大都会、ふたりの波形は

御子柴 流歌

休符は次の音符のために

 かつり、こつ。こつり、かつん――。


 わずかにタイミングが合わないボクらの靴音が深夜の街に響いては、日付変更線を越えるよりもはるかに早く落ちてくる。だけどそれらが相見えることは無く、ただひたすらに落ちて転がっては背を向け合っていた。


 終電にはまだ時間があるとはいえ、残された時間はそれほど多くない。夏純かすみは少しだけ気怠そうに闇を横目に見ていた。


 隣を歩く夏純かすみとの約束を果たすためには、どの辺りで口を開けば良いのだろうか。昔の彼女に言ってしまったら間違いなく飽きられてしまいそうなものだったが、それでも何も言わずにいてくれている。そんな彼女に甘えるようにして自分の気持ちを計りあぐねている間に、それこそ二駅分も三駅分も、凍てつくような摩天楼を歩いてしまっていた。


 それはボクが何となく名残惜しさを覚えていたせいに違いない。時間があるのを良いことに、それでもなお飽き足らずその時間を引き延ばそうとするように、好き勝手に君との時間を味わっていた。


 情けない、とは思う。思ってはいる。


 だからこそ、ボクらはこういう結末を描き合うことになったのだろうけれど。


「……あ」


 彼女は不意に立ち止まった。何となくそちらを見遣れば、彼女は空を見上げている。さらにその視線に釣られるように見てみれば、また新しく建ったビルのせいですっかり狭くなっている空の隙間から、こちらを覗き込むように見ている月がひとつ浮かんでいた。


「満月だったんだね」


「そうだね」


 下ばかりを見ていたことがよくわかる。


 上なんて見てこなかったことが痛いほどよくわかる。


 ――そして、前すらもまともに見ていなかったことも、この凍てつく寒さのように痛いほどによくわかった。


 気が付けば地下鉄コンコースへの入り口が目前だった。車体にサインカーブが描かれた丸ノ内線の電車は、まもなく君を連れてこの場所から出ていくのだ。


春海はるかくん」


「うん?」


「ここまででいいよ」


「……うん」


 さらりと長い髪を冬風に泳がせながら告げた彼女に、言い淀むことのないように心がける。一応はすんなりと声が出てきた。きゅうだいてんとしか言いようがないのは間違いないけれど。


「今までありがとう」


「……こちらこそ。いくらありがとうを言っても足りないくらいだよ」


 今度は少し間が空いたが、後からの言葉でそれをつくろう。でも、これはボクが間違いなく、心から思っていることだった。その意図が伝わってくれたのか、彼女は少しだけ視線をボクから外してやや寂しげに微笑むと、普段通りに戻ってまたこちらを向いた。


「私はね」


 そう言いながら彼女は少しだけ言葉を区切った。


「この日を絶対に忘れないと思う」


 まっすぐな目でかれてしまったボクは、彼女に告げる言葉を見失ってしまう。そんなことを覚えていても、君の邪魔になるだけなんじゃないのか。そう思うけれど、何故だかそれを告げるのはためわれた。 


「これはきっと、記念日だから」


「記念日?」


「そう」


 想像していなかった言葉が出てきたけれど、ボクは力強く頷く彼女から目が離せなかった。ビルの狭間とは思えないほどのなぎが、静かに、ほんの少しだけ渦を巻くようにして通り過ぎていく。


「ふたりで、それぞれの『前』を見て歩いて行く記念日」


「……そうか。そうだね」


 ふたりで、決めたことだった。今までもボクたちはよく話し合ってきたと思っていたけれど、今までのボクたちの歴史は『ただの過去』でしかなかったのだと痛感してしまうくらいに、話し合いを重ねた。幾重にも重なりあった室内管弦楽は、ちょうど彼女が言ったようなフィナーレを迎えることになった。


 これを発展的解消と表現すればある程度聞こえが良いモノになるのかもしれない。幾分かの恰好も付くのだろう。


 ――だけど、それは。


「すごく、イイと思う。君らしくて」


「……ありがと」


 ――今のボクは、今の君にとっては『過去』でしかないのだろう。


 いつだって前を見ていた君にヒーローめいたものを見つけてしまっていたボクにとって、君が進んでいくだろう方向がボクの進む方向だった。もちろん少しでも君に近付けるような努力を、ボクなりにはしてきたつもりだった。


 結論から言えば、その努力は所詮君にとってはその程度のものでしかなかったようで、敢えてキツい言い方で片付けるのならばそんなボクに君は『NO』を叩き付けたのだ。


「……だったら」


 大きく息を吐き出す。ならばボクも、今更下手に取り繕ったりすることなんて止めにしよう。


「だったら、ボクにとっては『祈念日』ってことにしておくよ」


「同じじゃない?」


 違う、とボクは首を振る。


「『いのおもう』方の祈念日だよ」


「なんの?」


「君のすべて」


 そう微笑めば、彼女は一瞬だけげんな顔を見せたが、すぐさま普段通りの顔つきに戻ってしまった。


 ――それもそうか、と自分を窘める。


 ボクなんかに祈られたところで、その鐘の音が彼女の胸に響くことはないのかもしれない。もしかすると、彼女にとっては、ただただうるさいだけの音でしかないことだってあり得る。


