夕日の中の前触れの君
ささがせ
The Harbinger
あの日の事を覚えてる。
「よーい、どんっ!」
あいつの掛け声で、僕は駆け出す。
でも、あいつはいつもズルくって、掛け声よりも早く、その足が前に出ているんだ。
だから、かけっこでの勝負は何度もしたけれど、勝てたことは一度もない。
あいつはいつも1歩先にいて、僕はあいつの背中しか見ることができない。
だからだろうか。
僕は小さな頃から一緒に遊んでいたはずのあいつの顔が思い出せない。
夏の日差しの中に溶けてゆく影のように、あるいは、降り積もる雪に覆われる草花のように、彼女の顔は僕の記憶から欠落していた。
鮮明に浮かぶのは、あいつの背中だけだ。
一纏めに結んだ髪が揺れ、白い首筋が見える。
細い腕が振られて、少し大きめなシャツが風を切って踊った。
本当にそれだけだ。
僕が覚えている彼女の姿は。
※
どうしてそんな事を思い出したんだろう。
薄暗い道を自転車を押して歩いていた時、ふと思い出して立ち止まった。
道の先、西の彼方に、夕暮れが落ちてゆく。
まるで、消えかけの蝋燭のように。
空は夜に押し遣られ、星々が姿を見せ始めた。
始まったばかりの年の、ある1日が終わった。
新しい年を迎え、何もかもが新しい気持ちで始まるはずだった日々は、暗鬱を溜め込むばかりだった。
何故なら、もうすぐ高校入試が始まるから。
先生からは、ここから自分の人生の選択が始まると言われた。
知らない。そんな事言われても。
強いられるままに勉強を始めて、全体像のないままに志願校を決めて、模試だの対策テストだの、昨年は慌ただしい準備をしてきた。
それらが、あと数日で決着する。
ゴールテープだけが見える。
ゴールに踏み込んだ瞬間、足元が崩れて、暗闇の底に落ちていくかもしれないのに。
ただ走ることだけを強いられる。
「ねぇ、かけっこしようよ」
だから、彼女を思い出したのかも知れない。
あいつはいつも、理不尽だったから。
「ねぇ」
呼ばれて顔をあげると、消えかけの蝋燭を背景に、ポニーテールのシルエットが立っている。
あの頃よりも、ずっと背が伸びた彼女がいた。
「久し振りじゃん」
僕は声をかける。
逆光で、顔はよく見えない。だけど、僕にはそれがいつものあいつだと分かった。
「君はどこの学校行ってるの? 僕は―――」
「そんなことより」
ピシャリ、と彼女は僕の言葉を遮った。
「かけっこで、勝負しようよ」
「いいぜ」
僕はその勝負を買う。
胸にずっとあるこの暗鬱な気持ちを少しでも忘れたいと思った。
ずっと気がかりだったんだ。
彼女に勝てないことが、ずっと心に引っかかっていた。
それを払拭するチャンスだと思った。
もう中学校も卒業する。その前に、借りの一つを精算しておこうと思った。
大丈夫、もう昔の僕じゃない。
陸上部に入って3年間、ずっと短距離を続けてきた。
彼女に負けたのが悔しかったからというわけじゃないけれど、陸上部でやってきた今の僕は、走りには少し自信がある。
「じゃ、橋の下までね」
「うん」
僕は、押していた自転車を道の脇に止めた。
鞄をカゴに預け、マフラーを外し、上着を脱いだ。
そして、背中を見せる彼女の横に並ぶ。彼女はジャージ姿だ。
まっすぐに、道の先に見える橋を見た。
「よーい、どんっ!」
3年間、陸上部をやってきた。
引退したのは半年前、後輩に見送られて引退した。
最後は県大会まで進めた。
正直、勝つ自信があった。
モヤモヤとした気持ちを、彼女に勝つことで拭えると、そう思ってた。
だけど
「ずっるいぞッ!!」
やっぱりあいつはズルかった。
掛け声を言う前に、先に走ってた。
思わず叫んで、それでも必死に追いつこうと全力で走る。
だけど、追いつけない。
スタートダッシュの差を全く縮められない。
こいつも陸上部だったのか!?
