おろしの季節

雨足怜

おろしとともに、思い出す

「おろしの季節だねぇ」

 じゃあ、今日は鍋にしよっか。

 冷たい風になびく髪を抑えながら、おばあちゃんに頷く。

 マスクのせいで曇った眼鏡越しでもわかるほどに、おばあちゃんは何枚も重ねた防寒着でふっくらしている。

 私も同じくらい着込んでいるのに寒くて仕方がない。

 あぁ、嫌いな季節だ。

 それにきっと今年から、もっと冬が嫌いになる。

「そろそろマスクはいいんじゃないかい?」

「そうだね。転んだら危ないし」

 マスクをしまい、その手をおばあちゃんとつなぐ。節くれだった、しわだらけの手。

 泣きそうになるのを堪えながら、前を向いて歩き出す。

 その背中を押すように吹き付ける冷たい風が、露出した耳を撫でて追い越していった。


 白玉団子、鶏肉、里芋、こんにゃく、シイタケ、ニンジン――ころころに刻んで、鍋で煮込む。味付けはかつおだしに醤油とみりん、お砂糖。

 ふわりと香る懐かしい匂いに頬が緩む。冷たかった指先も、今ではすっかり温かい。

 ああ、しまった。大根おろしを用意してない。……鍋料理いもたきに大根おろしって少し違う気がするけれど。

「おばあちゃん、できたよ」

「ありがとう。おや、温かそうだね」

 杖をついてゆっくりとダイニングテーブルまで移動してくる。本当は支えてあげたいけれど、それをすると怒られる。

 おばあちゃんは、湯気を立ち昇らせる鍋を見て目を瞬かせる。

「まさか家で食べる最後の晩餐がいもたきとはね」

「……最後なんてやめてよ。それに、鍋が食べたいっておばあちゃんが言ったんでしょ」

「はて、わたしはそんなこと言ったかね?」

 ひねる首は今にも折れてしまいそう。芯のある凛とした格好いい女性――おばあちゃんに対するイメージが、足元から崩壊してしまいそうだった。

 まさか、ボケちゃったの?

 美味しいねぇ、と繰り返し告げるおばあちゃんは、大根おろしには手を伸ばさない。この味に付け加えるのは少し無粋かもしれない。

 曇った眼鏡を拭いてから、器に箸を伸ばす。

 シイタケと鶏肉、そしてかつおだし。そこに野菜のうまみが加わり、しかも里芋のとろみが汁に移ることで美味しさが舌に絡みつくよう。

 お腹の中から温かくなっていく感覚に、暗い思考は溶けて消える。

 はずだった。

「……今日、やまじさんに呼ばれた気がするよ」

「おじいちゃんに?」

 やっぱり、もう、駄目なのだろうか。

 口を閉ざせば、部屋には静寂が訪れる。二人分の食事の音、わずかに音を刻む掛け時計の分針。ぽたりと、流しの方で水滴が滴る音。

 もう、この家にいるのは私たち二人だけ。

「ねぇ、おばあちゃん。やっぱり一日だけなの?」

「本当は、わたしももっと長い間家にいたいのだけれどね」

 こればっかりは仕方がない、と長い吐息を漏らす。

 鍋から立ち上る湯気が揺れる。空気に混じって、溶けて消える。

 湯気をじっと見つめるおばあちゃんもまた、溶けて消えてしまいそう。

「正直、自分でも一晩がやっとだよ」

「…………そっか」

 目をきゅっとつむって、涙をこらえる。

 それっきり、食卓の間には沈黙が続いた。だって、口を開けば弱音がこぼれてしまいそうだったから。

 行かないで、なんて、そんなことを口にできるはずがない。おばあちゃんに、これ以上苦労を掛けさせるなんて駄目だ。

 ただ一言、美味しかったねぇと、底が見えた鍋を見ながらおばあちゃんはつぶやいた。


 教室の中は姦しい声であふれている。

 近くで机を合わせてお昼ご飯を食べる女の子たちは、男性アイドルの話題に花を咲かせている。

 誰々が好きだと、頬を高揚させて語る姿はひどく眩しい。

「……おはよう」

「また重役出勤だね」

「ここは職場じゃないよ」

 開いていた前の席にどっかりと腰を下ろした日向が言う。男の子みたいな背もたれを足の間に挟む座り方。

 鋭利な刃物を思わせる鋭い瞳は、けれど大切な相手を見る時には目尻が垂れる。

 今もまた、どこか揶揄うような口調で、彼女は目尻を下げて言う。

「もう参っちゃうよ。このクラスは遅刻する生徒が多すぎる~って。ましろも?」

「うん。私も遅刻」

「そっか。元気そうだった?」

「……うん」

 気遣う視線。聡い彼女は、私のわずかな表情の変化ですべてを見抜いてしまう。

 空気を変えるように手を叩き、背もたれに頬杖をついて横を見る。

「それより、またこそこそと盗み聞き?」

「ううん、どっしり構えて聞いてる」

「だったら話に入ればいいのに。別に人見知りだとか人嫌いをこじらせているわけでもないんだし」

 人見知り、ではない。ただ、あの輪に入るのは違う、とそう思っているだけだ。

 好きなものがあって、それを好きだと語れる彼女たちを、うらやましいと思うようになったのはいつだろうか。

「また、好きなものの一つもない私が、って考えている顔してる」

「別にいいでしょ」

「そんなに悲観することもないと思うけれどなぁ」

 そういう日向は、高校生ながらすでにアマチュアとして絵を書いている。巧妙にファンデーションで隠されているけれど、目の下に濃い隈が見えるし、多分お仕事が忙しいのだろう。

