■■■じじい
杉林重工
■■■じじい
「う■こじじいの見舞いなんて誰が行くか。勝手に死ね」
おれは窓の外を見ながら言った。風がないからか、粉雪は窓の外で止まって見える。この分だと、明日の電車が止まる程は積もらないだろう。たんまりと積もってくれれば、明日の会社に遅刻する理由ができるのに。これだから東京は。
「聞いてくれ、隆司。おじいちゃん、本当に危ないんだ。生きている内に会って欲しい」
ついさっきトイレから戻ってきた父は、改めて深く椅子に座り直し、何度目かの言葉を口にする。顔色は良くない。おれは無言でコーヒーカップに手を伸ばす。しかし、もう空っぽになっていた。もう一杯注文したい気分だ。この喫茶店の店員は、テーブルの雰囲気を察してか、あまりこちらに寄り付かない。まるでマネキンのように固まり、遠くを見つめたままだった。
「隆司、聞いているのか」父は身を乗り出して訊ねる。おれは思わず、椅子の背凭れまでぴったりと身を引いて、顔を背けた。
「聞いてるよ。でも、おれはおじいちゃん、否、あの、う■こじじいのせいで学校で苛められたし、正直言って嫌いだ」
おれのおじいちゃんの渾名はう■こじじいだ。理由はシンプルで、おじいちゃんがう■こ臭いからだ。近所の子供達はおろか、大人たちの間でも有名で、おれは学校で一度もう■こを漏らしたことがないのにう■こまんと呼ばれたこともある。特に臭いは強烈で、まったく関係のないおれが、風呂にきちんと入って、家の外で干されっぱなしの服を着て行ってもう■こ臭いとよく言われた。
とにかく嫌いだったので、おれからおじいちゃんに寄って行ったことはなく、会話すら、記憶にない。ただ、静かに、黙っておれの事を見つめるあの視線だけを覚えている。正直言って、気味が悪かった。妹も、おじいちゃんのことを嫌っている。おじいちゃんには話してもいない、学校の成績や友達との会話を勝手に把握していたらしく、それをとても気持ち悪がっていた。
「違うんだ、隆司。あれは、仕方のない事なんだ。だから頼む。見舞いに行ってくれ」
父はついに頭を下げて懇願する。なにが仕方がない、だ。おれの気持ちは変わらない。
「仕方ないって、父さんも母さんも、じいさんがう■こ臭い理由なんて知らないんだろう」
子供の頃こそ、う■こ臭くて嫌いだったおじいちゃんだが、ある程度年を食えば、その理由をふと考えることもある。だが、それに対して父も母も首を傾げるばかりだった。つまり、おじいちゃんはただ臭いだけの不快な老人なのだ。
「違うんだ。それは、嘘だ。だから頼む。タクシーも呼ぶから、一緒にすぐ行こう」
父も随分と粘る。おじいちゃんの体調が悪くなり、入院したとは、二か月前から聞いている。それから度々、そして最近になって『いよいよ』らしく、ついに父が会社近くまで現れたのだ。
「嫌だ。まあ、葬式ぐらいは考えるから、帰ってくれ」
葬式なら、会社をサボり同僚に仕事を押し付けるいい機会にもなる。せめて、それくらいは役に立ってほしいと思った。
「違う。生きている間に会って欲しい。おじいちゃんだって、お前のことを、誰よりも大事に思っているんだ」
何を言っているのか。おじいちゃんと手を繋いだ事すらないのに。
「父さんも、なんでそんなにあのう■こじじいに執着するんだ。意味が分からない」
おじいちゃんを肯定する人間は、地元でも父ぐらいだろう。おばあちゃんですら、おじいちゃんについて何も語らず死んでいったのだ。しかし、久しぶりにこうして面を合わせると、父が必死がるその気持ちは少しわかった。父とおじいちゃんは、ある意味同族なのだろう。おれは父も苦手だった。
「違う。違うんだ」
父は首を振った。あまりに悔しさを滲ませる様子に、おれは内心辟易した。おれは財布を開き、千円札を取り出す。もう帰ろう。明日も会社だ。これ以上父と喋ると、臭いが移りそうだ。
