屋上のアラタ
深見萩緒
屋上のアラタ
今日これから、新しい世界が始まるんだ。それは何も、悲しいことじゃない。
学校の屋上に出たことのある生徒が、今日び何人いるだろう。
屋上へ上がることは大抵禁止されており、屋上へ続くドアには鍵がかけられている。屋上で空を見上げながら物思いにふけるとか、屋上でお弁当を食べるだとか、そんな経験をしたことのある人なんて、まれだ。
それなのにどうして私たちは、屋上で過ごすひと時を思うたび、こうも懐かしさを感じてしまうのだろう。青春を描いたアニメや漫画で、そういうシーンが頻繁に登場するからだろうか。だったら、どうしてアニメや漫画に、屋上で過ごすシーンが登場するんだろう。私たちは誰ひとりとして、屋上で過ごしたことなんてないはずなのに。
アラタに出会ったのは、そんなことを考えていた時だった。
屋上に向かう薄暗い階段を見つめていた私の前に、その男子生徒は、いつの間にか立っていた。階段を上って、屋上に続くドアに手を伸ばす。施錠されているはずのドアは、しかし、わずかに軋みながらすんなりと開いた。私は何も考えずに、衝動のままに男子生徒の背中を追いかけて、屋上へと滑り込んでいた。
その時の、アラタの表情と言ったら!
始めは、まるで幽霊かお化けでも見たかのような顔だった。信じられない。そんな呟きをそのまま表情に固めたような。
それから、眉の間に怒りが滲んで、アラタの両手が私の肩を掴んだ。さっき閉まったばかりのドアをもう一度開けて、私を屋上から叩き出すんじゃないか。そんな予感すらする、鬼気迫った表情だった。
だけどアラタは、私の両肩を掴んだまま、そのまま固まってしまった。その時の表情は……どうだっただろう。困ったような、悲しそうな顔だったような気がする。
それから、どんなやりとりをしたんだったか。もう忘れてしまった。名前を尋ねたのは私からだった。アラタ、と彼が名乗ったとき、背中を電流が駆け抜けたような気がした。
アラタ。ずっと前から、彼のことを知っているような気がした。そのことをアラタに言うと、アラタは「そうかもね」と言って、そしてその時、初めて笑ってくれた。
その時の光景を、私は一生忘れないだろう。屋上のアラタの背中ごしに広がっていた、暮れつつある空のグラデーションと、やけに明るい星の光。そして何より、それらをバックにして微笑むアラタが、信じられないくらい綺麗だったから。
二度目に会ったのは、それもやっぱり、私が階段を見つめているときだった。アラタは瞬きの間に、どこからともなく姿を現す。施錠されているはずの屋上のドアは、彼の前では素直に道を開く。彼が普通の人間じゃないことくらい、とっくに気が付いていた。
「アラタって、幽霊なの?」
尋ねると、アラタは空から視線を外さないままに「そんなかんじ」と言った。
「そんなかんじって、幽霊なの、そうじゃないの」
「この世界には存在しないはずのものって意味では、幽霊に近い」
「え、異世界人?」
「ちょっと違う」
「宇宙人」
「地球人だよ」
「未来人」
「かなり近い」
喋っている間、アラタは空を見たまま、一度も私の方を見ようとしなかった。空を見なくちゃいけないというよりも、どちらかというと私を見ないようにしているみたいに、視線は一番星の光の上に、頑なに固定されていた。
「なんでもいいけど」
彼につられて、私も空を見る。屋上から見る空は、いつもよりほんの少しだけ広くて、ほんの少しだけ近い。
「私は、アラタは幽霊なんだと思うな」
どうして、とアラタは言わなかった。私がなぜアラタを幽霊だと思っているのか、その理由さえ分かっているかのように、私に横顔を見せたままだった。
その子のことを、私は「しんちゃん」と呼んでいた。幼稚園が一緒で、小学校も一緒だった男の子。幼稚園のころ、私はとにかく家の外のものが何もかも怖くって、家族じゃない人間が全員嫌いで、幼稚園の先生も、友達も、もちろん幼稚園も、全部大嫌いだった。でも、しんちゃんだけは、好きだった。
大人しくて、無口で、どんくさかったしんちゃん。いつも絵本ばかり読んでいて、お喋りも上手に出来なくて、かけっこではいつもびりっけつだったしんちゃん。
