【ショートストーリー】海、そして桜、わたしの心
藍埜佑(あいのたすく)
【ショートストーリー】海、そして桜、わたしの心
私はこの小さな病室や、陰鬱にだまり込む時計の音や、何よりもしっかりと絡めとる病の存在に慣れてしまった。
目を覚ますたびに、常に同じ天井と、私の抜け殻のような体が私を待っている。
病院の壁に頭を預け、海を眺めるのが日課だ。
私にとって、海は変わらぬ友だ。
灰色の波が静かに打ち寄せ、引いていく様子は、私の心の動揺を鎮めてくれる。
息苦しいことが多い中で、その規則正しいリズムだけが、私にとって数少ない安心を与えるものだ。
灰色の波が織り成すリズムに心を託しながら、私は今日も海を見つめる。
その穏やかな光景を眺めていると、エリスさんが静かに部屋に入ってきた。
「また海を見ていらっしゃるんですか?」と、彼女は私に話しかける。
その声には温もりが宿り、毎日が少しずつ色褪せていく私の世界に、彼女だけが持つ特別な明るさを少しだけ灯してくれた。
私は弱った体で答えた。
「ええ、海は私にとって変わらぬ友ですから」
そう言いながらも、私の声は風にさらわれる花弁のように、わずかだが揺れていた。 エリスさんは私の横に座り、優しい目で私の顔を見つめた。
「海はあなたにとって、どんな意味があるのでしょう?」
彼女は問うた。
彼女の目は不思議と安らぎを帯びており、その深みには無限の思いやりがあふれているようだった。
私の心に静けさをもたらしてくれるのと同じように。
私は息を深く吸い込み、ゆっくりと話し始めた。
「この部屋で過ごす時間は長く、ときには孤独を感じます。ですが、海はいつもそこにあり、私に変わらぬ姿を見せてくれます。その姿が、私にはとても心強く感じられるんです」
言葉は心からのものであり、海が私にもたらす安らぎのかけらを彼女と分かち合いたかった。 エリスさんはそっと微笑んだ。
「その変わらない海が、あなたにとっての希望なのですね……」
彼女の声は柔らかく、私の魂に寄り添うような響きだった。
しかし私の病状は進行し、日に日に私を少しずつ消耗させていく。
弱くなっていく身体はもはや、枯れ葉のようにもろくて、ただベッドの上で時間と静かに向き合うしかない。
もう、来る者はほとんどいない。
「そろそろ、どうかしら?」
聞き覚えのあるソプラノの声。
死神のティアラさんだ。
この病いに憑りつかれてからずっと彼女は私を冥界に誘ってくる。
彼女と私はすっかり顔なじみになってしまった。
死神が私に囁く。
「わが友よ、そのような姿になってさえ、そなたの心の静けさは何処から来るのだろう?」
彼女は尋ねる。
黒く長いローブを纏い、静謐な死の象徴として現れた彼女の言葉は、まるで冷たい夜風にのって、私の耳に届く。
私は言葉を紡ぐ。
「海です。海は私が変わることのない友であり、その律動はこの身の苦しみを和らげる唯一無二の存在です」
彼女は静かに頷き、深淵からの叡智を持つような瞳で私を見つめて言う。
「変わりゆく時の中に一貫したものを見出すとは、生の輝きをも捉えること。だが、そなたの時間は永遠に流れる海とは異なり、やがて尽きるもの」
私は、微笑ましい憂いを帯び、彼女に答える。
「その時が来れば、私は素直にその運命に身を任せるでしょう。しかし、今はまだ、この灰色の波を掬い取りたいのです」
彼女の唇がほころび、そして、静かに発した。
「そなたは強い意志を持っている。海のように深く、それでいてしなやか。だから、私はまだ、そなたを連れていくことはしない」
私たちはしばしその沈黙を共有する。
彼女は消えぬ影のように私の傍らに座り続け、桜の散りゆく美しさにも独特な哀愁を語りかける。
「すべての終わりには、新たなる始まりがある。だから悲しむことはない、わが友よ」 その言葉に勇気付けられ、私の心は広がる。
私たちは上弦の月の光の下で交わったこの淡い会話を胸に、再会する日の約束をし、各々の時間を生きてゆくのだろう。
桜が再び咲いたとき、彼女が再び現れても、私は恐れずにその手に自ら手を重ねる。
だが今はまだ、生の調べを奏で、灰色の海に詩を捧げる時なのだ。
時たま訪れる牧師も私の心を癒してくれた。
牧師は、いつもそっと私の隣に座り、聖書を読んでくれる。今日は「伝道者の書」の言葉だ。
その言葉たちは、虚無を内包しつつも、どこか慰めを与えるものがある。
時には、何もない空虚さ、生きている意義さえ問われる気がする。
私は牧師に問いかけた。「なぜ、『伝道者の書』なのでしょうか?」
彼の目は暖かい。
そして、彼の答えは、病んだ身体に染み渡るようだった。
「人は生を受け、そしていつかは死を迎えます。その瞬間をどう生きるかが大切なのです」
濃霧が出て海を見ることができなくなった日、私は庭に出た。
そこには、散りゆく桜の木があった。
花は失われつつあったけれども、枝は確かな未来を予見させるようでもあった。
生と死、そのサイクルの中で、私は桜の木の中に、生のときめきを感じ取ることができた。
虚無を孕んでいるかもしれないこの毎日の中で、私の意味を見いだすことができる。
これが、私にできることであり、この病院での私の「旋律」なのかもしれない。 牧師の声は再び「伝道者の書」を読み始めた。
以前と変わらざる言葉に、新たな意味を見つける。
もう、世界の哀愁を感じることだけではない。
見いだせる小さな光、希望への讃歌を聴くのだ。
私は学んだ。生も死も、希望も絶望も、すべてが私の存在を構成するものであることを。
そして、その価値を私自身、この病院の静かな部屋で、灰色の海を見ながら見出そうとしているのだ。
たとえあの桜のように、濃霧に溶けて消え去ってしまうのだとしても。
(了)
【ショートストーリー】海、そして桜、わたしの心 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます