第2話 文君の琴

 やはりと云うべきか、相如の宮仕えは長く続かなかった。

 漢の景帝はおよそ詩文というものに関心が無い。文章とは、誤りなく意図が伝わればそれで良い、程度にしか思っていなかった。

 文帝の後を継ぎ、堅実な政事まつりごとを行った名君として名高い景帝だが、この時代はまだ呉楚七国の乱に見るように、秦末の戦乱から続く殺伐とした空気が残っている。皇帝自身もその例外ではなかったのである。


 相如が奏上した竹簡を拡げた景帝は、一瞥いちべつしただけで巻き戻し、卓に置いた。

「これはお前が書いたのか」

「いかが……でしょうか」

 景帝は顔をあげ、ちらりと相如を見た。そして軽く首を振る。

「文字が多すぎる」

 それだけ言うと、次の竹簡に目を通し始めた。



 相如は病と称し帝都を去った。

 たまたま長安を訪れていたりょう王のもとへ走ったのである。梁王には鄒陽すうよう枚乗ばいじょうといった高名な文人が付き従っていた。彼らと親しくなった相如は梁王の帰国の一団に加わり、そのまま戻らなかった。


 梁王の宮廷滞在時に相如が著したのが三千文字にも及ぶ長編『子虚しきょ』である。

 賦とは屈原くつげんの『楚辞』に始まるといわれ、五言詩、七言詩という形式に拘らない、自由な詩形を言う。対句や韻を駆使しつつ、煌びやかな言語世界を展開するのが特徴である。その性質上、文字数が膨大となる事も多く、相如の『子虚の賦』も例外ではない。

 そして、賦という形式によってこそ、彼の才能は遺憾なく発揮される。『子虚の賦』は梁王によみせられ、相如の名は一躍、高まった。


 だがその梁王もこうじると、居心地の良いサロンも解散となった。居場所と職を同時に失った相如は、やむなく蜀へ戻ることにした。


 ☆


「待っていたぞ、相如」

 失意の彼を出迎えたのは蜀の臨邛りんきょう県の県令となった王吉だった。都での相如の噂は王吉も伝え聞いている。

 だが皮肉なことに出身地である蜀において、相如はまだ全くの無名だった。


 王吉は相如を旅籠へ案内した。

「お前も実家へは戻れないだろうし、とりあえずここで待機していてくれ。おれに考えがある」

「そうだな。すまん」

 言葉を濁す王吉に、相如も曖昧に応えた。


 臨邛には卓王孫たくおうそんという蜀でも有数の富豪がいる。王吉は、奴僕、食客八百人を数えるというこの男に相如を引き合わせようというのだった。


 ☆


 その日、卓王孫が主宰する宴席に招かれた王吉は、膳にも手を付けず何か考え込んでいる風を装った。


「如何なさいましたか、県令どの」

 心配そうに問う卓王孫に、王吉は手を振って詫びる。


「実は、都で名高いお方が今この臨邛へ滞在しておられるのです。その方を差し置き、宴に興じるのは心が弾まないもので」

 卓王孫は目を瞠った。

「なんと。それでは早速、車を差し向けましょう」


 それを制し王吉は立ち上がった。それならば自分が迎えに行くという。

「県令さま直々に迎えとは……」

 一堂に会した人々は不思議そうな顔で彼を見送った。



「さあ、乗れ」

 いぶかる相如を車に押し込むと、わざと悠然と車を進める。この間に、残しておいた王吉の部下が、都での相如の噂について触れ回る事になっている。彼らが到着した時には、都で一番の文人の話題で持ち切りになっているだろう。


 王吉が相如を案内して堂内に入る。

「おお、これがあの司馬相如か」

 王吉の思惑どおり、相如を見た賓客たちが一斉にどよめいた。まず目を引くのはその長身だろう。服の上からでも鍛えられた肉体であると分かる。そしてそれと不釣り合いなほど端正で涼やかな容貌であった。そしてこの美青年は都でも評判になる程の文才の持ち主だというのである。


「お招きいただき、感謝します」

 相如は言った。低く渋い声に、皆が再びどよめいた。

「ご降臨いただき、感謝するのは我らの方です。さあ。早くこちらへ」

 卓王孫が自らの隣の席へ招く。

(これでいい。後はうまくやれよ、相如)

 王吉は満足げに頷いた。



 相如は穏やかな笑顔を見せながら、内心ではひどく落胆していた。

 ここに居並ぶ田舎紳士たちは詩文の知識をほとんど持っていないことが分かったのだ。中央で流行る詩、賦について相如が熱く語っても何の手応えもない。

 ここも景帝の宮廷と同じか。相如は心の裡でため息をついた。


 その時、ふわりとこうが薫った。

 相如が酒杯から顔を上げ目をやると、侍女を連れた女性が部屋に入って来る。賓客達の間にどこか困惑の雰囲気があることに気付き、相如は王吉に目をやった。だが王吉も眉をひそめるだけで、相如に応えようとはしない。


「楽を供させて頂きます」

 声をかけたのは、そのやや鋭い目をした、凛とした佇まいの若い女である。侍女に琴を用意させると、じっと相如を見据える。この青年の価値を見定めようとするような視線だった。

 

「彼女は卓文君。卓氏の娘だ」

 王吉が相如に耳打ちする。どこか含むような口調なのが気になった。

「どういう方なのだ」

 ああ、と王吉は口ごもる。

「琴の腕は見事なものらしい。ただ……」

 それ以上、何も言わない。


「片田舎の拙い伎ではありますが、せめてものお慰みに」

 そう言うと文君は琴を弾き始めた。ぴん、と張り詰めた音が響き、相如の耳朶を打った。最初の一音だけで演奏者の技量を感じさせる音である。

「これは」

 相如は唸った。かつて相如が長安で聞いたことのある曲だった。


 演奏しながら、文君は挑むような目付きで相如を見る。

 相如がふと隣に目をやると、卓王孫が苦虫を噛み潰したような顔で娘を睨んでいた。


「いいだろう」

 相如はもう一度文君に向き直る。

「私にも琴を」

 そう言った。これは文君が自分を試しているのだと気付いたのだ。文君は意外そうに唇を尖らせ、少し怒ったような表情で侍女に琴の用意をさせる。


 琴が並べられた。


「いつでも、結構です」

 軽く会釈した相如は、彼女の演奏に合わせて弦をはじく。最初こそ呼吸が合わない二人の音だったが、たちまちの内に見事に溶け合い、賓客たちはその美しさに声を忘れた。


 曲が、ある部分に差し掛かり、相如は顔をあげる。同じように顔をあげた文君と視線が合った。彼女が小さく頷いた。

(いくぞ)

 ここからがこの曲の最も盛り上がる所なのだ。二人の右手が同時にあがった。

 一瞬の静寂、そして二人は再び激しく琴をかき鳴らした。

 

 感動に涙しながらも、王吉は嫌な予感におそわれていた。

「せっかく卓王孫と相如を結び付けようとしているのに、が絡んでくると面倒なことになりはしないか」

 

 二人が最後の一音を奏じ終える。歓声は堂内に響き、それは長く長く続いた。



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