猟人日記

palomino4th

猟人日記

 まず頭が重かった。

 こんなのはいつ振りなのか、羽目を外して飲んだ時の翌朝のアレだ……。

 だが若い頃でそんな飲み方とはすっぱり縁を切った筈だ。

 目蓋を上げると晴れた青空が見える。

 たった今、自分は目覚めた、と思った。

 何で目覚めたのか。

 音だ。

   !!

 一発の音。

 陸上競技の競走のスタートを告げる号砲らしき音がさっき耳に入った。


 身体中に違和感がある。

 目覚めて見るものが青空なんてのはある筈がない。

 つまり屋外に寝ていたということじゃないか。

 両手を上げて見てみるとスーツの袖が砂埃すなぼこりで真っ白だ。

 上半身を起こすと、生垣いけがきで挟まれた細い通路に寝ていた。

 ……昨夜のパーティでは確かに酒を飲んだ。

 だがオードブルのついでで口にしたワイン程度で、グラスは持って歩いたが泥酔するほど飲んではいなかった。

 どうも記憶に抜けがあるようだが、外で酔い潰れるほど飲まないのは確かだ。

 どうしてこんな風になった?

 硬い地面にそのまま寝ていたので身体のあちこちが痛むが、いつまでもこうはしていられない。

 一度、半身を起こして膝を曲げて座った。

 改めて周りを見ると地面は白石が敷かれて整えられており、通路になっている様で、それを挟んだ緑の生垣が立っている。

 地面に手をつきながら立ち上がると、生垣は自分の身長よりも高く外側が見えない。

 丁寧に刈り込まれた植物は壁を作っており、まるで……。

 まるで?

 土埃まみれのスーツに顔をしかめながら通路の両端を見た。

 直線の通路はどちらの端も角に突き当たり横に折れている。

 酔って意識の無いうちに迷い込んだのだろうか。

 こんな場所は今まで来たことがない。

 歩き出して通路の突き当たりまで来ると、右に折れて同じような通路が続いていた。

 そこでも直線だが距離は無くそこの突き当たりも横に折れている。

 まるで迷路の庭だと思い、すぐにそのものだと思い直した。

 ……ここは間違いなくどこかの庭園迷路ヘッジメイズだ。

 生垣が壁になり、生身の人間がその中で脱出する為に迷路をさまようことになる。

 上空から見れば簡単だろう迷路でも、中に入って解くのは至難の技だ。


 昨夜のパーティーについて思い出していた。

 私の勤務する病院の重要な出資者たちを招いたパーティー、彼らに挨拶をする為に私も出席していた。

 出資者に近づき会話を交わし、深い敬意と感謝と恭順を示し当院への変わらぬ支援を依頼した。

 同時に私の顔を見て数多の者が寄ってくる。

 知った顔もあれば初めての顔、どこかで見た顔、思い出せない顔。

 名前も出てくるのもあれば、名乗られて気が付く者もいた。

 そうしてまったく知らない顔も。

 頭を鈍らせないよう、パーティーに出されている酒は程々に控えておく必要があった。

 だからグラスには口をつけつつそれほど減らさぬようにしながら人の林の間を抜けていた。

 違和感は無かったか?

 そう、違和感。

 知った名前と顔はどうでもいい。

 馴染まない顔と名前はいたか。

 何かを売り込もうという奴もいたが話の途中で切り上げさせてもらったし、昔酷いやりとりをした相手は顔を見ただけで関わらず距離を置いた。

 一人……女がいた。

 厚めの化粧けしょうをした女が一人、しきりに話しかけてきた。

 挨拶の必要性も感じないので適当にかわしていたが、別の人物と話していた時に自分の背後に来ていることに気がついた。

 しつこく付き纏っているのかとげんなりしたが、例えば私の注意が逸れている間に飲み物に何かを仕込んだ可能性は?

 そう思うと、その女にしてやられた、という確信が湧き上がった。

 しばらくして女は近くから消え会場で見えなくなったのだが、それと同時に強い酔いのようなものに見舞われた。

 足元がふらつき始め、異変に気づいた客の一人が倒れ込む寸前の私を支え、声をかけてきたのが分かった。

 そこから記憶が曖昧だ。

 何かの言葉のやり取りをしているが、まるで頭に入ってこないし自分の言っていることも分からない。

 誰かに抱えられ、車寄せに呼ばれた車の後部座席に乗せられた……。

 隣に誰か男が乗っていた。

 私は自宅のアドレスを伝え損なったのか?

 いや、同乗者は無事に送り届けてはくれなかった。

 ……そいつに連れ去られ、ここに放り出されたわけだ。


 私は身体中を探った。

 着衣のポケットにはことごとく空だった。

 スマートフォン、ウォレット、自宅と車のキー……追い剥ぎにやられたというのか。

 だがどうしてこんな所に放り出されなければならない?

 胸を押さえた時にワイシャツのポケットに感触があった。

 折り畳まれたレターパッドが一枚差し込まれていた。

 取り出した紙片にはペンで書かれた文字が並んでいた。


「フィル先生


どうかおのれ罪科つみとがを思い出すよう願う


貴方の為にかけがえのない者を奪われた

家族らの代表として」


 冒頭の数行を見て私の胸に苦い気持ちが湧き上がった。

 医師としてこれまで数々の患者の手術を手掛けてきたが、全員を救けられたわけじゃない。

 中には施術後に亡くなった患者もいる。

 手術すれば必ず救かるなどと言える訳が無い。

 どれだけ手を尽くしたとしても力が及ばなかったこともある。

 だが、患者の家族の中には病よりも医師に憎しみを抱く者もいる。

 逆恨みというやつだ。

 しかし誰だ、手の込んだ誘拐をしておいて、こんな場所に放り出すなんて……悪戯いたずらというにもほどがある。

 文章の続きを読んだ。


「号砲が鳴り響いた後

貴方ともう一人がこの迷路で動き出す

貴方を深くうらむ者が猟銃を持ち猟人になり

迷路の中 貴方を獲物に 追い立て始める

貴方はその場所をスタートに

出口まで逃げ切れるか」


 全身から血の気が引いた。

 文章はそこで終わり、書き手の名前は無論無かった。

 さっきの音……目覚めた時の音を思い出した。

 息を止めて周囲に耳を澄ました。

 鼓動が早まり、顔や頭の血管が膨張するのを感じた。

 この迷路の中にもう一人、猟銃を持った人間がいるって?

 私を探してうろついていると?

