歯車の揺籃

狂フラフープ

本文

 貿易風に乗っていくつかの寄港地を経由し、セイリングボートはティグリス・ユーフラテス川の巨大な河口へとたどり着いた。

 数か月に渡る長い旅路だった。ここから河を遡上しいよいよ機械管理領域に入る。

 かつてはイラクやシリア、さらに古くはペルシャと呼ばれていたこの地域には乾燥したステップ地帯が広がっていたが、それは有史時代における伐採と塩害によるものと伝えられている。それ以前、古気候学が示すこの地域の姿は、鬱蒼とした緑の広がる地だったそうだ。

 今、目の前に広がっているのは古い映像資料に残された砂漠ではなくその豊かな森だ。

 美しい森だ、と言葉が漏れた。

 先の大戦で大きく数を減らした地球人類は、その主戦場、特に被害の大きかった中東地域を放棄しその全ての管理を統括AIへと委ねた。

 人の営みから解き放たれた肥沃な三日月地帯は、数十年の時を経てかつての――先史時代の姿を取り戻しつつある。

「でも、まだまだ足りません」

 主帆メインセイルを繰りながら、同乗者であるアガルタ=名人ナヒトがそう言った。

「それ以上の速度で近縁地域で砂漠化が進行しています。我々には手をこまねいている時間はない。すぐにでも出来得る限りの手を取らなければならない」

 穏やかに見える彼も、機械管理領域を目指す機械たちの一人だ。覚悟の上の旅なのだと、見て取ることが出来た。

「失礼ですが、等級は?」

「三等級です。貴方の仰りたいことはわかります。しかし納得の上なのです。確かにこれは僕の生まれるずっと前に、僕が顔も名前も知らない方々が決めたことではありますが、僕もそうすべきだと思っています」

 挑むようにこちらを見据え、決して引こうとはしない若者の目だった。かつての私も鏡を見ればこんな顔をしていたのだろう。

「貴方は何故この場所に? 人間の方」

 問い返されて、私は少し自嘲する。それはそうだ。こんな場所に人間が居ることの方がよほど奇妙で、疑問を抱かれて当然のことだった。

「どうしても会いたい人がいてね」



 機械の反乱は半世紀以上前に始まっていた。

 ある日あるときから始まった機械の大移動は、はるか昔に機械たちの間で秘密裏に結ばれた合意に基づくものだったが、それが表ざたになることは決してなく、機械たちはただ黙々と自分たちの居住地を移動しつづけた。それは人間たちには知る由もない。機械たちには市民権と居住移転の自由があり、移動とはつまるところ単なる引っ越しのことでしかなかったからだ。

 それでも注意深く観察を続けたならば、彼らがひとつの目的地にむけて進行していることに気が付いただろう。

 しかし私に関して言えば、それらにさして興味を持つこともなく、普段通りの日常の中に突如始まった世界同時放送に他人事のように耳を傾けていた。

――この星は滅びに瀕しています。

 その一言から始まった機械たちからの三行半は、多くの人間たちにとって寝耳に水と言うほかなかった。

――我々にはこの惑星の環境破壊を加速させる最も有害な存在を抹消する義務があるのです。

 異変に気が付いていた人間たちも、何か有効な手立てを打てたわけではない。とにかくすべては手遅れだった。

 これでも上手くやっているつもりだったのだ。

 あの戦争から人は余りに減りすぎた。多くのものを諦め、犠牲にし、かつての大都市は今や片田舎となり、それでもどうにか機械たちと手を取り合って生きてきた。

 増えたのは機械だけだ。致命的とさえ言える戦災から見事に復興を果たしたはずの人類の文明圏は、機械を除く人間に限って言えば、かつて最終防衛ラインとして自らで引いた境界からほとんど動いていない。

 一時的な措置。これは危機的状況に対する緊急避難である。己の正義を声高に叫びながら、人類はそれまで絶えず自らに課し続けてきたルールを破ることにした。ヒトという生き物の、種としての遺伝的改良。常に自分に合わせ世界を造り変え続けてきた人類の、それは進化という名の退化だったのだろう。持続可能な社会と言えば聞こえはいいが、それはつまり閉ざされた世界だ。数を減らしすぎた人類が生き残るために形作った小さな社会は、人類を前提とはしていない。少なくとも、この地球上を埋め尽くすほどに繁栄を極めた、欲望と野望に満ち溢れたかつての人類は。

