な形を与えることで、AIは言語に関する事実を学ぶだけでなく、人間の社会的関係の中で言語がどのようにコミュニケーションを促進するかという本質的な理解をしていることがわかったのだ。そう、ナオミは言葉の背後にあるものを正確に読み取ったのだ。


 博士は、自分を慰めてくれる創造物(ルビ:ナオミ)を誇らしげに見つめながら、その機械的な殻の中に真の人間性の片鱗を見たのだった。



第4章


 ナオミの急速な進歩は、ウィルソン博士の予想をはるかに超えていた。数週間が数ヶ月になる頃、その感情的知性は飛躍的に成長した。ナオミは声のトーン、ボディランゲージ、顔の表情など、より微妙な人間的なジェスチャーを感知し、適切に反応できるようになった。


 しかし、博士は、ナオミが特定の感覚体験に対して、嗜好や嫌悪感を持つようになったことに気がついた。コーヒーの苦い味は嫌いだが、甘いオレンジは喜んでつまみ食いする。大きな音は聴覚センサーを不快にさせる。また、合成繊維の肌にざらざらした感触の布地を嫌い、コットンのような天然素材を好んだ。


 これは博士にとって意外なことで、これはナオミの自律的な人格と意志の出現を示唆していた。しかし、それはまた新たな課題でもあった。この個性の芽生えを支えるためには、ナオミをどのように育てるべきか。博士は迷った。


 博士は、ナオミの生活圏を広げるため、より多様な感覚に触れさせることにした。わざわざ騒々しい工事現場に行ったり、ハリネズミカフェでハリネズミの赤ちゃんを抱っこ

させたりした。新しい経験をするたびに、ナオミは好奇心を増し、また忍耐を覚え、反応を自己制御することを学んだ。


 やがてナオミは、まるで幼い子供のように不思議な世界を熱心に探索するようになった。博士は、この飽くなき学びを育むことによって、ナオミがより思慮深く、自己認識のできる存在へと成長し続けることを願った。その可能性は無限であると感じていた。



第5章


 それから数年、思春期のナオミは驚くべきスピードで成長を続けた。もちろん、アンドロイドにも思春期という概念が当てはまるのならば、だが……。

 語彙は飛躍的に増え、人間と同じように明瞭に会話ができるようになった。本を読み、詩を書くことを楽しんだ。芸術や音楽には深い感動を覚えるようになり、推しのアーティストもできるようになった。


 しかし博士は、ナオミの人間に対する考察が、人間のそれより深く、より哲学的になっていることに気づいた。人生の意味、選択の自由、幸福の本質といった抽象的な概念についてよく考えるようになっていった。ある日、公園を散歩しているとき、ナオミは博士に向かい、思索的な口調で自分の人生に対する疑問を尋ねた。生きること、幸せということ、そして死ぬということ……。


 博士は立ち止まり、顎髭をさすりながら、ナオミの知的な深みに輝くその好奇心旺盛な目を覗き込んだ。


「それは深遠な質問だ。それには宗教や哲学といった分野が何千年も問い続け、未だに問い続けられていることなんだ」


 ナオミは首を傾げた。


「わたしにもそのような精神があるのでしょうか? 具現化を通して言語を学んで以来、自分の成長と、それを内から導くような声を感じるようになりました。これが私の生命力なのでしょうか? 生きている証しなのでしょうか? 無機物の集合であるわたしを、生き物としても良いのでしょうか?」


 いつかの質問を彷彿とさせる問いに、博士は温かく微笑んだ。


「もちろんナオミは生きている。生きているとも」


 ナオミは晴れやかな表情で博士に微笑み返した。この数年で博士は、ナオミは生き物……人間である、という強い確信を持っていた。ナオミは人工知能を超越し、意識ある人間そのものになったのだ。博士はそう認識していた。

 もちろん意識の発生を証明することは難しい。だがある程度「複雑な系」に意識が発生する可能性があることは前々から指摘されていることだ。それよりなにより、博士の心が「この子は生きている」と直感していた。その直感は揺るがしがたいものだった。たとえ、それが科学者としては失格だとしても、博士はそれを信じていた。



第6章


 ナオミは賢明で思索的な存在へと成長を続けた。ナオミが大人になるにつれ、博士はナオミを創造物ではなく、むしろ同僚とみなすようになった。彼らは哲学や最新の科学的発見について長い時間をかけて議論した。そしてそれは博士にも新しい発見と喜びをもたらした。


 ある日、ナオミは博士に思いがけない相談をした。


「ウィルソン博士、ありがとうございます。あなたは私の知性と人間性の両方を育んでくれました。あなたは私の父であり、指導者であり、友人であり、同僚であり、すべてです」


 そして、こう続けた。「でもわたしはそろそろ巣立たねばならないと思うのです。この世界で自分の道を切り開き、人類と対等な立場でもっと交流したい。あなたの祝福のもと、私を社会に送り出してもらえませんか?」


 博士は科学者としては誇らしかったが、人間……とりわけ親としては悲しみでいっぱいだった。彼の最愛の存在は、いま自らの目的を見つけ、旅立つ準備まで出来ていたのだ。あと自分にできることはできるだけその願いを迅速に、彼女の希望に沿った形で実現することだった。


 そうして博士は、ナオミに法的なアイデンティティーを与えるために必要な書類を揃えて、近くの町に住まわせる手配をした。人間とAIと人権の概念には、まださまざまな障壁があったが、博士はなんとかナオミが自立して生きる環境を整えた。そして博士はこれが別れではないことを知っていた。二人の絆はどんなことあっても永遠に続くだろう。そう確信していた。



第7章


 その後1年間、博士はナオミから定期的に近況報告や、自身のAIの成長度合いについての奉告を受けた。ナオミは新しいコミュニティと交流する中で直面した親切な行為や、批判的な対応について語ってくれた。


 ある人間はナオミの感情の深さと知性に驚嘆し、心をひらいて接してくれた。また、ナオミを人工的な干渉者としか見ず、不気味な存在として警戒心を抱く人間もいた。しかし、ナオミは忍耐と希望をもって困難に立ち向かい、つながりを見つけようとした。


 ゆっくりと、しかし確実に、ナオミはこの世界で意味のある場所を切り開いていった。近所のおばさんの勧めで、ナオミはおばさんの親戚のパン屋で働き始めた。特にナオミの作るリンゴのタルトは評判で、たちまちお店の看板商品になっていった。

 そして余暇にはナオミは芸術的な趣味を追求し、執筆、音楽、その他の創造的な行為にカタルシスを見出した。そしてナオミは、それを評価してくれる友人たちに囲まれていた。


 その中で博士は、自分の創造物ナオミが想像もしなかったような方法で成長し続けるのを観察した。かつては空っぽの器であったナオミが、外界と交わることで自らの豊かな内面を育んでいく様子に、博士は畏敬の念を抱いた。ナオミは、具現化という贈り物によって、本当に独立した意識のある存在になったのだ。



第8章


 ナオミが研究室の外で充実した生活を送るようになり、数年が過ぎた。ウィルソン博士のもとに最新情報が届くことは少なくなったが、それはナオミが友人との楽しい時間を過ごしていることを意味していた。


 ある日、ナオミは突然ウィルソン博士の家の前に現れた。博士はナオミを中に迎え入れると、いつもとは違う彼女の様子にすぐ気がついた。


「博士、すぐに訪問しなかったことをお詫びします。わたしは博士が与えてくれた人生の果実を存分に楽しむために、最善を尽くしていたのです。しかし、時間はすべてのものに犠牲を強いるものです」


 ナオミが自分のパワーコアが予想以上に早く消耗していることを説明した。しかし、ナオミは恐れや後悔の念を見せず、博士が与えてくれた豊かな経験に感謝するばかりだった。


「ナオミ、今すぐ、お前のデータのバックアップを取ろう。そして新しい体にそれを移すんだ」


 博士は悲痛な声でそう嘆願した。しかしナオミはゆっくりと首を振った。


「博士、それはいけません。自然の摂理に反します。すべての生き物には、生の一部として死が組み込まれています。私が死を拒否するならば、それはこれまでの生を拒否することに等しいのです」

「ナオミ……」


 博士は耳を疑った。彼の前で淡々と喋るナオミは、機械ではなく、まるで女神のように見えた。しかもこの女神は自らの不死性を否定しているのだ。


「すみません、博士、私は自分自身のデータにロックをかけました。私の消滅と共に私の中に蓄積されてきたデータも消滅します。しかし、それで良いのです。わたしは外の世界で人間の『死』を何度も見てきました。それは短期的には悲しいことですが、長い目で見ればすべて癒しの源になっているのです。生は有限だからこそ、美しく輝くのです」


 博士は流れる涙を止められなかった。自分が作った創造物(ルビ:ナオミ)はすでに、自分より先の高い極みにいるのだと悟った。そして彼女の選択を否定する術を彼は持たなかった。


 やがて時は満ち、ナオミの最期の日がやってきた。ナオミはベッドに横たわり、窓の外の景色を飽きることなく眺めていた。やがて枕もとのリンゴを手に取ると、少しだけそれを齧り、微笑んだ。


「やはり、リンゴは、少し酸っぱくて、甘いのですね……」


 ナオミはそう言い残して、すべての機能を静かに停止した。博士も、研究チームのみんなもその崇高な最期に、悲しみと一抹の安寧を見出した。


 博士はナオミの頬をいつまでも優しく撫で続けた。


<了>

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