World End Girlfriend
石田徹弥
World End Girlfriend
私は二千六百八十七回目の自殺を終えた。
方法はお気に入りの飛び降りだ。廃墟となった十階建てのビルの屋上で風が肌に触れる。
すでに錆びて形を成していないフェンスを乗り越え、縁に立つと世界が見渡せた。
かつて東京と呼ばれていた都市は、生え育った植物によって緑の大地と変貌している。
軽やかに私は踊った。
縁の上をすべるように。タッタッタッ。
跳ねるように。
ふわり。
空中に飛び出す。
空が青い。今日も、空は青かった。
地面に衝突した私の体からは、肉と血と骨が飛び散り、壁に投げつけたトマトのようになった。しかしそれも数秒のことで、あっという間にそれらは元の位置に戻っていく。忘れ物を取りに帰る子供のように。
人類が〝死〟に見放されて数百年が経った。
多くの人間は、様々な方法で〝死〟を取り戻そうとしたが結局それは不可能で、そのうち人間たちは考えるのをやめて石になった。
そして、ほとんどの人間が活動をやめたことで、地球は人間を忘れた。だから百年もすれば人類の文明なんて植物に覆われて消えた。〝あぁそういえば昔そんなやつらがいたよな〟というように。数千年の文明なんて、かさぶたの下の傷のようなものだった。
私は奇跡的に石にならなかった。死にたいという願望が弱く、かといって生きたいという願望も特にない私は、ただぶらぶらと世界を巡った。
三周ほど世界を巡っただろうか。適当に歩いていた私は、不思議と昔住んでいた家に戻ってきていた。燕かなんかの帰巣本能?というものかもしれない。そう考えて、まだ生き物らしい自分自身が愛おしかった。
朽ちかけている家に入ると、父も母も妹も、病気療養中の祖母もみんな石になっていた。
昔は全員で集まって夕食を食べていた机はとうの昔に土に戻っていた。けどまだそこで食卓を囲んでいるように家族は円になって向かい合い、そして体育座りのような恰好のまま、足に顔を突っ伏して石になっている。石というのはあくまでも比喩なのだが、数十年、数百年動かないまま、体を植物が覆う姿は、石と大差なかった。そもそも本物の石というのも、同じような理屈なのではないだろうか。実は生物なのだが、生きることも死ぬこともできず、活動する意味を見出せなくなって制止したのだ。数億年間という時間。だからもしかしたら、それに飽きて突然動き出すかもしれない。〝あぁそろそろ運動でもするかなぁ〟とか〝あの子に会いに行ってみようか〟なんて思い立って。私の家族もそうなのかも。けど、だとしたらあと数十億年は待つ必要がありそうだ。なぜなら本物の石もまだ頑なに動こうとしていないのだから。
私はあの頃を思い出した。まだ〝死〟が存在し、それまでのわずかな時間をどうやって消費していこうかと誰しもが悩んでいた時代を。香りが蘇る。炊飯器から、炊き立ての白米の匂いがする。食卓には魚の煮物とから揚げ。少し変な取り合わせだけど、それは私と妹の好物を叶えてくれたからだった。父が新聞を読んでいる。母がみそ汁を取り分けた。祖母は今日は体調がいいらしく隣の友人からもらった花をいけていた。妹と私は父にバレないように、父の日のプレゼントを選んでいる。ネクタイを二本。お互いが好きな色に分けて。
涙の流し方を思い出した。温かい。そして少ししょっぱい。海のようだ。そうだ、海に行こう。私は家族であった石に小さな声で「バイバイ」と告げた。
実家を後にして、海の方へ向かっている時、私はボロボロの服を着た女の子に声を掛けられた。
「美空?」
よく見ると彼女の服装は私と同じ、高校の制服だった。
「瀬理奈?」
「覚えてた! 久しぶり~」
私はかつての同級生と抱きあった。
「何年ぶり? いや、何百年ぶりか」
「覚えてないよ~そんなの! 元気にしてた?」
「してたしてた。だって死なないんだもん!」
「そりゃそうだ!」
私たちはきゃっきゃと笑いあった。そして手をつないで一緒に海へ向かった。瀬理奈は高校の同級生で、当時は酷い虐めを受けてよく学校を休んでいた。私は彼女のいじめに加担はしていなかったが、救おうという覚悟もなかった。だからせめてもの罪滅ぼしと思って、下校中に何度か一緒にカフェでお茶したり、一緒に好きな漫画の新刊を買いに行ったりしていた。
「そういえば、『時は夢なり』ってまだ連載してるらしいよ」
「それって、あの漫画?」
「そう。百年くらい前に作者の人が突然書き始めたんだって。印刷とかはできないから、手書きで一部しか存在しないけど」
瀬理奈は鞄から紙の束を取り出した。それは確かにあの時、二人が大好きだった漫画の続きだった。あの頃よりも絵がシンプルになっているようだが、それ以上に美しさが増していた。その漫画が描かれた紙はボロボロだけど、それは風化のせいじゃない。何度も何度も読み直したことで生まれたもののようだった。