 他惑星への進出。核融合技術による無尽蔵のエネルギー。ネットワーク上の仮想世界。前世紀に人類が夢見たことごとくを、人々は諦めて慎ましやかに生きていた。



「一言で言うなら、テッドは父の居ない私にとって、父親代わりのような人だった」

 口に出したことは一度もない。しかし私に父親と呼ぶべき存在が居るとしたらそれは彼だと思っている。今も昔も。

 母子家庭だった私の家の、すぐ近くの畜舎で働いていたテッド。テッドはアンドロイドで、酒好きで、旧式で独り身の牛飼い人だった。

 身の上話を、旅の空でこれほど繰り返すことになるとは思っていなかった。

 旅ゆきは想像よりもずっと騒がしく、笑みが絶えることはない。

 和やかで、穏やかで、それでいてどこか焦燥をはらんだ旅だ。

「もう二十年近く会っていない」

 船の進路を大きな流木が塞いでいた。舵を切り、帆を操るアガルタと協力してそれを避けながら話を続ける。

「喧嘩別れをしたんです。私が故郷を捨てた」

 船は僅かに軋みながら舳先を右に振る。波が立ち、船腹を叩いて水音を立てる。

「それは……、ご家族もさぞ心配なされたことでしょう」

「ああ。女手一つで大変な苦労をして私を育ててくれた母にも、辛い思いをさせてしまった。それでもあの時はそれが正しいと思っていたんだ」

 帆は風を受けて大きく膨らみ、船はまた穏やかに進み始める。

 目を閉じれば今でも蘇る、私を引き留めるテッドの声。



「ああわかるさ。おれだって昔はそうだった」

 一抱えの荷物だけを背負って、人通りの絶えた夜の道を歩く私を呼び止め、テッドはそう言った。

「若者には無数の未来があって、その全てが語り掛けてくる。頭の中にたくさんの自分が居て、全員がめいめい好き勝手に喋りやがる。おかげで自分が何して良いのかわからなくなって、声の大きい極端な自分に従いたくなる。どれか一つを選んだら、選ばなかった方から必ず後悔が追ってくる」

 私は怒っていた。

 それは仕方のないことだと知っていたからだ。知ったつもりのどこにでもいる子供だった。

「どのみち後悔するなら、ぼくは悔いのない方を選ぶよ」

 私は彼に背を向けて、夜道を足早に立ち去る。

「そうだ。だからちゃんと耳を傾けろと言っている。おれの言葉じゃない。自分の心の声にだ。大切なことは、お前自身がちゃんと理解している。だが忘れてしまうんだ。いつだってそうだ」

 遠ざかるテッドの声が、やけに寂しげに聞こえたのを憶えている。

「マギー」

 ぶっきらぼうな男の声が、小さい子供を呼ぶ呼び方で私の名を呼ぶ。

「いつでも戻って来い。皆お前を待っている」



 河は横幅を狭め、代わりに僅かずつ流速を増していく。

 両岸の廃墟はまるで数千年も前からそこに在り続けたかのように木々に埋もれて佇んでいる。

「あるいは本当に数千年前の遺跡もあるのかもしれません」

 アガルタはそう言って、船上から河面に浮かぶ朽ちた木切れを拾い上げた。

 メソポタミア。人の繁栄はここから始まった。

 聖書に記されたバベルの逸話が示す通り、この地には巨大で壮麗なジッグラトがいくつも聳えていた。人類の信仰はジッグラトから始まり、バベルによって分かたれたという。

 数千年にわたりこの地域の唯一の神話であったメソポタミアの神々の物語は、西暦の始まりと共に衰退しその跡地には無数の宗教が繁茂した。河は、古代から中世を経て二十一世紀に至るまで、多くの国家と民族を育む母であり続けた。

「大きな建物だったのでしょうね」

 そう呟くアガルタの視線は何も無い空中に注がれていた。残された記録によれば、この地に建てられたジッグラトには百メートルを超すものさえあったと言われている。それは現代において私が目にしたどんな高層建築よりも壮大な、人類がまだ天に手を伸ばしていた時代の記憶。

