最終話 子虚の賦
景帝が崩じ、後を継いだ
国庫に積まれた莫大な財貨をもとに、
「ああ。朕は生まれるのが少し遅かったようだ」
嘆いている武帝を側近がいぶかしむ。武帝は古そうな竹簡を差し出し、もう一度大きくため息をついた。
「先日、これを書庫で見つけたのだ」
「これは『
どれだけ愛読されたのだろう、その竹簡は薄汚れ、綴り糸は擦り切れそうになっている。
おお、とその側近は声をあげた。
「陛下。その作者は蜀に健在でございます。司馬相如と申すもので、先帝付の武官でした。見事な詩文を書くことで知られております」
さらに
「蜀の司馬相如というか」
武帝は大きく頷いた。
「その者を長安に呼べ。朕の側近としようではないか」
☆
武帝に謁見した相如は古びた竹簡を見せられた。
「先帝が愛読していたものだそうだ。そちが書いたものか」
それは紛れもなく彼の『子虚の賦』だった。これを景帝が。そう思うと相如は複雑な気分がした。
「先帝陛下は、私をお認めではないと思っていました」
相如が言うと武帝は首をかしげた。やがて何かを思い出したように頷く。
「
と、武帝は景帝をそう呼んだ。皇帝としてではなく、文学を愛する一人の青年としての言葉だった。
「飾りの多い文を好まなかったからな。装飾の多きは
「恐れ入ります」
それは王吉にもよく言われた事である。
「ただ、晩年に至り心境が変わったようだ。年齢のせいか、あるいは」
そこで武帝は手にした竹簡に目をやった。
「これを読んだためかな」
相如は黙って頭を下げた。
☆
相如は武帝のもとに
それにあたり採用試験ともいうべき課題が相如に与えられた。内容は武帝のために『賦』を書くことである。
考えた末、相如は『子虚の賦』の構成をそのまま用いることにした。登場人物は三人。この中の
完成した『天子遊猟の賦』は、皇帝が狩りのために赴く地方の美しい光景、物産、歴史、人々の在り様を記し、それを統べる皇帝の業を称えるのである。
だがその文は駆り出される庶民の苦難にも及ぶ。賦の形を採りながら、やんわりと皇帝の狩猟好きを諫めているのである。これは朝廷に仕える士大夫として必要な能力とも言えるが、まだ定まらない相如の立場からすれば大きな賭けでもあった。
相如が賦の中に潜ませた
相如は無事に郎として採用された。しかしその後、若き皇帝が遊猟を控えたという記録もないようだ。
「
相如は肩をすくめた。
☆
この頃から病気がちになった相如だったが、故郷である蜀の情勢が危ういと聞いて急ぎ参内した。
「
武帝は開口一番に言った。夜郎とは、蜀からさらに南西にある国である。漢の使者に対し、その王が漢と夜郎のどちらが大きいかと問うた『
「夜郎征伐のために蜀で徴兵を行ったのだが、古老と揉めてしまったようだ」
苦々し気に武帝は言う。この若き天子にとって初の対外戦争である。決して失敗する訳にはいかなかった。しかし、それにも関わらず、蜀はいまや一触即発の状況にあるという。
(蜀が郡をあげて反乱だと?)
相如は頭痛をおぼえた。
「相如、そちを中郎将に任ずる。蜀へ赴きこの混乱を鎮めてまいれ」
相如は一礼して謁見の間を後にした。
自宅へ戻った相如は文君の居室を訪ねた。郎となって、彼女とともに長安へ居を移していたのである。
「蜀の民を救ってください、相如さま」
そう言って文君は文房一式を彼の前に出した。硯に筆、墨。それは見覚えのあるものだった。
「これは、
「あの後、すべて買い戻しました」
文君はにこりと笑う。
相如は筆を走らせた。まず徴兵使の横暴を責め、次いで蜀の古老へは夜郎討伐の必要性を説くと共に、武帝の蜀への思いを伝えて自制を求める。
触れ文であるため、韻をふむこともしない。しかし、理を尽くし情に訴える名文が出来上がった。
成都に到着した相如はその文を布告した。
その夕べ、蜀の有力者たちが相如のもとを訪れた。老人も居れば若者もいる。その誰もが目を泣きはらしていた。
「我らが間違っておりました。中郎将さまのあの文を読んで目が覚めました」
口々に言うと、そろって頭を下げる。その中には岳父、卓王孫の姿もあった。
一昔前まで文章に価値など認めなかった者たちが涙を流している。時代の変遷というだけではない。若き頃の相如、王吉らが持ち帰った書籍、それに基づく郡を挙げての教育の成果が文化として根付きつつあった。
やっと蜀は
その事に相如は感動した。
「蜀は長い夜を抜け、黎明を迎えている」
相如は彼ら一人ひとりの手をとって、同じように涙を流した。
こうして蜀の反乱は、相如によって未然に防がれた。
やがて蜀は長安、洛陽と肩を並べるほどの文化を持つに至る。その華を咲かせたのは間違いなく、司馬相如らが蒔いた一粒の種からだった。
☆
司馬相如の死因は、糖尿病に起因した合併症によるものと伝わる。
寡婦となった文君を訪れた使者は、相如の作品をすべて武帝へ献上するよう告げた。
「あの人の書いたものはもう一つも残っておりません。生前、知人から請われるままに譲っていましたから」
文君は寂しげに目を伏せた。
「ただ一篇、陛下の使いがいらしたら、お渡しするよう言い残したものが」
そう言って竹簡を手渡した。
文君は屋敷の奥へ入ると、一巻の書を取り出した。これが本当に相如が残した最後の文だった。既に内容を暗記するほどに読み返している。
文君への感謝が記してあり、彼にしてはとても短い文だった。
「これは絶対に、他の誰にも見せられませんからね」
まったく彼の文章とは思えない。しかしこの装飾の無い文に、相如の
文君はかすかに微笑んで、その巻物を胸に抱いた。
詩文の国、遥かな黎明 杉浦ヒナタ @gallia-3
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