無事故物件

蟹場たらば

人が死なないアパート

「私の借りてるアパートって、無事故物件なんだよね」


 俺と大学の同級生の鳴海なるみとで、居酒屋レストランに来た時のことである。


 家がどこかという話題になった際に、彼女はそんなことを言い出した。どうやら、もうかなり酔いが回ってきているようだ。


「それを言うなら事故物件だろ」


「ううん、『無』で合ってるよ」


 鳴海はさらに「ノー事故物件!」と続けた。やっぱり酔っているとしか思えない。


「そもそも事故物件が何か分かってる?」


「住人が自殺とか殺人とかで死んだ物件のことだろ?」


「まぁ、そうだね。逆に死人が出た物件でも、自然死って言うの? 病気とか事故とかで亡くなってる場合は、ふつう事故物件とは言わないね。少なくとも、次の住人に告知する義務はない。

 といっても、自然死でも発見が遅れて死体が腐っていたせいで、特殊清掃が必要になった場合なんかは別みたいだけど」


 ネットで読んだとかで、鳴海は具体例を挙げていく。死体を移動したあとも、床に真っ黒な人型の染みが残っていた話。風呂に入ったまま亡くなったせいで、浴槽に人肉のスープができていた話……


 食事中の話題としては、おそらく最悪の部類だろう。俺の場合、ちょうど焼き鳥を食べている最中だったから尚更である。だから、話に区切りがついたところで、話題を本筋へと軌道修正する。


「で、無事故物件っていうのは?」


「そのまんまだよ。住人が誰も死んでない物件のこと」


 意外な返答に思わず考え込む。


 だが、何度考え直しても結論は変わらなかった。


「無事故なのが普通だろう?」


「っていうと?」


「自殺なんてめったにするやついないだろ。実行する場合だって、樹海だの崖だのに行くやつもいるしな」


(0が望ましいのは言うまでもないことだが、)日本の年間の自殺者数は、およそ2万人に過ぎないと聞いたことがある。


 また、一口に自殺者といっても、憧れや思い入れのある場所で死にたいという人間もいるだろうし、飛び降りのような室内ではできない方法で死にたいという人間もいるだろう。それこそ、「事故物件化したら貸主に迷惑をかけてしまう」と考えるケースもあるのではないか。


 殺人についても同様である。起こることがまず珍しい上に、必ずしも部屋の中で起こるとは限らない。


「それが自然死すらないんだって」


「一部屋くらいなら、そういうことだってあるだろ」


「『私の借りてるアパート』っていうのは、私の部屋って意味じゃないよ。アパート全体って意味」


 ……それは確かに少し妙かもしれない。


 不慮の事故による死者は年間でせいぜい4万人程度。しかも、これは室内での転倒事故等だけでなく、交通事故なども含んだ数字だから無視してもいいとしよう。


 けれど、病死者は年間死者数150万人の内のほとんどを占めていたはずである。


 もちろん病死の場合も、「体調不良を感じて入院したものの、回復せずにそのまま病院で亡くなってしまう」というケースの方がおそらく多いだろう。しかし、だからといって、アパート内で最期を迎える人間がまったく現れないとまでは思えない。


「じゃあ、まだ新しいアパートなんだ。今までに借りた人数が少ないから、死んだ人間もいないんだろ?」


「具体的な年数は忘れちゃったけど、築年数かなり経ってるよ」


 鳴海は首を振ると、さらに「外見はむしろ事故物件っぽいくらいだもん」と付け加えた。


「なら、すごく小さなアパートで、そのせいで借りた人数が少ないとか?」


「さすがにそこまでじゃないよ」


 今度もそう首を振る。どうやら単純な入居者の延べ数の問題ではないらしい。


「…………」


「分かるかな~?」


 悩み始めた俺を見て、鳴海はそう挑発してきた。それどころか、いい肴だとばかりにハイボールを飲み出す。俺のことを何だと思ってるんだ、こいつは……


 しかし、回答を催促してくるということは、無事故物件は決して不条理なホラーやオカルトなどではなく、合理的に説明がつくものだということだろう。


「お前のアパートは、この近くにあるんだったな?」


「うん」


「この近くってことは、大学の近くってことだ」


「うんうん」


 鳴海は笑顔で頷く。それも的外れな質問を笑うような意地悪なものではない。的を射た質問に感心するような満足するような笑顔である。


 その表情を目にして、俺は自分の推理に確信を持った。


「お前が借りてるのって、学生向けのアパートなんじゃないのか? 借主がみんな若ければ、病死する可能性はかなり下がるだろうからな」


 発病したら救急車を呼ぶ暇もなくすぐに死亡するような突然死の多くは、心筋梗塞・脳卒中など、心臓や脳の血管の劣化によって引き起こされる。この劣化の原因にはさまざまあるが、その中でもとりわけ重大なのは加齢だという。