小学生になってすぐのころ、しんちゃんは川に落ちて死んでしまった。しんちゃん、どんくさいな。と思ったことを覚えている。それから猛烈に悲しくなって、私はしんちゃんのことを思い出すのをやめた。
たぶん、初恋だったんだと思う。
「アラタは、しんちゃんに似てる」
私の初恋の話をすると、アラタはやっぱり空を見つめたまま「そう」とだけ言った。興味がないふりをしているんだと、私には分かった。
「その態度とか」
指摘すると、アラタは初めて空から目を逸らして、でも私の方は見てくれず、遠く街のシルエットに視線を投げた。日が沈もうとしている。ビルの影が黒く、空の端っこを切り取っている。星が輝いている。
「アラタって、いつも屋上で、何してるの?」
この質問は、細部のかたちを変えつつも、私が何度も口にしたものだ。何をしているのか。何をしに屋上へ来たのか。屋上で何をしているのか。アラタが答えたことはない。
私の予想。アラタは、物思いにふけっている。それも、あんまり良い物思いではない。悲しさとか、苦しさとか、寂しさとか、そういう気持ちを整理するための、あるいはそういう気持ちに浸るための物思いだ。
第二の予想。宇宙人と交信をしている。スムーズな交信のためには、電波を遮らないためにも拓けた場所が必要で、そのために屋上に来ているに違いない。
「どう、合ってる?」
アラタに訊いてみる。
「だいたい合ってる」
「うそ。宇宙人と交信してるの?」
「正確には、宇宙人じゃなくて」
「未来人?」
「そんなかんじ」
アラタは、彼にしては珍しく大袈裟な身振りで、両手を空高くかかげた。そうしたら、その動きに呼応するようにして、一番星がきらきら瞬く。アラタは真剣な表情で、とてもじゃないけどふざけているようには思えない。
耳を澄ますと、ピーピーピーと高い電子音が、宇宙の果てから聞こえる気がする。どんなことを交信しているんだろう。本日は晴天なり。地球は今日も、平和です。とか?
「ぼくは」
長い沈黙の後で、アラタが言った。私は彼の発する一字一句を聞き逃すまいと、小さな小さな声で「うん」と相槌を打つ。
「ぼくはビーコンだ」
「びーこん?」
「発信機のこと。ぼくが立っている、この世界の位置情報を発信している」
「どこへ?」
「正しい世界へ」
「ここは正しくない世界なの?」
答えは分かっていながらも、私はあえてアラタに尋ねた。明るすぎる一番星を背に、アラタはうなずいた。
地球は、あと千年とちょっとで終わる。つい最近、国際的に有名な宇宙学者がそう発表したことくらい、普段ニュースを見ない私だって知っている。
西の空に輝く星は、ナントカっていう名前の星で、徐々に地球に近付いてきているらしい。このままだと衝突して、地球は粉々になる。それが彼の言い分で、会見は「今後千年の間に、この惨事を回避しうる科学技術を、人類が手にすることを期待します」という言葉で締めくくられた。
とはいっても、だから世の中がどう変わったということもない。映画みたいなパニックなんて起こらなかった。だって、千年後なんて想像できないから。
オゾン層の破壊とか、地球温暖化とか、たくさんある環境問題のひとつくらいにしか思えなかった。差し迫って災害が起こるわけでもないし、夕暮れの一番星がどんどん明るくなるくらい、何の問題にもならない。
でも、だからこそ、アラタの言葉には説得力があった。
きっと私たちの世界は、千年後なんて分からないよという苦笑いで脅威に蓋をして、そのままずるずる、引き返せないところまで問題を先延ばしにしてしまうんだろう。明確な問題が、西の空にこんなに明るく光っているのに、よく分からないとか、いまいち想像できないとか、今すぐに手をつけなくても大丈夫だろうとか、そんな気持ちで見ないふりを続けて、そして取り返しがつかなくなるんだ。きっと。
「アラタは、じゃあ、正しい世界から来た人なの?」
「そう」
「さっき、この世界を破壊するって言ったよね? どうして破壊しなきゃいけないの?」
「セーブデータのスロットは、ひとつしかないからね」
分かっていない顔の私に、アラタは苦笑する。滅多に見ることの出来ない、アラタの貴重な笑顔だ。両手を空にかかげたまま、両の目を飛行機雲みたいに細く閉じる。
「ある少年の死から、世界は分岐したんだ」
