後編

 十数年後、出村は五十過ぎて仕事も落ち着いた。

 早期退職、というのもジリジリ迫っているがまだ現役で働きたい気持ちはあるようだ。


 しかし仕事が忙しいことにかまけて家庭をおざなりにしていたら妻が子供が大学進学で上京したのをきっかけに離婚届を置いて出て行ってしまったのだ。


 独り身、趣味が何もない。


 友達も各々の趣味に勤しんでおり、じゃあ自分は? と考えていた。


 ふと、ドラマでピアノを弾いている同世代の俳優を見て決めた。動機は特にないが。


 しかし教室を探したがなかなかいい教室が見つからない。と言うよりも彼が中年だから、おっさんだからと躊躇しているところもあった。


 ふと広報誌で見つかった『中高年の皆さんもいかがですか?』そんなキャッチコピーに心揺るがされた。

 そこは小さな一軒家のピアノ教室。


 ドキドキしながらドアを開けると1人の女性が立っていた。


「高住……さん?」

「出村部長! あ、今は鈴木です」

 まさか自分の部下がやっているのか? 驚いた出村は後退りするがここで戻るのはみっともない。


「そうか。て、ピアノをやっていたのか」

「はい、ピアノが子供の頃から特技で。仕事を辞めてから本格的にピアノの勉強を再開して音楽教室をしてたんですよ」

「そうだったのか、それは知らなかった」


 特技があったのか、それを自分は知ろうともしなかったと思いながら綺麗なピアノのある部屋に通されて出村は緊張でカチカチになる。ピアノの前に座るのも初めてだ。


「はい、では初めていきましょう。未経験者ということで……このレベルからやりましょうか」

「は、はい」


 こうして週に二回のピアノレッスンが始まった。


 出村はとても苦戦した。年齢もあってか何度もミスをするが、高住はにこやかに指導をしていく。

 あの時は上司と部下、今では立場が変わって生徒と先生。


 指がもつれる。もうだめだ、と出村は項垂れる。だが高住は怒ることもなく優しく微笑む。

 出村はその優しさに、あの当時高住に対して何度も何度も怒ったことを恥じた。


「何でこうもダメなのに高住先生は怒らないのですか」

 んっ? と顔をした高住だが

「ふふふ、そうね」

 と笑う。あの当時は新人の二十代中盤だった彼女だがもう40手前だそうだ。


「よく出村さんには怒られていました。それはそれはうなされるほど、寝る時まで」

「それはすまんかった」

「だが、私は生徒さんにもそんな思いをさせたくないから怒らないんです」

 との言葉にさらに出村は首を項垂れる。


「本当に申し訳ない、反面教師ってやつだな」

 高住は首を横に振る。

「いえいえ。でも何度も怒られているうちに私はこの仕事向いてないんだなぁって一年目でわかったから思い切って子供の頃からの夢、ピアノの先生を目指したんですよ」

「そうだったのか」

「気づかさせてくれてありがとうございました」

「いやいや……まぁ確かに一回だけつけた考査は低かったけどな」


 ふふふ、と高住が笑う。

「ねぇ、出村さんは気づいてないようだけど。私は結婚して鈴木になったのですが主人は一年前に亡くなりました」

 出村はハッとした。全く彼女の夫がいる気配がしなかったのだ。


「事故でした。あっけなかったわ。娘は2人。ここはピアノ教室のみの家、借家ですけど防音もされてるんです」

 そうか、と出村は確かに小さい家だ、とは思っていた。


「私はすぐそこの一軒家に住んでおります、そちらは防音されてないし、家庭と仕事を一緒にしたくないんです」

「そうなのか」

「出村部長の『仕事に家庭の事情を持ち込まない』ってのを覚えてて……住まいの方には娘と両親がいるのよ」


 年を重ねてさらに美しくなった彼女を見つめる出村。

 自分のしてきたことが彼女に影響しているなんてつゆ知らず。


「出村さん。くよくよしないで。スタートですよ、こっからが」


 彼は今度、ケーキでも買ってこよう。これから時間も余裕が出る、と。


 今からでも遅くない……と思いながら鍵盤に指を置いた。


 でもなんで彼女はなんで未亡人であることをわざわざ告げたのか。出村が知るのはまた後の話である。


 終

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【カクヨムコン9短編】再・スタート 麻木香豆 @hacchi3dayo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