あっという間に2月。今日は雪が降るかもしれないとのことでした。
そして、いつものです。
●【TS転生アイヌ短編小説】時を紡ぐ少女 ~アイヌの心を受け継いだ魂の記録~(9,955字)
https://kakuyomu.jp/works/16818093093227420246 本編のアナザーワールド的な百合物語です。
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『二つの時を生きる恋』
胆振の春は遅い。雪解けを待つ大地に、ようやく新芽が顔を覗かせ始めた頃、フレペは運命的な出会いを経験することになった。
村はずれの小川で薬草を採っていた時だった。上流から、誰かが歌うユーカラ(叙事詩)が聞こえてきた。透明感のある少女の声が、春の空気に溶け込むように流れてくる。
「懐かしい声……」
フレペは思わずつぶやいた。八十五年後の記憶の中で、この声の主を知っている。貝澤シゲ。アイヌ文化の伝承者として、佐藤雅彦の重要な研究協力者となる人物だ。しかし今、その声の主は若く、フレペとほぼ同じ十五の春を生きていた。
「あ、ごめんなさい。邪魔をしてしまいましたか?」
シゲは薬草を摘むフレペに気づき、歌を中断した。その表情には、はにかみと気品が同居している。フレペの中の研究者の記憶が、九十二歳のシゲの姿を重ね合わせる。しかし目の前にいるのは、まだあどけなさの残る少女だった。
「いいえ、とても素敵な歌声でした」
フレペは微笑みを返した。シゲの頬が薄く染まる。
「私、シゲと言います。隣村から薬草を採りに来たんです」
「私はフレペ。この村に住んでいます」
二人は自然と会話を始めた。薬草の知識を交換し合い、それぞれの村の様子を語り合う。シゲの物語る様子には、既に後年の語り部としての才能が垣間見えた。
「フレペさんは、織物もされるんですよね?村の噂で聞いています」
「ええ、母から教わっています」
「私も、祖母から少しずつ習い始めたところなんです」
シゲの目が輝いた。その純粋な憧れの眼差しに、フレペは奇妙な感覚を覚えた。研究者としての記憶では、シゲから教わることの方が多かった。しかし今は、互いに学び合える立場にいる。
「よかったら、一緒に織物をしませんか?」
言葉が自然と口をついて出た。シゲの表情が明るく綻ぶ。
「本当ですか?ぜひお願いしたいです!」
それから、シゲは時々フレペの村を訪れるようになった。二人で織物を織りながら、様々な話をする。シゲの織る文様には、独特の優美さがあった。
「シゲさんの文様には、物語が宿っているようです」
「フレペさんこそ。不思議な深みがある。まるで、遠い時代の記憶が織り込まれているみたい」
その言葉に、フレペは密かに戸惑いを覚えた。確かに自分の中には、未来の記憶が存在している。しかし、それはシゲに打ち明けることのできない秘密だった。
夏が近づき、二人の距離はさらに縮まっていった。時には山野を歩き、薬草を採取しながら語り合う。シゲの澄んだ笑い声が、フレペの心を温かくした。
「フレペさんと話していると、安心できるんです」
ある日、シゲがポツリと言った。
「まるで、ずっと昔から知っている人みたい」
フレペは複雑な思いを抱えながら微笑んだ。研究者としての記憶の中で、シゲは確かな導き手だった。しかし今、目の前にいるシゲは、まだ人生の入り口に立ったばかりの少女。その純粋さに、フレペは切なさを覚えた。
「私も、シゲさんといると不思議と懐かしい気持ちになります」
それは嘘ではなかった。シゲとの時間は、未来の記憶と現在の感情が溶け合う、特別な瞬間だった。
真夏の午後、二人は村はずれの木陰で休んでいた。シゲが持参した干し肉とシトを分け合いながら、ゆっくりと時が流れる。
「フレペさん、私、言いたいことがあります」
シゲの声が、いつもより少し震えていた。
「私、フレペさんのことが……」
その瞬間、フレペの中の二つの記憶が激しくぶつかり合う。研究者としての理性が、これは起こってはならない展開だと警告する。しかし、十五歳の少女の心は、確かにシゲに惹かれていた。
「私も、シゲさんのことが好きです」
フレペは、頬を赤く染めながらも、はっきりとした声で告げた。シゲの目が大きく見開かれ、そして涙がこぼれ落ちた。それは喜びの涙だった。
「本当ですか?私、夢を見ているみたいです」
シゲが震える声で言う。フレペは答える代わりに、そっとシゲの手を取った。二人の指が絡み合う。未来の記憶など、この瞬間には何の意味も持たない。今、ここにある想いこそが、何より尊いものだった。
「シゲさんと出会ってから、私の織る文様が変わったんです」
フレペは静かに語り始めた。