彼は器用に、片方の目だけを閉じて、もう片方を大きく見開く。見開いた右の目に、夕日と私が映っている。
「生きていれば少年は、千年後に地球が滅ぶというニュースに大いに衝撃を受けて、惨劇を回避するために科学者になるはずだった。少年の小さな主張は、やがて世論を動かして、千年先の問題へと目を向けさせた。そしてその活動と、科学者としての功績が種となり、千年のうちに大樹へと成長して、地球は滅びの運命を克服するはずだったんだ」
「でも、その子が死んじゃったから、そうはならなかったってこと?」
「そう。だから、少年が死んでしまった世界を破壊して、少年が死ななかった世界で上書きしなきゃならない。そっちの方が、正しい世界なんだ」
「その少年って……」
それは疑問だったのか、それともただの独り言だったのか、私にも分からない。
アラタの右の目に映った夕日が、少しずつ色彩をなくし、闇へと溶けていく。一番星だけがぎらぎらと光ったままで、私たちを見下ろしている。
私はアラタの真似をして、片方の目だけを閉じて、もう片方だけを見開いてみた。右の目に映る、千年後の滅びの光。固く瞑った左の目には、何も映らない。
「この世界が破壊されたら、私も死ぬの?」
アラタは、静かに首を横に振った。
「死ぬんじゃない。この世界は初めから、なかったことになるだけだ」
「なかったことになる」
脳裏に浮かんだのは、白と黒の縞模様だった。どこまでも続くかに思えた、縞模様の大きな布。女の人が泣いていて、男の人もやっぱり泣いていた。私は「しんちゃん、どんくさいな」と思いながら、たぶん途方に暮れていた。
なかったことになる。なにもかも。
「それって、いつ?」
私が尋ねると、アラタは申し訳なさそうに眉をひそめて、西の空を見た。
「たぶん、もうすぐ」
「もうすぐかあ」
感傷に浸る暇も、あんまりないということだ。でも、その方が良いのかもしれない。
しんちゃんが死んでしまったとき、私の世界は終わったと思った。
幼い子供の初恋なんて、ごっこ遊びみたいなものだって言う人もいるけど、私にとってしんちゃんへの恋は、まさに世界の全てだった。
だからしんちゃんが死んだあと、私はこれから二度と、楽しいだとか幸せだとかを感じずに生きて行かなきゃならないんだって、幼いながらにそんなことを考えていた。
でも、薄情なことに――それが当たり前なのかもしれないけれど、悲しい気持ちは月日と共に薄れていって、私はそれなりに人生を楽しんで、それなりに幸せを感じながら生きてきた。
しんちゃんが死んでしまった世界でも、私は普通に、生きていけてしまった。
だから、感傷に浸る暇なんて、ない方がいい。
あんまり時間がありすぎると、この世界に未練が生まれてしまうから。
しんちゃんが死んでしまったこの世界を、望んでしまいそうだから。
西の空が、とうとう暗くなる。アラタが、そっと私のそばに来て、肩を抱いてくれる。力強くて、温かくて、生きている。
「質問ばっかでごめんなんだけどさ」
「なに?」
アラタの声が、肩に回された腕を通じて、体の芯を揺らす。それがあまりに心地良くて、私はそっと目を閉じた。
「その……千年後を変えた男の子はさ、どうしてそんなに頑張れたのかな? 普通、千年も先のことなんて、よく分からないし、そんな一生懸命になれなくない?」
アラタはじっと黙って、考えているようだった。そして、ふっと笑う。私は目を閉じているから、気配でそう思っただけなんだけど、でも確かにアラタは笑った。
「立派な理由なんかないよ」
「なに?」
「カッコつけたかっただけ」
その意外な答えに、思わず目を開けてアラタを見る。アラタは目を細めて、まっすぐに私のことを見ている。
「好きな人に、良いカッコしたかっただけだよ」
「そっか」と頷いた言葉は、掠れて言葉にならなかった。
今日これから、新しい世界が始まるんだ。それは何も、悲しいことじゃない。
アラタの胸に縋って、耳を当ててみる。生きている音がする。
だったら、私はそれで良い。
<おわり>
屋上のアラタ 深見萩緒 @miscanthus_nogi
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