「待ってくれ、隆司。わかった。全部話すから、おじいちゃんの見舞いに行こう。本当に、時間がないんだ」
「全部話すってなんだ」
おれの言葉に、父は深く息を吸って、背筋を伸ばした。一体何が始まるのだろう。おれもつい、その様子を注視する。
「お前のおじいちゃんは、『う■こを漏らすと時間を止めることができる』能力者なんだ」
「……はあ?」
そしておれは絶句した。何を言っているのか、理解ができなかった。
「お前のおじいちゃんは、『う■こを漏らすと時間を止めることができる』能力者なんだ」
「二回も言わんでいい」
おれは周りを気にした。
「おじいちゃんはな、その能力で世界を、危機一髪という瀬戸際で、何度も救ってきた英雄なんだぞ」
「そんなわけあるか。そんなわけ……」
「お前は確かに苛められていたな。でも、少し暴言を吐かれただけで、実害はなかっただろう。全部、おじいちゃんが懲らしめてくれたからだ。時間を止めて、お前が暴力を振るわれそうになったらいつも助けてくれたんだ」
父の言う通り、おれは暴言こそ吐かれたが、暴力はなかった。机や椅子にいたずらされたり、というのもない。
「まさか、どんなに風呂に入って服を洗っても、おれがう■こ臭かったのは……」
「おじいちゃんが、いつも傍にいて、お前を守ってくれていたからだ。お前が一度、ジャングルジムから落ちて大怪我しそうになった時も、おじいちゃんが危機一髪、助けてくれたんだぞ。それがなかったら、今頃お前は首の骨でも折って、死んでいたかもしれない。高校受験に遅刻しそうになった時だってそうだ。その度、おじいちゃんはう■こを漏らしてお前の傍にいたんだぞ」
「そんな、馬鹿な」
「おじいちゃんは、ずっと寂しがっていた。よく夜中、う■こを漏らしてお前を抱きしめていることもあったんだ」
「それはシンプルに気持ち悪いだろ」
「それはそうか」
「つまり、父さんは、おじいちゃんに悪気がなかったから許してくれって、そう言っているのか。おれと、世界を何度も救っているから、許せと」
「そうだ。仕方なかったんだ」
おれは考え込んだ。思い返せば、そんな気もする。地元ではう■こ臭いと言われ続けたおれも、大学で都会に出てからはそう呼ばれることが大いに減った。おじいちゃんが傍にいなかったから、と考えれば合点がいく。おじいちゃんが妹のプライベートを知りすぎていたこともわかる。
「納得は、できない」おれは机の下で拳を握った。
「隆司……」
「なんで隠してたんだ」おれは声を震わせて訊ねた。
「それは、危険だからだ。世間にばれれば、どんなことに巻き込まれるかわからない。それから、守るためだったんだ。理解してくれ」
「……」
「言っておくが、お前や、父さんが今ここにいるのも、おじいちゃんがおばあちゃんの前で『う■こを漏らすと時間を止めることができる』能力を使ったからだ。おばあちゃんが車に轢かれそうになっている所を、おじいちゃんが危機一髪、う■こを漏らして助けたんだ。二人の出会いはそれから始まったんだ」
「そりゃ言えるわけがないわな」
おれは納得した。そして、思わず笑ってしまった。
「で、いつまで持つんだ」
おれは徐に立ち上がった。
「わからん。今日が峠だって……」父は俯いて答える。おれは首を振った。
「違う。わかってないな」おれは溜息をついた。父は不思議そうに顔を上げた。
「おれが知りたいのは、父さんの能力だよ」
「……気付いていたのか」
窓の外の粉雪は、ふわふわと舞っているから地面に落ちないのではない。本当に、微動だにしないのだ。さっきから動かない喫茶店の店員も、それが単にサボっているからではない。瞬き一つしないなんて異常だ。おじいちゃんがう■こを漏らして時間を止めている最中に起きていた出来事を、父が知っているのも異常だ。それに、