大会で見かけたことはないのだけれど。
結局、僕は追いつくことは出来なかった。
また負けた。
「はぁ、はぁ…くそっ! お前、いつもズルいぞ!」
「あははは! また私の勝ちだね」」
「笑ってんじゃねーよ!」
挑発的な物言いに、苛立ちの混じった返事する。
顔をあげると、そこに彼女の姿はない。
橋の下に広がる深い影の中から、彼女はとっくに駆け出していた。
「じゃーねぇ!」
足を止めずに彼女は振り返って、夕日の中に消えていく。
「何なんだよ、あいつ…」
久方ぶりの幼馴染との再会は、それだけだった。
姿を見なくなって3年。語りたいこともあったというのに。
次にあいつに会ったのは、また3年後だった。
※
「ねぇ、かけっこしようよ」
共通テストを2日後に控えた日。
3年ぶりに暗鬱を抱えたその時、彼女は俺の前に姿を見せた。
いつかと同じ夕暮れ時、彼女は俺を待ち構えていたように、眩く夕日を背にして立っていた。
ポニーテールで、ジャージ姿。
まるで、3年前のあの日から、そのままやってきたような出で立ちだった。
「あのな」
俺は頭を掻く。
「俺はそんなに暇じゃねーんだよ。明後日には共通テストなんだから」
どこの高校に行ったんだか知らないけれど、随分と余裕なもんだ。
俺は志望校に届くか瀬戸際ライン。ここをクリアしても、来月には本試験がある。それまで一切気を抜けない。
「ふうん?」
「気楽だな、お前」
こいつは進学しないで就職するのだろうか。ま、どうでもいいけど。
「で、かけっこする?」
「もうかけっこって歳じゃねぇだろ」
ほんと呆れる。
こいつは全く進歩してない。
「なら、私の勝ちってことでいいね?」
「いや、それとこれとは話が違う」
俺は鞄を道の脇に捨てた。
コートを脱いで、手首と足首を回した。
屈伸、伸脚、アキレス腱を伸ばして、軽く腿上げをする。
高校では陸上部には入らなかったが、運動部の助っ人をやってた。バスケ部とサッカー部。どこも人数不足で、俺は傭兵として雇われ、色んな試合に出た。中には、結構良い成果を残せた試合もあった。
身体は鈍るどころか最盛期だ。
たとえこいつがズルをしたって負ける気がしない。
「やろうぜ。今日こそ俺が勝つ」
「いいね!」
俺は、背中を見せた彼女の隣に立つ。
ふと横目にこいつの顔を見る。
髪に隠れてよくわからない。だけど、
「よーいどん!」
「あ、てめっ!」
タイミングが早い!
こいつ、俺の隙を突いて来やがった!
だが、俺はもう動揺しない。
身体を前に倒し、とにかく、足を繰り出す。
力を込めすぎて身体を振れないように、息を止めて、ただ走ることに集中する。
もう少し、もう少し―――…
歯を食いしばり、あと一歩を縮めんと死力を尽くす。
だが、ダメだ。
越えられない。
おかしい、と思った。
もう女子じゃ、俺に相手にならないはず。
それなのに、絶対にこいつは俺と同等の速さだった。
もし本当にこいつが俺と同じ速さなら、こいつは全国大会に出てる。
「また私の勝ちだね」
久方ぶりに全力で走って、息も絶え絶えになっている俺の横で、息を切らしてもいない彼女は言った。
勝てない。
絶対に勝てない。
俺は本能的に理解する。
「ああ、俺の負けだ」
これは”違う”。
才能とか、そういう問題じゃない。
たぶん、きっと、彼女はそういうモノなのだ。
俺は、反射的に隣に立つ彼女の手を伸ばした。
掴んでおかないと、こいつは何処かに走り去ってしまうと思ったから。
「どうして、お前は―――…」
だけど、俺の手は空を切った。
確かに彼女はそこにいるのに、触れられなかった。
「どうして、俺の前に現れるんだ?」
「さぁ?」
「また会えるか?」
「どうかな?」
「そうか」
俺は目を閉じた。
意を決して、顔をあげる。
だけどそこには、誰も居ない。
夕日の先にも、彼女の姿はなかった。
でも、またきっと会える。
俺はそんな気がしていた。
※
あの日の事を覚えてる。
俺の人生の節目に必ず現れる彼女の事を。
新たなスタート地点に立つ時、運命の岐路に立つ時、彼女はかけっこ勝負を仕掛けてくる。
俺の予感の通り、就職の時も、結婚の時も、そいつは現れた。
そして、絶対に勝てないんだ。
勝てるはずがない。
彼女は最初から、俺のずっと先に居たのだから。
「ねぇ、かけっこしようよ」
「えぇ? またかよ~」
一纏めに結んだ髪が揺れ、白い首筋が見える。
「お父さん、もう疲れたよー」
「おとなでしょ! しょーぶして!」
細い腕が俺を揺さぶり、少し大きめなシャツが踊った。
「それに、お前、ちょっとズルいし」
「ずるくない」
「絶対掛け声より早く走ってるって」
「はしってないもん」
いつも夕日の中にいた彼女は、顔を膨らませて俺に言う。
愛しき君の顔を、”僕”はようやく見ることができた。
彼女はずっと待っていたのかもしれない。
僕が追いつくのを。
前触れの君に急かされて、僕は再び彼女の横に並ぶ。
「よーい、」
「どんっ!」
だけど、今度は僕が掛け声をかけた。
そして一歩先を往く。
「あっ! ずるーい!」
彼女の声が背後から聞こえた。
スタートを切り、今度は僕が先にゴールまで駆けていく。
いつか終わりにたどり着くその日まで、君と一緒に。
夕日の中の前触れの君 ささがせ @sasagase
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