第4話 酒肆の主

 一旦は成都へ逃げた相如しょうじょと文君は再び彼女の故郷、臨邛りんきょうへ戻って来た。

 しかし早速、文君は腕組みして悩むことになった。


「これは困りました。それにお父さまが意外と狭量な小人物だという事が分かって、がっかりです」

「言い方が酷いです、文さん」


 襲撃こそ受けなかったものの、卓王孫が娘の不貞に激怒しているという噂が伝わると、卓家の影響力を懼れた人たちは誰も彼らに手を貸してくれなかったのだ。

 文君の当初の見込みは外れてしまったようだ。

「では次の案です」


 そう言って文君が相如を連れてきたのが、この店舗だった。

「以前、うちの屋敷へ出入りしていた老人の店なんですよ。もう歳で店を閉めるから借り手を探しているという話を聞いていたんです」

 決して大きな店ではない。手前は客を入れるための、こじんまりとした空間があり、奥には調理をし、酒を温めるための火炉が据えてある。

 

「家賃は払います。それならお父さまも文句は言えないでしょうから」

 お嬢さまから家賃を取る訳にはいかないと言う老人を文君は説得し、相場よりも高額の金を無理やり受け取らせた。

 その金は、乗って来た馬車や、身につけた装飾品を売り払ったものである。


「こんな事なら、服とか、もっと持ち出しておけば良かったですね」

 いたずらっぽく笑い、文君は言った。

 もちろん相如も当座の金になりそうなものは全て手放した。


「これもですか?」

 文君は相如が差し出したものを見て眉をひそめた。それは墨、すずり、筆といった文房具だった。


「大事なものなのでしょう」

 彼女もさすがに文房具の価値は知らない。しかし決して安いものではない事はそれに施された装飾で判る。

「いいんだ。今の俺には必要ない」

 文君はそれらと相如の顔を交互に見た。そして、小さく首を振る。

「そうですか」

 言うと文君は文房具をまとめて箱に納めた。


 二人はこうして工面した資金で酒肆しゅし(居酒屋)を始めたのだ。


 ☆


「あまり来ませんね、お客さん」

 暇を持て余した文君は温めた酒を手酌で呑んでいる。彼女目当ての客も居るのだが、思う程には増えていなかった。

「だからといって商品に手を出すなよ、文さん。それ結構高いんだから」


 ここで文君が飲んでいる酒の種類はよく判らない。

 水が貴重な地域では、穀物とこうじを少量の水で練ったものを地面に掘った坑に埋めて醗酵させる固体醗酵醸造が行われている。

 醗酵し酒精アルコール分を含んだもろみを掘り出し、蒸気で加熱することで酒を造り出すのである。蒸留を繰り返せば、その分アルコール度数が高い酒が出来上がった。もう少し水が豊かな地域では蒸留せず、別の容器に移し加水して更に醗酵させたものを搾るという方法もある。これは日本酒の製法に近かった。

 出来上がった酒は、もし蒸留酒であれば無色透明、醸造酒であれば原料穀物由来の黄色や紫っぽい色が付いていたに違いない。

 はたして文君の飲む酒はどんな色だったのだろう。


「やはり旦那が筋骨隆々で強面こわもてだから、みんな怖がるのでしょうかねぇ」

 ちらりと相如を見る。繊細そうだった彼の容貌も無精ひげで野性味を強くしている。しかしそれが原因では無いのは自明のことだった。


「文さんがスケベ親父を張り倒したからに決まっているでしょ」

 文君は、うぐ、と言葉に詰まる。


「で、でも相如さまだってボコボコにしてたじゃないですか。あまりの惨劇にわたし思わず目を蔽ってしまいましたよ」

「それは、あの男が俺の大切な文さんに手を上げようとしたからだ」

「え?」

 目を瞠った文君は急に赤くなって、もじもじとする。

「それは……あ、ありがとう、ございました」

 と、消え入るような小さな声で言った。


「そんな事より、このままでは本当にジリ貧ですよ。何とかしないと」

 もうそろそろ家賃が払えなくなりそうだった。文君は握った左手のこぶしを口元に当てて考え込む。


「仕方ない。この手だけは使いたくありませんでしたが……」

「なんですか、文さん」

 文君は相如の身体を、上から下まで舐めるように見る。うんうん、と何度かうなづいた後、すっと目を細めた。

「相如さま。それ、脱いでください」


 

 ほどなく二人の店は大繁盛となった。

「お待たせしましたぁーっ」

 ほとんど犢鼻褌たふさぎ(ふんどし)だけの姿で相如が酒を運んで来る度、黄色い歓声があがる。

 大胸筋や腹筋、それに臀部のあたりに刺すような視線を感じ、相如は赤面する。それを見た女たちは更に大喜びだ。

「可愛い、相如くん」

「もっとお酒を持って来て♡」

 そんな女たちを目当てに、男もやって来るようになった、のだが。


「もう勘弁してくれ、文さん」

 厨房に入った途端、相如は泣き言を言う。他人に、それも市井の女に裸体を見せて客を呼ぶなど、かつて朝廷に仕えていた士大夫として有り得ない堕落だった。


「でも、火炉の前は暑いでしょう。親切心で脱げと言っているんですよ、わたしは」

「それは何か違う気がする」

 言いながら相如は温めた酒器を取り出す。確かに薪の燃える炎で相当に暑い。


「というか、裸だと火の粉が飛んで来て火傷するんだけど。ほら、こことか」

 相如は赤くなった腕の部分を差し出す。

「まあ、火ですからね」

 しかし文君は彼の言う事に耳を傾ける気は無いようだった。

 


 ある日、上等な身なりをした男が店を訪れた。客ではない。その男を見た文君の表情が固まった。

「お嬢さま。御父上の使いで参りました」

 彼女も良く知る、卓家の執事だった。


「全て許す。だから商賈しょうこの真似は止めてくれ、とのことです」

 相如と文君は顔を見合わせた。

 

 文君が臨邛で酒肆を始めた事は当然、卓王孫の耳に入っている。当初は無視を決め込んだ卓王孫だったが、訪れた一族の者や賓客達の話題に上るに至って、ついに折れたのだった。


「でも、この生活も楽し……」

「分かりました、すべて仰せのとおりにっ!」

 あわてて文君を制し、相如は叫ぶように言った。


 相如と文君は卓家の財産と、百人もの使用人を分け与えられた。

「まさか最初からこれを狙って?」

「さあ、どうでしょう。でもお父さまがいい人で良かったです」

 文君は微笑んだ。


 こうして彼らは成都に邸宅を構え、幸せな生涯を送りました。

 ―――とは、ならなかった。


 相如は再び長安へ向かう事になる。彼を招いたのは即位したばかりの若き天子、漢の武帝だった。





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