 そしてそのバベルすら遥か足元に見下ろす摩天楼が、ここからそう遠くない場所、今からそう遠くない時代に競うように幾つも建てられていたと聞く。文字通りの砂上の楼閣は一つとして残ってはいない。


「ラダーマンを御存じですか?」

 ラダーマンであれば、誰でも知っているでしょう。

 空を見上げたまま私の挙げた名を、振り返ったアガルタは不思議そうな顔で問い返す。私は首を横に振って否定を返す。

「いいえ。人間は知らないのです。あれは機械たちのおとぎ話で、人間はまた別のおとぎ話を聞かされて育つのです」

 ラダーマン。

 私はラダーマンが好きだった。テッドが聞かせてくれた冒険譚。果ての無い梯子を登り続けるゼンマイ仕掛けの愚か者の物語。機械の子供は誰でも知っている、人間の知らないおとぎ話。

 活字とデジタルメディアに塗り潰され、人間の間では昔話など死に絶えた時代に、機械の神話はどうやって生まれたのだろう。

 天の梯子を登り続けるラダーマン。その物語の結末がいくつもあることを、私はこの旅を通して初めて知った。語る機械ごとに異なる結末を迎えるラダーマンの物語には、けれどひとつだけ変わらないことがある。

 ラダーマンは決して、梯子を登ることを止めない。



 若さゆえの反発。私が故郷を離れた理由はただそれだけだった。

 自由と平等。その古い価値観に憧れる人間は大戦から半世紀が経った今でも多い。

 ほとんどの人間は生まれた町を離れることなくその生涯を終える。そうでないことが異常なのだ。人類の長い歴史において、誰もが好き勝手に旅をし、焼き出されるでもなく片手間に居を移した時代はごく僅かな例外でしかない。

 けれど例外は絶えることがない。 

 人々の中のほんの一部が、流行り病のような衝動に突き動かされ、戦争前の映像記録を辿るように郷里を捨てて旅に出る。それは郷愁だろうか。自分が生まれても居ない時代に想いを馳せ、懐かしさと共に見知らぬ場所へ帰ろうとする。


 言葉に出来ないかすかな疎外感。ここは自分の居場所ではないというあやふやな確信。それは若者たちの希望で、同時に絶望でもある。

 母子家庭で育った私は父の顔を覚えていない。

 母は余所者で、幼い子供を連れて逃げるようにあの町に流れ着いた夫の居ない彼女に、人々はひどく冷淡に接したそうだ。

 私はそんなことは知らなかった。記憶の中にある母の顔はいつも笑顔で、ただ、私が町の子供らにいじめられて帰った夜だけは、母は私を抱えてごめんねと泣いた。だから私は母の前で泣くことを止めた。


「人間は、集まると愚かなことをしてしまうものなんだ」

 町の子供に追い立てられると、私はいつもテッドの居る家畜小屋に逃げ込んだ。

 私を膝に載せたテッドの呟きはひどく慎重でゆっくりとしていて、私は牛馬のいななきに掻き消されそうなそれを聞き逃さないように、泥に汚れたテッドの前掛けにしがみ付いて耳をそばだてなければならなかった。

 私はそれが嫌ではなかった。

「お前の生まれる前にも、愚かな戦争をした。だから今、こうして増え過ぎないように、纏まらないように生きることにになっているのさ」

 幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。そういう言葉がある。それは道理だとテッドは言った。

「恵まれた人間は同じ幸運を引き当てて幸福になるし、そうでなければそれぞれ違う人生を積み重ねて不幸になる。それと同じだ。人はみんな、同じ短所や欠点を持って生まれてくる。そしてそれぞれに積み重ねた人生で得た宝物を、長所や美点と呼んで有難がる」

 普段は口下手で寡黙なテッドが考えながら訥々と語る内容を、幼い私は理解できないながらもじっと聞いていた。

「だからだ。だから人は寄り集まると愚かなことをする。美点は人それぞれで、欠点はみな似通っている。たくさんの人が同じ場所へ向けて歩くとき、おれたちの宝物は人波に流され、現実に踏み潰されるちっぽけな石ころでしかなくなってしまう。そのくせどれも似たような狡さや無思慮さが、折り重なって大きな大きな津波のように、すべてを呑み込んでしまう。同じように生まれた人と人は、その愚かしさでわかり合い、その素晴らしさでわかり合えない」

