詩文の国、遥かな黎明

杉浦ヒナタ

第1話 蜀の俊才

 しょくは大陸の南西に在り、峨峨ががたる山々と深い峡谷に囲まれている。

 常に霧に包まれたたにには少数の異民族が別れ棲み、平野はその多くが湿地だった。


 秦王国による灌漑、開発が始まったのは、およそ二百年ほど前の事である。

 それによって『天府の地』と呼ばれるほど肥沃な土地を持つに至った蜀だが、当初はあくまでも秦の貧しい植民地であり、その実態は流刑地だったのだ。


 秦帝国が滅亡し漢の世となった現在、流刑地という印象こそ無い。しかし経済面はともかく、文化では中原ちゅうげんに大きく後れを取っているのは蔽いようもなかった。


 そんな蜀に生まれながら、文才によって漢帝国の朝野を驚嘆させたのが、司馬しば相如しょうじょという男だった。


 ☆


「我が生まれしひなの門、か」

 相如は成都の城門を見上げた。

 声と表情には旅の終わりの安堵と、微かな憂鬱が籠っていた。数年に亘り漢の都、長安の大学で学んでいた彼の目には、ここはあまりにも文化から取り残された場所に見えたからである。

 相如が振り返ると、背に竹簡を山積みにした数頭の牛が従っている。これが彼の留学の成果だった。


 この頃、蜀では郡をあげて学問奨励の事業を行っていた。相如のような有為な青年を都へ送って経書を学ばせ、あわせて最新の文献を蜀に導入するのである。

 彼はその目的を十分果たしたと言える。


 彼の横に、同世代の青年が立った。

「おれは、この門を長安に負けないくらい立派にしてみせるからな」

 司馬相如と一緒に長安へ留学していた王吉おうきつが言う。彼もまた蜀郡内から選抜された若者である。


「お前が建築を学んでいたとは知らなかったな」

 相如がからかうと、王吉は自分より頭一つ高い相如を見上げた。お互いこの手の冗談には慣れっこである。ふふっと片頬で笑う。

「官僚として出世して、おれは蜀郡の大守になる。そしてここ成都を長安に並ぶ華の都にするのさ」


 蜀の古名は華陽国かようこくである。華山のみなみにあることから付いた名だが、蜀に住む人々はこの旧国名を愛していた。王吉の言葉にはそれが掛かっている。


「これからどうする、相如」

 問われた彼は言葉に詰まった。幼い頃から武術を仕込まれ、鍛え上げられた肉体を持つ相如である。長身、端正な容貌と相俟って、ろう(皇帝の近侍)として推薦される予定だった。

 しかし都で詩文を学ぶ事に強い憧れを持つ相如は猶予をもらい、特別に王吉と共に長安への留学を認められた。そして大学でも抜きんでた成績を納めたのである。

 まさに文武ともに優れる俊才といっていい。


「親には無理を言って学ばさせてもらったからな。これ以上我儘は言えない」

 今度は武官として都へ行く、相如はそう告げた。


「お前の文才が埋もれるのは惜しいが」

 ぽんぽん、と王吉は相如の腕を叩いた。鋼のような筋肉だった。文字通り、武人としても文人としても一流の腕だ、王吉はそう思った。

「本当に、項羽のようだ」


 秦を滅ぼした西楚の覇王、項羽。百戦無敗の武将にして、後世に残る有名な歌を遺した英雄である。

「俺も身を亡ぼすと?」

「まさか」

 王吉は苦笑した。最後の一戦で漢の高祖に敗れた項羽に例えるのは適当ではないだろう。しかし卓越した才能を持ちながら、どこか坊ちゃん然とした甘さを感じさせる項羽と、この男はよく似ている気がする。

 そしてそんな相如を王吉は好もしく思っているのだった。


「俺には、垓下がいかの歌は物足りない」

 相如は呟くように言った。

「あれは素朴すぎる。俺ならもっと……」

 もっと、自分がどれだけ激しい戦いを経て天下を手中に納めたのか。愛馬のすいがどれほど駿馬であったか。さらに愛姫、虞美人ぐびじんの髪、眉、瞳、唇、首筋、胸元、腰、手足の様子、肌の薫りに至るまで詳細に語り尽くし、それを何故失うことになったか、悲哀と共に詩に残すだろう。


「ちょっと待て、相如」

 延々と語り続ける相如を王吉がさえぎる。

「以前そんな歌を作っていたな。ほら、お前がこともあろうに、学長の娘に手を出して大騒ぎになった時に」

 相如は不審げに眉を寄せた。


「それは違うぞ、王吉。俺は言い寄って来たあの娘を厳しく叱って、部屋から追い出しただけだ。誤解を招くような言い方をするな。王吉も読んだだろう、俺がいかに志操堅固であるか綴った文を」


「学長に提出した『美人の賦』の事か。確かに古来まれなほど華麗な名文だったな。襟元を寛げた首元の白さが美しいとか、おっぱいが豊かだったとか、しっとりとした肌触りがどうだったとか、一体どれだけじっくり見ているんだよという話だ」

 王吉は両手を拡げ肩をすくめた。


「そこだけ読むな。その後段に『だが私は志を高く持っていたから、女には指も触れなかった』と書いてあっただろう」


「いや、肌触りに言及している時点でおかしいだろう。お前があの娘を追い出したのは、からじゃないのか」

 言われて相如は天を仰ぐ。そしてやっと気付いたように頷いた。


「なるほど。俺とした事が、推敲すいこうが足りなかったようだ」

「お前に必要なのは推敲ではなく節操だ」

 王吉は苦笑した。この男は絶対、女で身を亡ぼすに違いない。



 郡守に挨拶をし、竹簡を納めた二人は役所を出た。

「荷物を片付けたらおれの家に来いよ、相如。朝まで飲もうぜ」

「ああ」

 相如は手をあげて応えると、久しぶりのわが家へと向かった。


 ☆


 それから間もなく、司馬相如は長安で漢の景帝に仕える事になった。役職名は武騎ぶき常侍じょうじである。常に皇帝に付き従うことから、武術に加え容姿端麗であることも条件とされており、相如は適任といえた。


 ただ文才を生かす場面は望むべくもなかった。



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