「あなたのことを想いながら織ると、不思議と懐かしい文様が生まれる。まるで、遠い未来の記憶が、今ここに流れ込んでくるみたい」
「私にも分かります」
シゲが柔らかく微笑む。
「フレペさんの織る文様には、言葉にできない不思議な何かが織り込まれている。でも、それは怖くないんです。むしろ、その神秘的な部分にも惹かれている」
二人は黙って見つめ合った。やがてフレペが、そっとシゲに寄り添う。二人の間に流れる時間が、ゆっくりと溶けていくような感覚。
「これは夢かもしれない」
フレペは心の中でつぶやいた。しかし、もしそうだとしても構わない。シゲの温もりは確かに実在し、この想いは真実なのだから。
「フレペさん」
シゲが囁くように呼びかける。
「はい」
「私たちの関係を、誰も理解してくれないかもしれない」
「分かっています」
「でも、それでも」
「私は、シゲさんと共にいたい」
フレペの言葉に、シゲはそっと頷いた。
それから、二人の密やかな恋が始まった。人目を避けるように、時には深い森の中で、時には月明かりの下で逢瀬を重ねる。互いの織物に、その想いを密かに織り込んだ。
「この文様は、私たちの愛の記録」
シゲがそう言って織った帯には、誰も見たことのない不思議な模様が浮かび上がっていた。フレペもまた、シゲへの想いを込めた文様を織り続けた。未来の記憶さえも、その中に溶け込んでいく。
しかし、現実は非情だった。シゲの家族が、彼女の縁談を進めていたのだ。
「私、逃げ出そうと思います」
ある夜、シゲが涙ながらにフレペに告げた。
「シゲさん……」
「フレペさんと一緒に、遠くへ行きたい」
フレペは、胸が張り裂けそうだった。未来の記憶が、これは起こってはならないと警告を発する。しかし、今のフレペには、シゲ以外の未来など考えられなかった。
「行きましょう」
フレペは、シゲの手をしっかりと握った。
「でも、どこへ?」
「私の母方の親戚が、遥か北の地にいます。そこなら」
現実逃避かもしれない。歴史を変えてしまうかもしれない。でも、それでも。この想いは、諦めることができない。
二人は、月の明るい夜を選んで逃げ出すことを決めた。必要最小限の荷物と、互いの織った布だけを持って。
二人は、月の明るい夜を選んで逃げ出すことを決めた。必要最小限の荷物と、互いの織った布だけを持って。
暁闇の中、二人は息を潜めて村を後にした。フレペの案内で、人知れぬ山道を北へと進む。シゲの手は小さく震えていたが、その目には強い決意が宿っていた。
「怖くないですか?」フレペが囁くように尋ねた。
「フレペさんと一緒なら、どこへでも」シゲの答えは迷いのないものだった。
七日かかって、二人は目的地にたどり着いた。オホーツク海を望む小さな村。フレペの母方の親戚は、二人を温かく迎え入れてくれた。
「あなたたちの事情は聞かない。ここで、好きなように暮らしなさい」
老いた叔母の言葉に、二人は深く頭を下げた。
海を見下ろす小さなチセで、新しい生活が始まった。朝は共に海辺で貝を採り、昼は二人で織物を織る。シゲの織る文様は日に日に美しさを増し、フレペの文様は未来の記憶と現在の幸せが溶け合ったような神秘的な模様となった。
「私たち、きっと前世でも一緒だったのかもしれませんね」ある夜、シゲがフレペの髪を梳きながら言った。
「そうかもしれないわ」フレペは微笑んだ。未来の記憶の中で、シゲは確かに特別な存在だった。そして今、さらに大切な人になっている。
二人の織物は、次第に評判となっていった。「二人娘の神秘の文様」と呼ばれ、遠方からも買い求めに来る者があった。その収入で、二人は豊かとは言えないまでも、安定した暮らしを築いていった。
春には山菜を摘み、夏は海で魚を獲り、秋には木の実を集め、冬は炉端で寄り添いながら織物を織る。そんな穏やかな日々が、静かに流れていった。
「フレペさん」ある冬の夜、シゲが囁いた。「私、こんなに幸せでいいのかと、時々不安になります」
「大丈夫よ」フレペは、シゲをそっと抱きしめた。「私たちの幸せは、きっとカムイさまも望んでいることだから」
歳月は優しく過ぎていった。二人の髪に白いものが混じり始めても、互いへの想いは少しも色褪せることはなかった。
「私たちの織った布は、いつか伝説になるのかもしれませんね」年老いたシゲが、ある日ふと言った。
「ええ。永遠の愛の証として」フレペは答えた。
そして実際、二人の織った布は「恋文様」として、後世まで語り継がれることとなった。二つの魂が織りなす神秘の文様は、見る者の心に不思議な感動を呼び起こすという。
永遠の輪の中で、二人の魂はこれからも、寄り添い続けていくのだろう。遥かな北の地で紡がれた愛の記憶は、時を超えて、永遠に輝き続けるのだ。
(了)