 もう一度紙を読み直した。

 誰が書いたものか分からない。

 何を恨まれてこんな仕打ちをうけるのかも、また。

 手紙を書いたのは、私を拐いここに運んだのは、そして猟銃で私を追うというのは一体、誰なのだ。

 わずかにも音を立てることができない。


 性質の悪い冗談じゃないのか。

 どこか隠しカメラで撮影されていて、私がみっともなくあたふたする様子を見ながら笑っている連中がいるとか……。

 生垣の壁を通してカサリと音が聴こえた。

 何者かがこの迷路にいる。

 地面を踏み締める音がゆっくりと。

 ……移動をしているのだ。

 少しずつこちらに近づいているのか聴こえ方が変わってきた。

 左右を見て私は足を動かした瞬間、履いている革靴の硬い底が小石を踏み締め、しぼるような音がした。

 同時に、生垣越しに聴こえていた音が止んだ。

 私も固まったように動けなくなった。

 しばらく全ての音がしなくなった。

 と、突然はっきりとした音が向こうから聴こえてきた。

 私のたてた音を聴き、私の方に向かってくるのが分かった。。

 この場にいてはいけない、と私は駆け出した。

 行き先の見えない通路はすぐに曲がり、枝分かれした。

 ある角を曲がると袋小路ふくろこうじになっていた。

 間近、生垣越しにもう一人の足跡が駆けていくいくのが分かった。

 すれすれに近づきながら、迷路の壁は二人を遮った。

 ある程度離れてから走り出すと、その音を目がけるように足音が駆け出した。

 一度かかった袋小路から分岐点に出て選ばなかった道に入った。

 緑の葉が両端に流れる中を私は走った。

 壁の切れ目を曲がり向かおうとした先の生垣の色に違和感があった。

 慌てて元の道に入り壁に背を向けた。

 向かおうとした先の角から足音が響いた。

 こちらの方向に折れず、そのまま違う方向に進んだ。

 心臓の動機が激しく高鳴り、私はその場に崩れ落ちそうになった。


 一つの角を曲がり、まっすぐ走ると突き当たりが袋小路だった。

 私は振り返り来た道を戻ろうと駆け出したが、ちょうど向かった突き当たりの角に人影が現れた。

「撃たないでくれ!!」

 私は目を閉じ両手を上げて叫んだ。

「あんた誰だ、何をしてる!!」

 しわがれた男の声がした。

 目蓋を開けると清掃用のほうきを持った作業着の老人が一人私の前に立っていた。

 膝から力が抜けてその場に座り込んだ

「勝手に忍び込んだんだな」

「いや違うんだ、誰かに眠らされてここに放り込まれた……誰か、他に見ませんでした?」

「あんただけだよ」

 老人は厳しい顔でにらみつけてきた。

「泥棒にしては何だか妙な格好だな……パーティーか。酔っ払って潜り込んできたのか」

 説明しようとしたが、言葉が出ない。

 耳を澄ましても他に人の足音もなく、聴こえていた足音は老人の靴音なのがはっきり分かった。

「今日は休園日だ。変な音がしたからここを見たら、人が入ってるみたいなんでやって来た。子供が紛れ込んだと思ったら、こんな大人だとは恐れ入った」

「……出口まで案内してもらっていいかな」


 老人に案内され迷路の外に出ると、公園事務所に連れていかれた。

 そこに同じく公園の管理を担当しているという青年がいて、改めて二人に昨夜のパーティーの話からし始めた。

「車に乗せられて、その後持ち物をあらかた盗まれて放り出された……というわけかい。何でここなんだ、置き去りにするならもっとそこいらの道端でもかまわないじゃないか。なんでこんな面倒なことをわざわざする」老人は私にそう言うと、同僚の青年の方を向いた。

 青年も眉をひそめて首をかしげた。

「私に恨みを持ってる誰かの嫌がらせみたいで。こんな紙が……」と言ってポケットを探ったが見つからなかった。「……迷路の中に落としたようだ」

「……それでどうします」青年は老人に言った。老人は難しい顔をし、しばし二人で顔を合わせて見つめ合った。

「私は盗まれたものがあるんで警察に被害届を出さなきゃなりません、そうだ、防犯カメラの録画とかしてないんですか。私を連れ込んだ奴の姿が映っているかも。見せてくれ」

「それが……この園の外側で気がついた、ということにしてくれないか」老人はそっと言った。

 分からずに黙っていると、老人は続けた。

「誰かに公園に入り込まれてたなんて分かったら、「警備がなってない」ってことでちょっと俺たちの立場が……悪くなるんだよ」

「分かりませんね」私は憤慨ふんがいした。

「被害届を出す時に少しだけ……証言を工夫して欲しいんだ」

「冗談じゃあないです。命こそ取られなかったが、昏睡させて放置して、あんな悪戯をしかけるなんて放って置けるわけないじゃないか。警備していたのに出入りされながら気づいていなかったなんて叱られて当然じゃないか。警察には全部説明させてもらう。その時に録画は確かめさせて貰う事になりますよ」