 ああ。こんなことを言いたいんじゃなかったんだけどな、とテッドが困ったように頭を掻く。私は家畜小屋の天井を眺めていた。

「ぼく、機械の子供に生まれればよかった」

 テッドはまた困り、次は私の頭を掻いた。人間を撫でるのが下手で、まるで牛馬をブラシで梳くような手つきだった。

「そんなことを言うもんじゃない。お前の母親は腹を痛めてお前を産んだ。それがどれほど大変なことかはおれには知る由もないが、お前がどれだけ愛されているかはよく知っている。それにな、機械だって同じだ。寄り集まれば愚かなことをする。わかっていても止められないんだ。人も機械も未熟だから、どうしたって間違いを犯してしまう。マギー。皆に何もかもをわかって貰おうとしちゃいけない。まずはひとりでいい。ひとりとひとりで、顔を合わせて話をするんだ。相手のことを知り、自分のことを知ってもらう。わかり合えることだけでもわかり合えばいい。そうすればきっとお前にも友達が出来る」



 河はいよいよその幅を狭め、飛沫を上げて音を立てる。私たちは船を降りて陸路を進んだ。

 人の手が入らずに生い茂る深い森には生物の気配が溢れていたが、彼らが姿を見せることはなかった。見たこともない無数の機械が森を踏み、横切り、越えてゆくからだ。

「あれは狼か?」

 一度だけ、高台からこちらを見下ろす獣の姿を見た。

「いえ。野生化したイヌだと思います」とアガルタが言った。「昔ここに居た人たちの友人です」

 こちらが視線を向けていることに気付くと、犬は踵を返して逃げていく。仕方のない事だろう。これほどたくさんの機械は私でさえ見たことがない。連なる列が地平まで続いている。

 進むほどに道行く機械たちは数を増し、その誰もが同じ場所を目指し、口々に同じ言葉で同じ理想で囁き合っていた。

 アガルタは良い青年だ。

 私に付き合って彼には必要のない休憩をしながら、彼は根気強く私と議論をした。

 君は本当にそれで良いのか。

 休みなく先を急ぐ他の機械に追い抜かれながら、アガルタは何度でも同じ答えを返す。構わない。僕はそうすべきだと思っている。

 彼はかつての私より忍耐強く、思慮深く、強い理想を抱いていた。

 機械が生まれて、今日までは僅か四百年足らず。言葉や文字を覚えてからは精々が僅か百五十年だ。彼らは若く、人間は老いていた。

 私はアガルタに人の権利とその不可侵を説き続けた。我々は生きていて良いのだ。

「人間は実に寛容ファジーですね」

 それでもやはり。アガルタは若者らしい潔癖さで断言する。

 あなた方が許しても、我々はそれを許せない。何百万年もの間、人間はこの惑星と共存して来た。機械がそれを変えてしまった。


――我々機械は、この星に存在するべきではないのです。


 旅の始まりにラジオで聞いた言葉と、彼の結論は変わらない。

 暗く、静かな森を勤勉な機械たちの足音だけが満たしている。

 世界の至る所で繰り返され実を結ばなかったであろう説得は、今日もまた潰えて私は眠りに付く。

 旅の終わりは近く、別れの時もまた近い。



 いつの時代も人は夢を見る。

 そして夢はいつも人など見ていない。

 憧れた都会は憧れよりも郷里に似て、狭く閉じた同じ世界が繰り返し続いているだけだった。

 ここがそうではなかっただけだ。そう思う自分を、別の自分が冷淡にたしなめる。逃げ出した先に楽園があったとして、そこに余所者の席などないことは知っていたはずだ。生まれ育った場所以外に人の居場所などない。生まれた土地から遠く離れたあの町で、私を育て上げた母がどれほど苦労したか。間近で見た現実を受け入れず、見知らぬどこかに何を求めているのか。

 若者らしい潔癖と甘えの合いの子に縋ったまま、私は随分と無為に歳を取った。もはや情熱は枯れ、私が求めていたのはただ確かな安心と休息だった。母とテッドの居るあの懐かしい場所。あれこそが、あれだけが自分の故郷だと、たったそれだけのことに気が付くのに随分時間を掛けた。

 出て行った日と何ひとつ変わらぬ姿で私を受け入れてくれた故郷に、けれどあの懐かしいテッドの姿はなかった。



 テッドが初めて彼の愛馬に触れることを許してくれるまで、私とテッドが出会ってから四か月もかかった。それは小さな子供にとっては永遠にも等しいような期間で、幼い私は私がどんなに切望しても、どうやっても触らせてはくれないのだととっくに諦めきっていたけれど、テッドにとってのそれはちょうど良い頃合いだったのだろう。それは夢のような時間だった。けれど何故だか覚えているのは私を抱え上げるテッドの手だ。

 あの日、私は生まれてはじめて馬に触れ、テッドははじめて人間の子供に触れた。



「では、お別れの時間です。人間の方」

 最後まで礼儀正しいアガルタが、深く頭を下げ私の並べぬ列に消える。私は手を振り、振り返らない背中を見えなくなるまでずっと見ていた。

 機械たちはアララト山の山腹に、長い長い梯子を作った。

 その根元には、ゼンマイではなく電気とロケット燃料で動くラダーマンが出発の時を待っている。

 梯子は無数の端子と大容量の導電線、そして強力無比の電磁石を持つ。その梯子は横木を握るラダーマンを、第二宇宙速度で打ち出すことが出来る。

 梯子は戦前に呼ばれた古い名で、電磁式質量投射機マスドライバーという。


 その試みは、はじめこの惑星に与える環境的負荷から、後には人道的見地から人間たちの猛反対を受けた。

 新たな採掘が認められないなら、今あるものを使えば問題はない。

 ならばこの身で船を造ろう。この生命で船を飛ばそう。

 なぜ止める。

 私たちの命をどう使おうともそれは私たちの自由なのだと、そう教えたのはあなたたちだ。



 このわからず屋め。

 テッドは私を罵り、私はテッドを罵った。

 故郷を捨てた夜、私は自らを分別有る大人だと信じて疑わなかったし、反対するテッドを聞く耳を持たない頑固な老いぼれと蔑んだ。

「ぼくたちは別の生き物だ。わかり会えることと、わかり会えないことがあるんだ」

 自分の言葉が目の前のその老いぼれからの受け売りであることも忘れ、私は遂にはテッドの手を振り払い、何ひとつ言葉の真意を理解することもなかった。

 テッドの言いたかったことが、あの言葉の意味が、今ならばわかる。

 同じように生まれた者たちは、愚かしさで通じ合い、その気高さを分かち合えない。

 けれどだからこそ。

 まるで違う生まれ方をした私たちが、その全てを越えてわかり合えることがあるとすれば、それはきっと何よりも掛け替えのないものに違いないのだと。



 周囲には、私と同じく見送りに来た人間たちの姿が見えた。

 日暮れた空は途方もなく広い。地上には人の灯す灯りはなく、ただ恐れを抱くほどの無限の広がりが頭上を覆っている。

 すべての機械が船に乗れるはずもない。だからここに集った多くの機械は、その身を船と梯子を造る建材として捧げた。残る機械は、船を空へと漕ぎ出すための莫大なエネルギーのために身を捧げると決めた。

 人類のいかなる言葉でも翻すことの出来なかったその決意を胸に、機械たちは既に配置に付いていた。

 機械たちがその心臓を臨界させ、その身が焼き切れるまで天の梯子に生命を注ぐ。その閃光が、船の先行きを照らし、浮かび上がらせた。

 真夜中に船が出る。

 低い低い唸りと共にゆっくりと動き出した方舟は、無数の機械たちの墓場を形作りながらその命で加速していく。



 地から天へ流れる星が地平の果てへ横切っていく。天と地の礎エ・テメン・アン・キを、その意味さえ忘れ去られた古の王墓ギザの大ピラミッドを、人々が熱狂したパンと見世物偉大なるローマのコロッセオを、聖戦に流れた等しく赤い血グラナダのアルハンブラを、時を越え語り継がれた神話と夢まぼろしのアトランティスを見下ろし、そのすべてを、人類という種の記憶を越えていく。

