ずっと一緒にいてくださいね、先輩?

紫鳥コウ

ずっと一緒にいてくださいね、先輩?

 大槻唱歌おおつきしょうかという、この世で一番かわいい後輩は、もう一押しで眠りに落ちてしまいそうになっていた。


「もう寝た方がいいぞ」

『むぎゅーってしてくれないと、眠れないです』

「実家にいるんだけど……」

『……いまから家に行っていいですか? 先輩がいないと、眠れないでしゅ』

「だから、実家に帰ってるんだよ」

『もちもち……せんぱい、聞いてましゅか?』


 かわいいなあ、もう。

 そしてお疲れ様、唱歌。よくがんばったよ。


 唱歌の論文は、無事に査読が通ったとのことで、ほんとうなら本人を目の前にねぎらいの言葉をかけたかった。


 だけど、多田羅たたらさんという高校時代の同級生の――同じ美術部で部長と副部長という関係だった彼女が結婚をすることになり、式に列席することになったのだ。


『はやく……帰ってきて』

「うん、明後日には帰ることができるから」

『いっぱい、ぎゅっとしてくだしゃいね』

「わかったから……じゃあ、切るよ」

『最後に、大好きって……言ってくだしゃい』


 こちらから頼まなくても言うべきですよ?――と、上目遣いでのぞきこんでくる唱歌の姿が浮かんでくる。いまは、の顔になっているのだろうけれど。


「大好きだよ、唱歌のことが」

『わたしも、好きです』


 ああ! 顔が熱くなってきた!


 どちらから通話を切るべきなのか迷う。できれば唱歌から切ってほしくて、じっとそれを待った。

 待ったんだけど――向こうも、ぼくが切るのを待っているらしい。


『せーので切りましょうか』

 気まずさを振り払うように苦笑する唱歌。


『じゃっ、せーの!……って! 切ってくださいよ! もうっ! 眠くなくなってきちゃいましたよ!』

 唱歌との電話は、いつもこうなってしまう。どちらから切るかで、ふたりとも譲り合ってしまう。


 なんとか電話を切ったあと、ベッドの上に大の字になって、唱歌への「告白」のことを考えた。だけど、ぼくはいったい、どこまでを見据みすえて唱歌と向き合うべきなのだろう。


 結婚――そんなことを考えられるほど、ぼくは安定した地位にいるわけでもないし、唱歌の人生を背負えるほどの力はまだない。


 だけどもう、唱歌を手放してしまうことなんて、考えられない。ずっと、一緒にいることができればと思う。


 そういうわけで、ぼくが修士論文を提出したあとにすることを約束した「告白」の言葉は、まだまとまりきっていない。


 ピコン。


 もう深夜なのに通知音が鳴るということは、唱歌からの連絡に違いない。寝たんじゃなかったのか。


 唱歌から送られてきたのは、一枚の写真だった。


 ベッドに寝そべりながら撮ったのであろう。ライトグレーのもこもこのパジャマ。ほのかに赤らんだ掌を、そでからちょこんとだして、親指と人さし指を交差させてハートを作っている。


《かわいいでしょ?》

《帰ってきたら、この子が待っているんですよ?》

《先輩は幸せ者ですねっ!》


 矢継ぎ早に、みっつのメッセージが投下されてくる。

 ぼくの答えとしては、(1)かわいいです。(2)いますぐにでも帰りたいです。(3)幸せ者です――なのだけれど、もうそろそろ寝ないと、朝はやく起きられる気がしない。


 でも、唱歌のことを考えるのを止められず、なかなか眠ることはできなかった。


     *     *     *


 目覚ましが鳴るより先に、着信音で起こされてしまった。


『おはようございます、先輩……』

「おはよう……って、はやいな」

『嫌な夢を見ちゃって……それで、先輩の声を聞きたくなって。迷惑ですよね、こんな早い時間に……』


 3時半――ということは、1時間くらい寝ているか寝ていないか、そんなところだろう。もう少し眠りたい。そうじゃないと、体力が持たない。


 だけど、唱歌の声を聞いていると、よっぽど悪い夢を見たのだと分かる。それも、ひとりではなんともできない感情を抱えこんでしまうくらいの。


「ぜんぜん大丈夫だよ。ぼくも眠れなかったところだから」

『でも、明日は……今日は、結婚式ですよね?』

「終わったら、いっぱい寝るから。だからいまは、唱歌とのためだけの時間」

『ずるいですよ、そういうの』


 沈みこんでいく手前のようなところで、唱歌の声が静かに響いている。


「少し話をする?」

『どんな夢かは聞かないんですね』

「自分が唱歌だったらって、想像するとね」


 ぼくたちの間に沈黙が流れる。おたがい、他にだれも起きていないところで話しているのだということを実感する。


『……あのですね、先輩。わたし、先輩がちがう人と結婚する夢を見たんです。それがほんとうに辛くて。先輩がウエディングドレスを着ているだれかと、扉の向こうへ行ってしまって、わたしは、ひとりきりのところに、閉じ込められて……』


 泣きそうな声をためこんでいる唱歌。


 大丈夫だよ――というのは、責任のない言葉に響いてしまうだろう。ぼくは、どういう言葉をかけていいのか悩んでしまう。


「ねえ、唱歌」

「……はい」

「ぼくは、ちょっと悲しいよ。唱歌は、ぼくを信じてくれないのかなって」

「信じてないわけではないです。だけど、そういう夢を見ちゃったから……」


 それはそうだろう。ぼくだって、そんな夢を見れば、同じように不安になってしまうに違いない。そんな風に言うべきではなかった。


「じゃあ……電気を消して、ふとんの中に入って」

「えっ?」

「朝まで、楽しいことを話そう。これからのこととか、いままでのこととか……ぼくたちだけの秘密の話をしよう」


 少し経って、カチッとスイッチを押して、ごそごそとふとんの中に入っていく、唱歌の姿が、電話越しに伝わってきた。


「なんの話をしようか?」

「あのっ! その前に言ってほしいことがあるんですよ、先輩っ!」

「言ってほしいこと?」

「はい、わたしのこころが、すっと温かくなるような言葉が、とてもとてもほしいです」


 元の通りとはいえないけれど、ちょっとだけ、いつもの調子を取り戻してくれたみたいだ。


「唱歌」

「はい、先輩」

「大好きだよ」

「わたしも……っです」

「わたしも、なに?」

「もう、いじわるしないでください。わたしも……わたしも大好きですよ、先輩のことが」


 夜が明けるまで通話をするつもりだったけれど、しばらくして唱歌はすやすやと眠ってしまった。

 その寝息を聞いているうちに、ぼくもまた、すっと眠りに入っていった。

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