第3話 比翼の鳥

 寝台に倒れた相如は大きく息をついた。


 勧められるまま、つい酒を過ごしてしまった。酷い頭痛にこめかみを押さえ、薄暗い天井を見上げる。

 そこにひとりの女性の顔が浮かんだ。この卓家の娘、文君である。


 演奏の後、短い間だったが二人は会話を交わした。そこで相如が驚いたのは、彼女が琴の名手というだけでなく、詩文にも深い造詣があった事である。


 「詩経しきょう」から「楚辞そじ」、そしていま流行っている詩まで、二人の話題は尽きなかった。相如が梁国を出てから、詩文についてあれだけ語り合ったのは、彼女が初めてだった。


 そこで相如は苦笑した。短い間の会話と思っていたが、自分でも思わぬ程の長時間話し込んでいたようだ。


「なんて美しく、聡明な女性だったのだろう」

 相如はため息をついた。酔いすぎて、最後の方は話の内容すら憶えていなかったが、冷ややかだった彼女が次第に愛らしい笑顔に変わっていく過程だけは鮮明に心に焼き付いていた。


 この屋敷の主、卓王孫は相如を食客として迎えたがっていた。蜀地方有数の富豪とはいえ、周囲からは成り上がり者としか見られていない。だが司馬相如のように高名な文人を客とすれば人の見方も変わってくる。

 一方、相如にとっても卓王孫の庇護下に入るのにやぶさかではない。だがそれは文君のような女性が傍に居てくれればこそである。


「諦めろ。あの女性は、もうすぐ人妻だ」

 相如は自分に言い聞かせるように呟く。

 彼女は一度嫁いだものの、すぐに離縁され実家へ戻っていた。そして今はまた別の縁談が決まっているのだと、彼女自身が教えてくれた。


 相如にとって生活の安定は必要である。しかし詩文について語りあう相手がいないような人生は、もはや牢獄と変わりがない。

 煩悶しつつ相如は眠りについた。



 うとうと、とした頃、相如の身体が強く揺さぶられた。

「起きてください、相如さま」

 どこかで聞き覚えのある女の声だった。薄目を開けると白い顔が目の前にあった。それは、眠る前に想っていた文君の顔だった。

「なんだ、夢か」

 これは思い詰めすぎていたな。と。また目を瞑る相如。


「何を寝ぼけているのです。私を連れ出して下さるのでしょう?」

 小声で鋭く叱咤された。

「え、ええ?」


「望まぬ縁談を押し付けられようという私に、救いの手を差し伸べて下さったではありませんか。自分のもとに来い、と」

「言いましたか、俺そんな事を?」

 記憶がない相如に、大きく頷く文君だった。


「もう少しで夜が明けます。相如さま、ニワトリの鳴きまねは出来ますか?」

「いいえ」

 都邑の城門は役人が常駐し、夜が明けるまでは通行が出来ない。斉の孟嘗君もうしょうくんも朝を告げる鶏の鳴き真似によって、かろうじて函谷関かんこくかんを脱したという逸話がある。


「では仕方ありません。しばらく待って城門が開いたら、馬車で一気に駆け抜けましょう」 

 またも慌ただしく、相如は馬車の御者台に押し込まれた。

「さあ、司馬相如さまのお宅へ出発です!」


 ☆


「なぜこんな事に」

 馬車の手綱を引きながら相如はつぶやいた。

 そういえば王吉から文君は美人で才媛だが、惚れっぽく、とんでもなく思い込みが激しいらしいから気を付けろ、と言われたような気がする。

 酔っていてあまり覚えていないが。


「こういう事だったのか」

「何かおっしゃいましたか、相如さま」

「いえ、何も」

 相如にとって、嬉しくないと言えば嘘になるのだが、あまりにも急展開すぎた。



 馬車は走り続け、成都に入る。

 相如の実家は成都でも指折りの名家である。かつて相如が朝廷付武官に推薦されたのも、結局は実家の財力によるものだ。

 やがて壮大な屋敷を取り囲む土壁が見えてきた。

「もしや、ここでしょうか」

 文君は身を乗り出した。


 しかし相如は馬車の速度を緩める気配はない。彼女は少し不安げな表情を浮かべる。不安は的中し、相如の駆る馬車は司馬氏の豪邸の門前を通り過ぎた。文君はあわてて声をかけた。