 絵を書いている時は、完成した絵を見せて来る時は、あるいは絵のことを語っている時は、本当に眩しい顔をする。

 その笑顔が、時に私を苦しめる。

 空っぽな人間だと、突き付けられているみたいに思える。

「嫌いと好きはさ、表裏の関係だよ」

 ぽつりと、雨粒が落ちるような声。広がる波紋が、私の心の表層を乱す。

「反対ってこと?」

「違う違う。愛の反対は無関心、でしょ」

 マザーテレサだっけ?私でも知っている有名な言葉だ。

「表裏っていうのは、何かのきっかけでころっとひっくり返ってしまうかもしれないってこと」

「コインの表裏みたいに、簡単に?」

「そう。例えば、家族を顧みない親父を虜にする大っ嫌いだった絵に、私がのめり込んでしまったみたいに、ね」

「血は争えないってやつ?」

「……ひょっとしたら、親父にとっては贈り物のつもりだったのかもな」

 やれやれと首を振ってから、ようやくマフラーを外す。窓の外を見つめる横顔は、鋭い。

「短所も、味方を変えれば輝くんだ。多分、気づくかどうかが重要なんだよ」

 なんて堅苦しい話は抜きにしてお昼だ。晴天のごとく笑った日向が、いそいそと総菜パンを取り出す。

 私もまた、食べかけだった弁当に箸を伸ばす。今日は鶏大根の照り焼きとアスパラガスのサラダ、高野豆腐とインゲンの煮物、だし巻き卵、ミニトマト。

「いただき」

「もう。欲しいなら言ってくれれば快くあげるのに」

「こう、つまむのがいいんだよ」

 タレの絡みついた大根をほおばる日向を見ながら、ふっと、昨日のおばあちゃんの言葉が耳の奥によみがえった。

「ねぇ、昨日さ――」

 おろしの季節だと、寒空の下で言ったこと。そして、その話をすっかり忘れて、どうして晩御飯が鍋料理になったのかを忘れていたおばあちゃんのことを話す。

 日向は、お腹を抱えて笑った。

「ひっ、ああもう、わき腹が痛い」

「そんなに爆笑するようなことだった?」

 流石にむっとして聞けば、手を合わせて頭を下げる。でも、まだその目も口元も笑っている。

「あのね、おろしって、大根おろしのことじゃないよ」

 だったら、他に何があるの?すっかり冬になって、熱い鍋におろしを乗せて醤油をかけて食べたいって、そういうことでしょ。

おろしだよ。冬に山から吹く冷たい風。……ああ、やまじ風、って言った方がいい?」

 ドクン、と心臓が跳ねた。

 それって――

 口にするその瞬間、教室の扉が勢いよく開く。

「村上!連絡が――」

 頭が真っ白になった私に、大丈夫かと何度も尋ねる日向の声もまた、頭に入って来ることなく反対の耳から流れていく。

 おばあちゃんの容体が急変した。それは、予想していたことで、けれどまだ、心の準備なんて出来ていなかった。

 もう一度倒れたら助かるかわからないと、そう言われていた。

 そしてそれは、現実になった。


 全てが終わって、一人になった家の中。おばあちゃんの入院生活の間に慣れてしまっていたはずなのに、今ではその静寂が怖くて仕方がなかった。

 嫌いだ。消えた両親も、おばあちゃんを治してくれなかった医者も、最後におばあちゃんが好きなごちそうを食べさせてあげられなかった自分も、この家も、嫌いだ。

 気づけば外へと飛び出して、当てもなく走った。

 外面はいいけれど、空き家ばかりの街を走る。治安が悪化しないようにと、取り繕った空っぽな景色は、まるで私みたい。

 心の中、隙間風が吹く。孤独が、押し寄せる。

 ビュウと、強い風が押し寄せる。山から吹く、背筋が凍えるような風。

 おろし

 ――ようやく会えたよ。

 風に乗って、声が聞こえた気がした。

「おばあ、ちゃん?」

 膝に手を当てて、荒い呼吸を繰り返す。

 吐き出した真っ白な息は、吹きすさぶ颪にかき消される。

 きっと私は、この風に吹かれるたびに、おばあちゃんのことを思い出す。

 あの、誤りで提供した家での最後のご飯のことを。眼鏡を曇らせながらいっしょにつついた鍋を。

 そして、おろしという言葉のことを。

 風に吹かれて眼鏡が曇る。

 湯気が、その向こうの笑みが、瞼の裏によみがえる。

「ああ、おばあちゃんの季節だ」

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おろしの季節 雨足怜 @Amaashi

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