 老人と青年は無言になった。

「帰らせて貰います」

「車を呼びましょうか」青年が言った。

 やり取りで気分を害したが、スマートフォンの無い状態では頼む他はなさそうだった。

 家の住所を告げると二人は驚いていた。

 だいぶ離れた場所だったからだ。

「俺はバイクだからなぁ」と青年は言い、「迷路の中の確認をしとかないといけない。その方向だったら……クレアさんに頼めるかも」

 青年は初老の女性を呼んできた。

 公園近くの食堂で働いている女性らしい。

「今は持ち合わせがないのですが、家に帰ったらお礼はさせていただきます。お願いできますか」

 クレアは私の顔をじっと見てしばらく考えてからうなずいた。


 クレアの車に乗って、無口な運転手の横で私はそれとなく話していた。

 今回の事件の話、自分は医者であり、本当はこんなことに巻き込まれるいわれなど全くなかったことなどを、半ば弁解のように話していた。

 身なりもボロボロな今、あえて自分を誇示しないとプライドが許さなかったのかもしれない。

 聴いているのかいないのか、クレアはカーラジオのボリュームを上げた。

 周りの風景がまるで知らない光景で、自分がかなり遠い土地まで連れてこられていたのだと思い知らされた。

 どのくらいでつくのだろうと不安になって来た頃、家も何もない半分砂漠のような場所を延々と走っていた。

 ふと後方からバイクが車を追って来た。

 ホーンが鳴らされると、クレアは路肩に車を寄せて止めた。

 どうしたのかと思うと、バイクを止めたライダーがヘルメットを外して近づいて来た。

 公園の管理員の青年だった。

「フィルさん。これ忘れ物」青年は手に透明な袋を持っていた。

 中に私のスマートフォンとウォレット、キーが入っていた。

「見つかったのかい」私は窓を開けて手を伸ばしたが、青年は袋をそのまま道路に落とした。

 訳がわからず呆然としてると背後で号砲が鳴った。

 ビクリとしてから振り返ると、クレアがスターターピストルをこちらに向けて構えていた。

 それは……迷路の中で聴いた音だった。

 クレアは後部座席にスターターピストルを投げ捨てると、今度はダッシュボードのポケットから小型の拳銃を取り出して向けてきた。

「降りて」

 言われるまま車を降りると、道路の外側の砂漠に立たされた。

「わたしの顔、まったく覚えていないようだね」クレアは銃を向けながら言った。

 まったく覚えていないことは無かった。

 化粧を厚く乗せていたならばパーティーに紛れ込んでいたあの女であることは分かったはずだ。

 そう思って青年の方を見ると、そちらもフォーマルな服装で身を整えれば、パーティーで私の身を支えた客の顔なのが分かった。

 車に同乗してたのもおそらくは彼だ。

 だが、過去、私が彼らと何かがあったのか、それが思い出せない。

 強烈な殺意を抱くようなことが、だ。

「私を本当に殺すのか」

 銃を構え睨みつけながらクレアは言った。

「ずっとこうしてやろうと思っていた。ただ手に掛ける前に自分のしたことを思い知らせて、苦しませてからにしようと仕掛けたんだが、とうとう思い出さなかったようだ」

 青年の方も陰惨な目で私を見ていた。

 一体、私が彼らに何をしたのだろう。

 まるで思い出せないのだ。

 ただ何かの過ちが彼らの人生を狂わせて、私への深い憎しみを掻き立てここまできたのだ。

 私を見る二人を交互に見返しながら言葉を選んだ。

「私がしたことを……本当に思い出せないんだ。ここまで憎まれ、殺されなければならないのは何故なのか……君たちの顔も思い出すことができない」

 二人は沈黙し、それからゆっくりとクレアは私に向かって言った。

「お前は忘れたのだろうけど、私たちは一秒だって忘れたことはなかった。お前が思い出せないというなら、それがお前にとって耐えがたいというならそのままでいい。理由が分からないままでここでお前は死んでいくけれど、向こうでゆっくり思い出すことだ」

 そうして今度は本物の銃の弾丸が二発、私に向かって撃たれた。

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