「さっきから、ゲロ臭いんだよ」
おれは悪態をつくように言った。父は目を丸くした。そして、納得するように頷いた。
「そうだ。父さんは『ゲロを吐き散らすと時間を止めることができる』能力者なんだ」
「親子そろって汚ねえな」
「面目ない。それと時間なんだが……うえっぷ、そろそろだ。お前が納得しないから、一分一秒が惜しくて……」
そういうが早いが、父はその場で蹲り、床に向かって思いっきり吐瀉物をぶちまけた。父の昼食はラーメンか、なんて考えていると、ふと、窓の外の雪が風に煽られ、夜天に舞っていることに気づいた。続いて、店員が悲鳴を上げた。
「お客様!」
「大丈夫です。御心配なく」
父は平然とそう言って、ハンカチで口をぬぐった。店員が心配しているのはお前ではなく、店の床に決まっている。それより、お前もゲロを片付けろ。そう思った。と、スマートフォンの着信音が響き、父は慌ててポケットを探った。
「え? 父さんが!」
父の血相が変わった。すでに青白かったその顔が、骸骨のように細く枯れる。
「隆司、もう時間がない。もしかしたら、間に合わないかもしれない!」
父はおれの服を引っ張る。だが、おれは動かない。
「どうしたんだ、お見舞いに行こうと……」
父さんも気付いたらしい。窓の景色がまた、変わらなくなっていること。そして、ゲロまみれの床に困惑する店員も同じく、動かないことに。
「おしっこまみれでも、おじいちゃんなら許してくれるかな」
「隆司、まさかお前も……」
父の視線が、おれの股間に注がれる。
「東京に来て、やっと、おれはおじいちゃんに守られているってわかったんだ。新宿駅で迷子になって、おしっこを漏らした時、気付いた。本当は、ずっと昔っから、わかってたんだ」
おれは、秒針の動かない時計を見つめる。
「おれは、『おしっこを盛大に漏らすと時間を止めることができる』能力者なんだ」
「隆司……」
「おれ、お見舞いに行って、謝るよ」
おれはびしょびしょになった股間を抑え、言う。父は力強く頷いた。びちゃり。止まった時間の世界で、おれはおしっこまみれの靴を持ち上げ、一歩を踏み出す。喫茶店の床はおれと父さんのせいでぐちゃぐちゃになっている。だが、構ってはいられない。五千円を机に置いて、店員の脇を抜ける。
「おじいちゃん、そんなに悪いのか」
喫茶店のドアを開ける。ドアベルは鳴らなかった。外に出ると、雪の一つ一つが静止していて、全てが息を潜めている。
「ああ。何度も言ったけど、本当に危ないんだ」
「わかった。急ごう……だけどさ」
なんとなく、今思っていることと、父の様子が結びつかない。そう思っているのは、きっと自分だけだろう。
「おれ、おじいちゃん、助かる気がする」
怒られるかな、そんな気はするが、つい言葉にしてしまった。
「そうか。実は、お父さんもそう思うんだ」
「本当?」
おれは思わず後ろを振り向き、一緒に通りを歩く父を見た。父の顔色は幾分マシになっていた。
「ああ。お父さんも、おじいちゃんも、色んな危機一髪って状況を、う■こを漏らしたりゲロを吐き散らして覆してきたんだ。だから、おじいちゃんの病気だって、そこにお前も加われば、出来ないことなんてないんじゃないか。そう思う」
「父さん……」
「だから、この状況だって何とかなる。さあ、急ごう」
「そうだね」
おれと父さんは並んで道を行く。雪も風も、通行人も車も追い越して、家路に急ぐ。
「そうだ、隆司。言い忘れていたんだが、実を言うとお前の母さんは……」
「ごめん、ちょっとそれは聞きたくない」
■■■じじい 杉林重工 @tomato_fiber
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