◇ ロスト・ラブ ◇
8歳の誕生日を迎える頃から、犬の誕生日って嬉しくないなと思い始めた。大型犬の平均寿命は10~15歳くらいと言われているから、カウントダウンをするわけではないのだが、寂しさを感じるようになってくるのだ。
11歳の2月の終わりのことだった。やけに前足の先をペロペロと舐めていたので見てみると、右の薬指と小指の間に大きな血豆のようなものができていた。急いで病院に連れて行き検査をしてもらった結果、悪性黒色腫という皮膚がんの一種であることが分かった。数日後に手術をすることになり、腫瘍と一緒に小指を失うことになった。
世界中に新型コロナが広がり外出制限された時期も、ダッフィーがいたおかげで、人に会わない時間帯と場所を選んで散歩することで気分転換ができた。ただ、その頃から、玄関を出る時はいつも通り大喜びで出るのだが、散歩し始めると、ゆっくりと後ろから着いて来るくらいの感じでちんたら歩くようになっていた。夏の暑さのせいなのか年齢のせいなのかは分からなかったが、少しずつ散歩は無理のない短めの距離になっていった。
手術をしてから1年半後のある日、初めてごはんの途中で一旦休んだ。子犬の時からかわいい容姿に似合わないがっつきに引くほどだったのに、途中で休んだのを見たのは初めてだった。「どしたの?」と声をかけると、食べ始めて完食した。しかし、翌日初めてごはんを残し、急に容体が悪くなった。
病院に行き、レントゲンや心電図などの検査をしてもらった。レントゲン写真は、素人目でも良くないものが全身に広がっているのが明らかだった。
哀しさと覚悟を決めなくてはならない状況にいっぱいいっぱいだったので、詳しい説明は、正直覚えていない。ただ、帰る時の違和感は覚えている。いつもは先生とは診察室で別れ普通に会計して帰っていたのに、その日は、先生も会計の奥さんも看護士さんも、待合室に出てきてみんなでお辞儀をして見送ってくれたのだ。もしかしたら、と分かっていたのかもしれない。
その日から急に、ダッフィーはごはんを食べなくなった。水を飲むのも精一杯だった。おかゆを炊いたり鶏肉を茹でたり出汁のスープを作ったりしたのだが匂いに釣られて食べようとしてくれるのだが、もう食べる力が無くなっていた。
それから1週間ほどずっと食べられず、体力も落ち、水を飲みにキッチンに行ったまま、そこで伏せて動けなくなっていたりした。
毎年、6月から11月の月に1回フィラリアの薬を与えていた際、特別なおやつ感覚で「てってれ~!」と言ってからあげていた。小さなカリカリのごはんも食べられなくなっていたが、ちょうど薬のタイミングだったので、「てってれ~!」と言うといつものように寄って来たので、ポイっとあげたら条件反射でパクっと食べてくれた。もうフィラリアにかかるような場所に行くこともないのに、と切なかったが、一口でも食べてくれたことにホッとした。しかし、ダッフィーの容体は良くなることはなく、そのチュアブルが最期の食事なるなんて、思いもしなかった。
小学生だった子どもたちは社会人と大学生になって家を出ていたが、事情を話すと都合をつけて帰って来てくれた。
次の日の朝、ダッフィーはキッチンで伏せっていた。水を飲みに来たまま、自分のベッドまで戻れなかったようだった。脇に手を入れてなんとかベッドまで運んだが、ごはんも食べず水を口に無理に入れて舐めるくらいがやっとだった。夕方、恐る恐る庭に出すと、少量の血便が出た。
弱々しいダッフィーと目が合うと、涙が溢れてしまう。気持ちを悟られないように家族みんながテレビを見て気を紛らわしていた。ダッフィーはその日一日中、水すら飲めず、ベッドからまったく動かずにいた。それなのに、その日の夜、みんながテレビを見ているのが面白くなかったのか、みんなの輪に入りたかったのか、一歩も動けなかったのが嘘のように突然すくっと立ち上がると、最後の力を振り絞っておぼつかない足取りで、私たち家族のいるテレビの真ん前にドカッと寝そべった。そして、私が足を伸ばすといつものようにあごを乗せてきた。この重みが大好きだった。そのあったかい重みと匂いとまっすぐな眼差しに、嫌な直感があった。今夜が峠かもしれない。
その日は、ダッフィーの横に寝た。夜中にふと目が覚めて見ると、前足にちょこんとあごを乗せて寝ていたはずなのに、横たわっていた。「ダッフィー?」声をかけたが反応がない。体に触れるとまだ温かったが、もう生気はなかった。あんなにいびきを掻いていたのに、もう息遣いもなかった。苦しかったのかもしれないのに苦しそうにもせず、静かに穏やかに逝ってしまった。
私が、看取りたくないけれど犬と暮らしたいからパピーウォーカーになったというのを聞いていたのだろうか。大型犬の看取りは大変だから不安だという話していたのを聞いていたのだろうか。私が杞憂する期間を最小限にしてくれた。最期まで、優しく賢こくかわいくて、大好きだった。ダッフィー以上の犬に会えることはないと思うから、もう本当に犬を飼うことはない。だけど、ラブラドールが最愛になったことは間違いない。
ラブラドール・ラブからのロスト・ラブラドール。
一生忘れない、大切な時間にありがとう、ラブ。
Lab・Love! 樵丘 夜音 @colocca108
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます