アイ・ニー

葛野鹿乃子

アイ・ニー

「アイ・ニー、楽しい?」

 その人はたくさんの提灯が火を灯す夜祭りで、私と視線を合わせるように屈んだ。私がそれにこくりと頷き返すと、その人はほっとしたように笑った。

 夜祭りの熱気のせいか、雪が降っても石畳の地面を濡らすだけ。不思議と寒さは感じない。たくさんの人が歩いていて、白い息を吐きながら笑い合っていた。

 彼に祭りに連れてきてもらって、屋台で温かいスープを一緒に食べて、歩いて。

 穏やかな時間を過ごした。

 頭上には明るい光を連ねた提灯が吊るされていて、夢の中にいるようだった。隣でずっと手を引いてくれた彼が屈んで私に訊いた。

「アイ・ニーはどんな大人になりたい?」

 大人、と聞いて真っ先に目に入るのは屈んだ彼だ。癖のあるはねた黒髪、厚手の黒い上着、太い眉に柔らかい眼差し。子供にも優しい彼の姿。

 ――大人っていうのは、貴方のような?

 私の視線はそう問うような目つきをしていたと思う。

「大きくなると、小さかった頃は見えなかったものが見えるようになる。そうやって知識と経験を積んで、成長するんだ」

 ――やっぱり貴方のように器用に何でもできる人?

 できることが増えたら、彼が仕事の合間に私の世話をしてくれている負担を減らせるだろう。

「もし、アイ・ニーが将来なりたいものができたなら、僕はそれを応援する」

 ひとりぼっちだった私を助けてくれただけで充分なのに、この人は親のような役目も果たそうとしている。

「私、ちゃんと立派で、さみしくない大人になれれば、それでいい」

 大きくなって、忙しい母を助けられるような大人になれたらそれでいいのだと思う。彼は物足りなさそうな顔で苦笑した。もっと我儘ややりたいことを私に言ってほしい。そう思っているのだろう。

「じゃあ、将来の夢ができたら僕に教えて」

 彼は立ち上がり、私の小さな手を引いて再び歩き始める。私の小さな手を包む彼の手。この光の中に彼がいて、私がいて、祭りを一緒に楽しむ。私にはそれだ

けあれば充分なのだけれど、きっと彼はそんなこと思ってもみないだろう。

 私はきっと、この日のことを忘れない。




 夕陽の、眩さとも柔らかさともつかない光を見ると、昔こんな明かりの提灯がたくさん灯された冬の夜を過ごしたことを思い出す。

 道路を横切る車の走行音で我に帰る。信号が青のうちに道路を渡った。学校から家まではそう遠くない。

 中学生になっても、母が仕事で忙しいのは変わらない。家では相変わらずひとりで、私は本を読んだりして時間を過ごす。家事もできるようになり、母の助けになれることも増えたけれど。

 母が帰るまでの家の静けさがさみしいのは変わらない。大きくなれば、さみしくないと思っていたのに。

 昔、冬の夜のお祭りに男の人と一緒に出かけたことがある気がする。その人の顔も名前も憶えていないし、どこのお祭りなのかも記憶にない。

「冬の夜祭りに男の人と? そんなことなかったと思うけど」

 母が怪訝な顔をして私に言ったとき、私の記憶にあるあの夜祭りの思い出をハンマーで殴りつけられたような衝撃を受けた。

「黒髪の男の人で、提灯がいっぱい吊るされた冬の夜のことよ。確かに行ったの」

 私がなおも食い下がると、「その人の名前は? どこの人? 何歳のとき?」と、母は矢継ぎ早に訊いてきた。私はひとつも答えられなかった。

「記憶違いよ。変なこと言わないで。仕事行くから」

 母はそう言って、その話題を打ち切った。

 確かにその人のことも、祭りのことも、私は細かいことを何ひとつ憶えていない。でも、その人とあたたかい手を繋いで歩いたことや、向けられた眼差しの優しさは、はっきり私の頭の中に残っている。

 それならどうして母は何も憶えていないのだろう。

 母の知らないところで大人の男の人と祭りに行ったことがあるのだろうか。あれはどこで、いつで、あの人は誰だったのだろう。

 クラスの女子がファッションやら話題のアーティストやら彼氏の話題で盛り上がるとき、私はその人の朧げな輪郭を心の中でなぞる。初恋なんて甘いものじゃないけれど、その人が誰だったのか、私の記憶は正しいのか、それを知りたいと思うようになっていた。

 記憶の奥にある、夜の提灯の光に照らされたあの人。

 夕陽を見たせいだろうか、今日はとても、あの人が懐かしい。


 家に帰ってマンションの重たい扉を閉めると、まだ母の帰らない薄暗い家の中に私の影が溶け込む。慌ただしい朝のまま時間を止めたような家。私は荷物を部屋に置いて、流しに出されたままの皿をさっと洗い、鍋に米と水を入れてご飯を炊く準備をしておく。夜は冷蔵庫にある食材で適当なおかずを作るだけ。母が帰る時間まではひとり。

 開いたままのカーテンを閉めようと窓際に立ったとき、レースカーテンの向こうのぼんやりした夕陽を見て、またあの人の輪郭が頭の中に思い浮かぶ。

 ――祭りに行ったあの人は一体誰なのかしら。

 何か手がかりになるものはないかと思い立って自分の部屋へ戻った。デスクとベッドと押し入れ。私は少し本を読む程度で、趣味といえるほどの趣味はないから部屋はわりと殺風景だ。

 昔のものは大体押し入れの段ボールに突っ込んでいるはずだ。

 押し入れの奥にあった段ボール箱を引っ張り出し、私はその蓋を開いた。




 目の前に飛び込んできたものを見たとき、今まで朧げだった彼の細部がくっきりと思い出された。髪のはね方も眉の形も、眼差しの優しさも、手の大きさも全部。胸がきゅっと懐かしさに締めつけられ、私は目を閉じる。

「アイ・ニー、大きくなったね」

 私は目の前に現れた人の名前を呼ぼうとして、けれど名前を思い出せなかった。そうして思い至った。

 彼には最初から名前などないのだった。

 少しは成長した私でも、彼の背はまだ私よりうんと高い。彼は私の目の前までやってきて、目線を合わせるように少し屈んだ。

「アイ・ニー、僕が傍にいなくても大丈夫なほど、成長したんだね。嬉しいよ」

「だめよ。私はまだ、寂しがりの私のままだわ」

「大丈夫。いつかきっと、君はお母さんを助けられる大人になれるよ」

 彼は優しい手つきで私の頭を撫でると、優しく抱きしめた。

「さよなら、アイ・ニー。君はもう、僕が何かを知った。だからお別れだよ」

 彼の温もりは確かにここにあるはずなのに、お別れなんて信じられない。涙が滲んだ視線の先に、あの日の夜祭りの明かりが見えた気がした。


 気がつくと、私は古い本を抱きしめて横になっていた。夢を見ていたらしい。

 起き上がって本を開く。子供の頃、母が仕事でいない間よく読んでいた子供向けの小説だ。たくさん読んで角がぼろぼろだ。見返しの色紙に、拙い絵ではねた黒髪の男の人が描かれていた。その隣には、その人と手を繋ぐ幼い私の絵。後ろには提灯らしきものも描かれていた。

 母が忙しくて家でひとり待っていた私はよく本を読んでいた。この小説に出てくる端役の騎士が挿絵の端に描かれていて、私はその絵をよく見ていた。名前もないその人と二人、作中に出てくる夜祭りに行った空想の中で、私はずっと遊んでいたのだ。

 本の中の端役を元に、私の空想が作り上げた遊び相手。それがあの人。大きくなって知ってしまえば、空想を持てない私はもうあの人には二度と会えない。

 でも、私の胸の奥には、あの冬の夜の寒さや、提灯の明るさや、あの人の手の感触が、さっき抱きしめられたあたたかさが、本当にあったことのように焼きついている。

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アイ・ニー 葛野鹿乃子 @tonakaiforest

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