 また、それ以外の病気に関しても、体力のない老人(特に独居老人)の場合、発病に気づいた時にはすでに救急車も呼べないほど衰弱してしまっているというケースもありうる。


 逆に言えば、大学生のような若者なら、突然死や衰弱のせいで病院に行けないまま自宅で亡くなるような事態はめったに起こらないのだ。


「ピンポン、ピンポーン!」


 正解した賞品ということらしい。鳴海は一切れだけ残った刺身の皿をこちらに寄せてきた。これ食べたのほとんどお前だけどな。


「事故物件の告知義務って、三年でなくなるんだよね。でも、聞かれた場合は答えないといけなくって」


「聞いたのか?」


「内見の時に一応ね。そしたら、大家さんに『うちはまだ入居者が一人も部屋で死んでない無事故物件だよ』って言われちゃって。

 あの時は驚いたなぁ。アパートは古いし、大家さんも占い師みたいな格好してるしで、結構雰囲気あったから。よく聞いたら全然大した話じゃなかったけど」


「まぁ、事故物件よりかはよかったんじゃないか」


 もっとも、たとえ事故物件だったとしても、鳴海にとっては大したことではなかったかもしれない。今だって、自分も食事中だというのに、平気で死体や特殊清掃の話を始めたくらいである。自殺や殺人の有無を気にするような繊細さなんか持ち合わせていないんじゃないだろうか。


 もちろん、『変に気を遣わずに自然体で接することができる相手』という意味で、鳴海のそういうガサツで無神経なところが、むしろ気に入っているのも確かだった。下手な男友達といるよりもずっと気楽なくらいである。


 しかし、さすがにあんまりにもあんまりじゃないだろうか。仮にも若い男女がサシ飲みをしているのである。普通ならもっと色気のある話題になってもよさそうなものだが……


 内心で、俺がそう愚痴っぽいことを考え始めた時のことだった。


 鳴海は酔ったような赤ら顔で尋ねてきた。


「よかったら、無事故物件見てかない?」



          ◇◇◇



「君とロケットにまたがって~」


 鳴海がそう奇声を発する。


 いや、聞き覚えのあるフレーズだったから、本人としては一応歌っているつもりなのだろう。


「この星から飛び立っていく~」


「あんまりでかい声出すなよ」


「月へ、火星へ、どこまでも~」


「やめろって」


 思わず鳴海以上の大声になってしまう。


 夜道を歩く内に、遅れてアルコールが効いてきたらしい。居酒屋にいる頃から言動が怪しかったが、店を出たあとの彼女は完全にタガが外れていた。


「お前、飲み過ぎだぞ」


「全然酔ってないし」


「酔っ払いはみんなそう言うんだよ」


 歌のことだけではない。鳴海の足元はフラフラとおぼつかなかった。肩でも貸そうかと本気で考えたくらいである。


 鳴海のアパートを見に行くという話になって、俺は――多分、彼女もだが――緊張してしまっていた。だから、そのあともしばらく店に残って飲むのを続けた。


 だが、それが失敗だった。ちょっと酒で緊張をほぐすつもりが、鳴海は完全に泥酔してしまったのである。


 この様子だと、今夜は本当にアパートを見るだけで終わってしまいそうだ。鳴海の気持ちが分かっただけで十分といえば十分だが、やはり残念だという感情も捨てきれない。


 普段は勝ち気な鳴海だが、彼氏と部屋で二人きりになった時はどんな風になるんだろうか。少しはしおらしい態度を取ったりするんだろうか。それどころか、甘えたがってベタベタくっついてきたりするんだろうか。それじゃあ、単に部屋じゃなくて、ベッドの上に行った時は……


 そんな妄想上の鳴海に気を取られて、本人から注意を逸らしたのがまずかった。


「バカ! 赤だぞ!」


 そう叫んだ時にはもう遅かった。


 交差点に鈍い音が響く。


 トラックに跳ね飛ばされた鳴海は、道路に伏せたままぴくりとも動かない。


 あまりに突然のこと過ぎて、俺はその場に立ち尽くすばかりだった。嘘だ。違う。だって、俺は。鳴海のやつ、さっきまで。これは何かの間違いで。


 そうして現実を受け入れられずに錯乱する中、妙に冷静なこと――あるいは、これも錯乱しているだけかもしれないが――を考えている自分もいた。


 確かに部屋では死んでないな、と。




(了)

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