野なかのいばら
鳥尾巻
初恋をもう一度
わらべはみたり
のなかのばら
きよらにさける
そのいろめでつ
金網のフェンス越し、遠くに聞こえる合唱部の声を聞きながら、
目の前を走っている女の子を、なんとかして捕まえたい。やっと見つけた。ずっと探していた。
小学校卒業と同時に、親の仕事の都合で転校して、会えなくなった初恋の女の子。離れた先でも昔の友達と連絡を取り合い、情報を集め彼女と同じ高校に行けることに浮かれたのは先月のこと。どのクラスにいるかはすぐに調べて知っていたのに、まるでその存在を消してしまったかのように彼女を見つけることが出来なかった。
記憶にあるのは、小柄な体。白い顔と大きな目と長い睫毛、小さい鼻に赤い唇。真っ直ぐな黒い髪を高く結んで、いつも誇らしげに薔薇色のリボンを揺らしていた。
なのに、再会した彼女は、重たげな前髪に綺麗な目を隠し、近づく太一に怯えたように逃げ出した。長く美しい髪は当時のまま、春の日差しを浴びて艶やかにひるがえる。
「待って!」
太一の声に、一瞬だけビクリと肩を震わせたが、彼女の足が止まることはない。本当は余裕で追いつける。けれど強引なことをして怯えさせたくはない。追いかけている時点でもうアウトなのだが、この機会を逃したくなくて必死な太一は気付いていない。
「待って、いばら!」
いばら。胸の内で何度も繰り返した名前を呼ぶ。驚いたように振り返った彼女は、足をもつれさせ、そのまま転びそうになった。
その細い体が地面につく前に、太一は後ろから抱き止めた。長い黒髪が白い
甘すぎず軽やかな、それでいて華やかなダマスクローズ。近くに行かなければ嗅ぐことのできない、控えめで微かな香りに、太一は一瞬我を忘れ、うっとりしてしまう。
「……は、は、離してください!」
腕の中で身じろぐ彼女の消え入りそうな声にハッとする。慌てて手を離すと、いばらは自分を守るように胸の前でピンクのリュックを抱き締め、震えながら太一を見上げていた。
太一は気まずい思いでこめかみを掻く。小学生の時から大柄な体は、そのまますくすくと成長した。気が強そうな太い眉も少し吊り上がった目も、相手に威圧感を与えてしまうことは自覚している。
「あの……、どなたですか?」
「ああ、ごめん。俺、太一。清水太一。小学校の時一緒だったよね」
怖がらせないように、出来るだけ優しい笑顔を作れば、その頬に片方だけエクボが浮かぶ。いばらは重たげな前髪の間から、その表情をじっと見つめた。記憶を辿るように、大きな瞳が揺れ動き、赤い唇が小さく震える。
「たいち……」
自分の名前を紡ぐその唇に、昔一度だけ触れた。あの時も追いかけて、追いかけて、落とした薔薇色のリボンを結んであげると言って。
日頃から振り向いて欲しくてわざと意地悪をしていたから、警戒されているのは分かっていた。あの時だって本当に、ただ、結んであげるつもりだった。
意地悪だって本当はしたくない。こわごわと触れた髪の感触、近づいた時にしか分からない、柔らかい薔薇の香り。気付いたら口づけていて、驚いた彼女にひどく泣かれた。あまりにも不器用で衝動的な過去の自分に説教したい。
その後すぐに彼女の父親が帰って来て咎められ、リボンも返しそびれたまま、転校してしまった。柔らかく痛い薔薇の棘のように、あの日の後悔が胸を刺し続けている。
「清水太一……太一。あ、あ……」
こぼれそうに開かれた瞳。気弱な表情が消えて、白い頬に赤みが差す。伸びて来た小さな手が、太一のブレザーの襟元を掴んだ。
「リボン!私のリボン返して!」
「あ、ああ」
あまりの勢いにのけぞった太一だが、思い出した第一声がそれでは、少しばかり面白くない。会いたかったとまではいかなくても、少しは懐かしがってくれてもいいのではないだろうか。彼女にしてみれば、良くない思い出だったとしても。
「あの時はごめんね。でも今、持ってないんだ。返そうと思ってたから、ちゃんと大事に取ってある。後で持ってくるね」
「大切なものなの」
「うん。ほんとにごめん」
「太一が謝るなんて変なの」
「俺だって成長するよ」
ここから新しく始めさせてほしい。願いを込めて微笑むと、いばらは
たおらばたおれ
おもいでぐさに
きみをささん
くれないにおう
のなかのばら
この2人の最初の物語は、香水 ~香りの物語~「ダマスクローズ」に収められています。
https://kakuyomu.jp/works/16817330649642278134/episodes/16817330649720036989
【引用】
Johann Wolfgang von Goethe「Heidenröslein (野ばら)」
Franz Peter Schuber作曲の歌曲
訳詞/近藤朔風
野なかのいばら 鳥尾巻 @toriokan
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