 さっきもそうだ。


 何となく合わない歩幅。合わせようとしても合わない速度。


 思い返せば、ボクらはいつだって、少しだけズレ合っていた。


 ズレ合っていれば調和もしない。キレイに合わさることも無い。


 キレイに混じり合うことさえも、無い。


 どこかいびつで、ひずんだ音を鳴らし合う、どこまでも純粋なおんだった。




     ○




 先ほど見上げた月に思わず助けを求める。もちろん月だって迷惑なのは百も承知だ。当然のように助け船なんて出してはくれない。だって、月からこの街までの船なんて、動かすだけいくらかかるか計算したくもない。


 やっぱり、もう少しくらいは取り繕ったりしていた方が、ボクらのためになったのだろうか――。


 幾度かの夜を越えて、その都度考え直して、それを伝えるべきなのかと迷ったのは確かだった。その都度スマホに手をかけて、その度ごとにメッセージを打ち直しては、その文字を一文字たりとも残さずに消していった。その姿はさながら、今までの思い出を噛みしめるように、アルバムから写真を取り出していくみそぎのようだった。


 それももう今夜で、おしまいだ。無理強いなんてするような関係性はおしまいにしよう。


 だけど、最後に一度だけ。ひと目だけ、彼女の姿を自分の瞳越しに焼き付けよう。それを古いアルバムの最後のページに貼り付けて、それをここへ置いていこう。


 自分の気持ちを確かめるようなため息をひとつつきながら、月を見上げた。


 ――そのときだった。


「……ゎかった」


 不意に襲ってきた違和感に弾かれて、視線を戻す。


 声が震えたように聞こえたのは、残念なことに気のせいではなかった。


「……あれ? おかしいな」


 何かを取り繕うとしていたのは、ボクだけではなかったらしい。


 にわか雨に降られたように、彼女の瞳から流れ始めた雫は突然止まってはくれない。


「こんなはずじゃ、……なかった、のに」


 ひとたび震え始めた彼女の声、肩。ノイズまじりになるように、しゃくりあげる。ついさっきまでは全くそんな素振りなんて見せなかったのに。あまりにも突然なことに、ボクも戸惑うばかりだった。


「だいじょうぶ?」


「ううん、違う。違うの、ごめんね」


 今までこんなにも儚く、消えて無くなってしまいそうな彼女を見たことがあっただろうか。必死に涙を拭おうとしている彼女を見て、ボクはまた最善策を探そうとする。


「み、未練なんて、残さないっ、はずだったの、に……」


 震えてそのままバラバラになってしまいそうな彼女を、何とか抑えてあげたい。そうしたい気持ちはもちろんあるのだけれど、それと同時に、今のボクにその資格はあるのだろうかと考えてしまう。


 ――違う、そうじゃない。


 もしかすると、ボクが邪魔なだけかもしれない。


 何だ、そういうことじゃないか。ここに思い至るのが遅すぎる。余計な他人ボクの目があるから堪えようとしているだけだろう。彼女に聞こえないように、自分に対してのため息をついた。


「謝らなくていいよ、だいじょうぶ。もう少しの辛抱だから」


「わたし……、まだ、好きなの、かな……?」


「……え?」


 少しだけ遠ざかろうとした足が止まった。


 聞き間違いでは、無いよな。


 聞き逃してはいけない。


 遠ざかりかけた距離を、少しだけ戻す。


 靴音が鳴る。


 彼女が涙で溢れさせながらこちらを見る。


「こんなときに、めいわく、だよね……。勝手だよねっ、じぶんから言っておいて」


 時折しゃくり上がる声が、何かにすがこうとしてためっているように聞こえるようになった。


 震える肩と手は、ぬくもりを求めようとして、そんな自分に戸惑っているように見えるようになった。


「そんなことない」


 言い切る。


「迷惑では、ないよ。迷惑だとは感じない」


 少なくとも、それを迷惑だとは感じなかった。


 視線を浴びながらも、自問自答をしてみる。どんな答えをこの人は求めているのかが気にならないわけではないし、分からない素振りをするようなこともしない。分かっている。何を求めているかなんて概ね分かっていた。ボクとしても、その程度のことが分かるくらいにはこの人を知っていたし――愛していたと思う。


「何も、感じないから」


 だからこそ。


「……もう君からは、何も感じないよ」


 もはや感情は動かない。


 どれだけ外力を加えてきたとしても、この人の言葉では、態度では、もうボクの感情が動くことはない。互いの未来を祈り終わってしまった今、きっとどんな梃子を使っても動かないのだろう。


 向こうから距離を詰めてくる。


 当然こちらは距離を取る。


 一歩寄れば一歩離れる。二歩寄れば二歩離れる。


 それを数度繰り返してもなお近付こうとする力は残っていないようで、虚空に伸ばしたような腕は力なく垂れ下がるだけだった。


「だから。……今まで、ありがとう」


 ――歪んだ音なんて必要は無い。


 綺麗な音だけで奏でられた音楽なんて面白くないかもしれないが、これは音楽ではなく人生だ。ボクにとってはもう、傷つけ合った結果としてできた痕を見ても美しいと思えるような関係ではないのだ。


「さよなら」


 最後の一歩を踏み出して、歪み合っていたふたつの音は今、鳴り止んだ。


 時を同じくして、美しいふたつの音がそれぞれの場所で鳴り始める。


 距離を取り合ったふたつのおんは、冬空に浮かぶ星のように澄んだ音を響かせ始めた。






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