「すごい、なんで持ってるの?」
私が不思議そうに聞くと、瀬理奈はいたずらっぽく笑って答えなかった。だから私は彼女を追いかけまわして笑い合って、また追いかけまわした。そして海についたころにはそんなことはもうどうでもよくなっていた。
「綺麗」
海は血を流し込んだように真っ赤だった。いつからかわからないが、これが今の海のスタンダードな色だ。青の時もよかったが、赤もいい。
「アニメみたい」
「今のうちらがアニメみたいだけどね」
それもそうだ。死なないんだもの。
「瀬理奈は死のうとしないの?」
「したよ。何回も何回も。けど……」
瀬理奈の話。ある時、私のように日課にしていた自殺を終えたあと、日本ではない火山がある国である人に出会った。それは溶岩が溜まった大穴を眺めている若い男性だった。
「飛び込むんですか?」
瀬理奈は聞いた。すると男性は振り返らずに呟くように答えた。
「彼女は飛び込んだんだ」
瀬理奈が男性の視線の先を見ると、溶岩の中には多くの人間が溺れるように暴れ、そして苦しそうに燃えて溶け、するとまた肉は集まって人にり、それはまた苦しみながら燃えた。それを延々と繰り返していた。
瀬理奈は怖くなって逃げ出した。逃げて逃げて気が付いたら日本に戻り、そして東京だったこの場所に戻ってきたという。
「だから今はもうやめた。どちみち死ねないけどね」
「そっか」としか言えなかった。
少ししんみりというか、忘れていた恐怖のような感情が出てきてしまった私たちは、真っ赤な海に飛び込んで水をかけあった。楽しかった。久しぶりに感じた、心からの楽しさだった。こんな感情を瀬理奈と一緒にいて感じるなんて、昔は考えもしなかった。
そして夜が来た。
空を見上げると、月は半分に割れている。いつ割れたのか、もしくは最初からああだったのかはもう思い出せない。
「綺麗」
瀬理奈が海に浮かんだまま月を見て言った。
「そればっか」
私は笑った。すると、起き上がった瀬理奈がゆっくりと私に抱き着いた。
彼女の細い体から、体温が伝わってくる。
とくん、とくんと鼓動が私の体を揺らす。
あの時。
あの、傾いた太陽が瀬理奈の部屋にオレンジ色の輝きを差し込んでいたあの時。
あの時も、瀬理奈は私をこうやって抱きしめた。
そして、私は何も言えずに彼女を突き放して、そして逃げた。
あの時感じた、瀬理奈の香り。どこか甘くて、ほんの少し官能的な香り。それが今となっても、私の鼻孔をくすぐった。
変わらない。
世界は〝死〟を忘れ、私達も〝生〟から逃れられなくなっても。
私の顔に瀬理奈の顔が接近した。地球と月のように、宇宙で考えればとても近距離に。瀬理奈の鼻先が、私の鼻先に触れた。
「瀬理奈も綺麗」
私は彼女の瞳を見つめていった。
その瞳は、ガラス玉のように美しい。何度切っても、割っても、潰しても、そのガラス玉はまた元通りに戻る。美しさは消えない。美しいものは絶対に消えないのだ。
彼女の瞳に赤い光の柱が映った。少し遅れて、轟音と突風が吹き荒れた。起き上がった私たちは、風の来た方向を見た。
遠くで、大爆発が起きている。遠く、遠く。あれは隣の国くらいの遠さだろうか。
「またやってる」
死をいまだに諦めない者たちが集まり、爆弾を製造して一気に爆死する。それで死ねなければ爆発力を上げてまた繰り返す。
倍増を通り越す威力は、あと数回でこの星を破壊するかもしれない。そうなれば私たちは宇宙空間に放り出され、死ねないまま真空の苦しみを永遠に繰り返す。
「宇宙だと」瀬理奈が言った。
「すぐに凍っちゃうんだよ。アイスクリームみたいに」
彼女も同じようなことを考えていたようだ。先ほどまでの笑顔は消え、不安そうに自分自身を抱いた。急激に、私は私、彼女は彼女となってしまった。繋がりなんてない、個という孤独が現れる。〝死〟を忘れたからこそ私たちは孤独になった。〝生〟とは一人だけのものだからだ。〝生〟が煮詰まれば孤独が深まる。
私達もまた、未来を想像し、そこに続く〝生〟を実感してしまった。
私は瀬理奈を再び抱きしめた。力強く、いっそこのまま取り込んでしまうように。いっそ、私達という個になるために。
「ずっと一緒にいよ」
鼓動が聞こえる。いつまでも鳴りやまない、〝生〟の証拠。〝生〟にしか生み出せないリズム。
海に穏やかさが戻った。割れた月が海面に反射して、私達のいる場所を浮かび上がらせた。
「ずっと一緒」
瀬理奈は私を抱き返した。私の鼓動が瀬理奈を包む。私たちの鼓動はいつしか同じリズムになり、溶けあった。
そうしてそのまま何年も、何十年も、そして何百年も過ぎていった。
私たちはそのまま石になった。
鼓動はいつまでも続いた。
World End Girlfriend 石田徹弥 @tetsuyaishida
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