「一体どこへ行くのですか?」

 しかし相如は馬車を止めなかった。


 やっと相如が馬車を止めたのは、屋敷からも遠く離れた小さな建物の前だった。壁や屋根も落ちかけている、物置きというにも粗末な茅舎あばらやだった。

「ここだ」

 相如が文君を振り向いた。

「え……」


 ややあって、なぜか彼女は頬を染めた。

「このような処で愛を確かめ合うのが相如さまのご趣味だったのですね。もちろんそういう男性がいらっしゃる事は本で読んで知っています。でも」

 赤くなった頬を両手で抑え、困惑の混ざった視線を相如に向けた。

「私も、その……決して嫌ではありませんが、初めての時くらいはもっと雰囲気の有る場所がいいような、と。きゃっ、恥ずかしいですっ」


「いや。ここが今の俺の家だ」

 ぶっきらぼうに相如は応える。


 はい? と首をかしげ、文君の初々しい羞恥の表情が凍り付く。

「俺は勝手に官を辞めたせいで、実家から勘当された」

「はあ。なるほど……」

 相槌を打ちながら、心なし文君の頬が引きつった。


 ……………。


「いいでしょう、分かりました」

 長い沈黙の後、文君は言った。すべてを悟った澄明な笑顔を浮かべる。

「相如さまと暮らせるならば、わたしはどこでも構いません」

「あ、ああ」

 思わぬ言葉に相如は心から安堵し、うなづく。


「などと……言うと思いますか?」

 一転、声が低くなり、最初に会った時のような鋭い視線が相如に刺さった。そのなかに明白な殺意を感じ、思わず相如は後ずさった。背中を冷たい汗が伝う。


「こんな所で暮らせる訳がないでしょう、相如さま!」

 これまで聞いた事のない大きな声だった。相如はびくっ、と後退る。

「は、はい」


「徹底的に掃除をします、手伝ってください」 

 文君は勢いよく腕まくりした。


 ☆


 二人は抱き合ったまま布団にくるまっていた。

 相如の分厚い胸に、文君のささやかな膨らみが押し付けられている。二人は何度も口づけを交わした。

 そしていざ結ばれようとした時、文君はためらいを見せる。真っ赤になった顔を伏せ、目を逸らす。

「……実は、わたし」


「初めて?」

 文君の告白に相如は耳を疑った。

「失礼ですが、結婚されていたのでしょう」


「それが、初夜を前に追い出されまして」

 てへ、と笑う文君。


「なぜなんでしょう。もしかして、寝室いっぱいの書籍を持ち込もうとしたからでしょうか。でもわたし、傍に書籍が無いと眠れないのです」

「あ、ああ」

 この頃の書籍とは、ごく一部では絹布なども使われているものの、おおよそ竹簡である。つまり重く、場所をとる。とんでもない嫁入り道具だった。


「結局、部屋の床が抜けてしまって。どちらの家からもすごく怒られました」

 本当に笑えない事態だったようだ。


「だとしたら困るのでは。ここに書籍は一巻も無いですよ?」

 文君の髪を撫でながら相如は問いかける。

「それは大丈夫、じゃないでしょうか」

 相如の耳元で文君は応える。


 ふわり、と女の匂いが立ち昇ると、文君の細い指が相如の堅くなったものをそっと優しく撫であげた。

「だから、このまま朝まで眠らなければいいのです」


 ♡


 差し込む朝の光に相如が目覚めると、薄物を羽織っただけの文君が顔を洗っていた。気付いた文君は振り返る。

「あまり見ないで下さい。ひどい顔になっていますから」


 化粧を落とした彼女は鋭さが消え、少女のようだった。相如は股間に血流が集中するのを感じた。

「失礼します、文さん!」

 相如はまた文君を押し倒した。

「ちょっと、相如さま……あん♡」


 ☆


「この場所では、うちの者たちを撃退できませんね」

 胸や腰に伸びて来る相如の手をはねのけながら、やっと身だしなみを整えた文君は家の中を見渡した。

 おそらく卓家では相如が文君をかどわかしたと思っているだろう。武力に訴え、彼女を取り戻しに来る可能性は大いに有った。


「いま動員できる兵力はいか程ですか、相如さま」

 真顔で訊いてくる文君。

「俺は実家から勘当されているし、王吉も手を貸してくれないだろう」

 せっかく卓王孫に引き合わせてくれた彼を見事に裏切った形になったのだ。逆に追捕の兵を向けられかねない。

 

「いざとなったら、この家の屋根を落とし、防壁として使いましょう。知っていますか相如さま、熱く焼いた石もけっこうな武器になるのですよ」

「どこから得た知識ですか!」

 彼女の部屋いっぱいの蔵書には、どうやら兵家の書も有るらしい。

「戦うのは諦めて、どこかでひっそり暮らしましょうよ、文さん」


「そうですか」

 不承々々、文君は頷いた。

「では私に心当たりがありますから、すぐ出発しましょう。そうだ、お金になりそうな物があれば、馬車に積んでおいてくださいね」


 ふたたび御者台に乗った相如は、文君の言う通り馬車を走らせた。


 ☆


 到着したのは、先日彼らが出奔したはずの臨邛だった。

 相如は愕然とした。何を考えているのだ、この女は。


「ここです」

 文君はその建物を指差す。臨邛の市街にある、すでに閉店した店舗のようである。

「もしかして、酒肆しゅし(居酒屋)かな」

「はい。まず、ここで生活の資金を稼ぎましょう」

 胸を張って文君は言った。


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