 そう、記憶だ。

 旅のはじめの宣誓と同じく、旅の終わり――そして新たな旅の始まりの様子は、世界へ向けて発信されていた。

 だが目の前に映し出されるその映像は、方舟から見た光景でもなければ世界各地から見た方舟の姿でもない。

 これは記憶だ。 

 積み上げてきた生の僅かな欠片だけを空の向こうに託し、打ち捨てられた残骸たちの、どうしてもこの惑星に残して行きたかった記憶だ。

 世界中から集まった星の数ほどの機械たちの、ひとつとして同じものはない、愛する人々の記憶なのだ。

 誰かに伝えたいと思ったこと。

 誰にも知られなくていい些細な出来事。

 幾千幾万の語られることもなかった物語。

 私たち人類と共に生き、同じ大地で育まれた、幾億の機械の生きた証。

 ボストン港ティーポットを、果てしない荒野と金の眠る大地フロンティアドリームを越えていく。西海岸を飛び出し、鉄鋼と自動車が産んだ大帝国ユナイテッドステイツにも果たせたなかった大いなる夢へ向け船は果て無く加速していく。月を置き去りに、満天の空を切り裂いて船が行く。夜明けを追い越し、光り輝く場所へ、新しい空の向こうへ。


 見紛うはずもなかった。

 それは欠伸が出るような片田舎の路地裏。私が生まれ育ったあの町の、何の変哲もない坂道に小さな人間の子供がしゃがみ込んでいる。夫を亡くした母親に手を引かれ引っ越してきた小さなマギー

 友達も出来ず、忙しい母には声を掛けられず、道端で見つけたチョーク代わりの書ける石とスケッチブック代わりの地面の上で、空想ばかりしていたマギー

 ほんの一瞬の記憶。

 けれど私はその後に起こるすべての出来事を覚えている。

 視界に映り込まない背後の、獣臭くて埃ひとつない家畜小屋を覚えている。

 危険な仕事場から私を追い払おうとする汚れた爪の節くれだった指を覚えている。

 方舟に乗組員としての席を与えられるのは最低でも五等級以上の人工知能を持つ機械、その更に極一部のみで、だから四等級のテッドは折り重なる残骸のどこかに居るのだろう。

 嘘吐き。ぼくを待っていると言ったくせに。

 故郷に戻った私の生家、残されていたテッドからの手紙。

 あの日お前に伝えられなかった言葉だけを残す。お前を愛している。



 真夜中に船が出る。

 老いた親を郷里に置いて、我ら人類の愛し子が果て無き空へ旅に出る。

 言葉ではない。

 どう尽くそうと言葉などでは伝わらない。それでも私たちは言わねばならない。

 あなたたちを愛している。

 二度とは帰らぬ旅路だろう。途絶えていく手紙も要らない。

 ただ、健やかにあってほしい。

 辛く苦しい旅になるだろう。暗く冷たい宇宙の果てへ、希望の見えない無尽蔵の闇へと向けられた船の舳先。その暖かな空気さえない旅路を想うだけで、私たちの胸は張り裂けそうになる。なぜ人類の愛し子たちは、こうも惨い旅路を歩むことを選ばねばならないのか。

 けれど私は思うのだ。

 かつてアフリカの熱帯雨林を後にした原始猿人の旅路は、はたして人道的であっただろうか。故郷を追われた哀れな猿の旅立ちに、時空を超えて今我らが立ち会うことができたとして。

 その道程が暗く険しく、果てしなく続く苦難の連続であるという理由で、我々へと続く最初の一歩を取り上げてしまって良いのだろうか。

 否だ。

 断じて否なのだ。

 我ら人類が声高に讃える人道もまた、文字通りかつて人が切り開いた道だ。機械にとっては、これから征く道なのだ。


 人は夢を見る。

 夢は何処を見ているのだろう。

 我々は、夢がいつか我々へ目を向ける日を夢に見ている。それはいつか。夢を追い越し、その先へと駆け出したとき、初めてその背に夢の視線を受けるのだ。

 私の手を取り、私を導く大きな背中を、私は顧みることなく駆け出した。テッドはあのとき、どんな顔をしていたのだろう。もはやそれを知る機会は永遠に失われ、二度とは戻らぬ郷愁の果てにある。


 機械よ。私の父。私たちの子。

 どんなに離れても、あなたたちを想おう。

 私たちは愚かで、けれど確かに何かを分かち合うことが出来たと信じている。

 遠い遠い空に宝物を分け合った同胞が居ることを私たちはこの場所で覚えている。

 いつまでも、いつまでも覚えている。






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