プロローグ2. -side 里山- これは”後輩”の私と”先輩”だけの秘密ですから
里山詩織――私は昔から不器用で思い込みが激しく、そのくせ賢ぶっている自分のことが好きじゃなかった。
小学校の頃から人前で喋るのが苦手で、他人と会話をするとついどもってしまう。
中学も高校も、大学ですらたいした友達がいなくて、図書館だけが自分の住処であるかのようなつまらない女、それが私の誰にも言えない本質だった。
人と関わるのが、好きじゃない。
できれば私は、他人と話さずに生きていきたい。
……それが私の、ささやかな願望。
そんな私がどうして医療の世界に飛び込んだかといえば、親の勧めがあったのと、食いっぱぐれないため。
私みたいな舌足らずには、間違っても営業なんて向いてない。
かといって、事務職で上司に取り入るコミュ力もないのはわかりきっていた。
だったら学力が必要で、就職先が安定している病院勤務がいいなと思ったのが始まりだ。
幸いうちの両親には経済力があり、私にはそれなりの学力があった。
勉強さえできればコミュ障でも学校生活は問題なかったし、国家資格さえ取れれば世の中なんとかなるだろう、と、卒業前の私はおぼろげに考えていた。
それが砂糖菓子より甘く、舐め腐った妄想だと思い知ったのは、仕事を始めてから。
まあ、考えてみればすぐわかる。
勉強はできても不器用でコミュ力も面白みもない人が、社会でやっていけますか? と。
運良くいまの病院に就職できたものの、一ヶ月もしない間に猫かぶりはすぐ剥げた。
仕事の覚えは悪く、失敗しては患者に怒られ、先輩に代わりに謝ってもらうことの繰り返し。
教えられたことをしょっちゅうミスり、それを藤木先輩にネチネチと叱られる自分が嫌になる。
失敗。
失敗。
また失敗。
私はただ勉強が出来るだけの小ずるい女だとつまびらかにされ、その事実をいつも誰かに見咎められているような気がして我慢ならず、ついにはトイレに籠もりめそめそと涙を流した。
大の、大人が。
新卒一年目とはいえ人前に立つ仕事をしている社会人が、化粧をぐしゃぐしゃにしながらトイレに籠もって泣いている……。
こんな恥ずかしい所、誰にも見せたくないし見せられない――と思いながら、でも仕事には戻らなきゃ、とトイレを出て、
「「あ」」
津田先輩に、顔を見られた。
あ、死のう。そう思った。
今日、病院屋上のヘリポートから飛び降りて死んでしまおう。
私は社会不適合な人間でした、生きててホントにごめんなさい。
と遺書の内容を考えていた私に、先輩はやんわりと微笑んで「一休みしようか」と、声をかけてくれた。
――俺もさ。最初入った頃はミスばかりで、マジでへこんでたよ、と笑いながら。
*
それから、先輩はたびたび私に声をかけてくれるようになった。
ひとつひとつ丁寧に。
藤木先輩のようにただ叱るだけでなく、薬師寺先輩のように出来る人が当たり前のようにしてるアドバイスでもなく。
丁寧に、丁寧に……。
どうして自分がミスをするのか?
ミスを起こさないためには、どうしたらいいのか?
「結局どんなに注意したって、人は絶対ミスするんだよ。俺も、薬師寺先輩も、技師長でもね。だから大事なのは、ミスしないこともだけど、それ以上に、ミスした時どうやってリカバリーするか、だとも思うんだよ。……あとあんまり、ミスしないようにって緊張しすぎると身体によくないしさ」
「でも私、本当にミスが多くて」
「――見てるから」
「え」
「俺がそこにいるときは、里山が間違ってないかさりげなく確認するからさ。だから、里山も俺を見て、俺が間違ってたら教えてくれ。そうやってお互いミスを防いでいこう。な?」
その言葉遣いはとても柔らかくて、分かりやすくて。
先輩が、私の直接の指導係という理由もあったけど……
何度も丁寧に教えられ、その仕事ぶりを通じて彼の人間性を知って――
そこに別の想いを抱くまで、そう時間は必要なかった。
だって。
陰キャまっしぐらな人生を送ってきた私に、まっとうな”先輩”として接してくれた男は、彼が初めてだったから。
だから私は勉強した。
先輩の力になれるように。先輩のご迷惑にならないよう、少しでもミスを減らすために。
そのお陰もあり、また仕事に慣れてきたのもあって、私は次第にミスを起こす回数が減っていった。
全ては先輩のお陰だ。
同時に、私は先輩を観察する。
仕事の勉強をするために。それ以外のことも知るために。
見て、聞いて。
知って、吸って、触れて、舐めて、味わって観察する。
仕事の手順。癖。先輩のパタパタと歩く足音のトーン。先輩が苛立ってる時にみせる静かな声。眼差し。手つき。その全て。
先輩の触覚を観察した。
私とともに撮影の練習をするとき、さりげなく触れた指先は男らしくごつごつ骨ばっていて、少しがさついていた。
けれど患者さんに触れるときの手つきはなめらかかつ最小限で、私にも早く触れてほしいなと思った。
先輩のにおいを観察した。
夜勤当直時、誰もいない技師室のロッカーを開け、先輩の使っている白衣に顔を埋めた。
そのうち我慢できなくなって、こっそり別の白衣とすり替え先輩のにおいがついたソレを持ち帰った。それは今も私の部屋に飾ってあって、私がシたいときそれを眺めて妄想に耽るのに役立っている。
でもやっぱり、本物じゃないと物足りない。
先輩の瞳を観察した。先輩はよく薬師寺先輩を見ていた。
その視線には先輩に対する敬意と苦手意識、そして美しい横顔と大きな胸に吸い寄せられていた。
けれど先輩の視線はあくまで、薬師寺”先輩”に向けるためのものであり、そこに色香はない……と思う。
――薬師寺先輩の方は、特別な意識を持っている、とは思うけれど。
観察した。
たくさん観察して観察して、けれどまだ全然足りないなと思った。
先輩はどんな趣味を持ってるのだろう。
先輩はどんなところに旅行したいと思うのだろう。
食事の好みは。服の好みは。寝るときの姿勢は。寝顔は。いびきは。
――女の好みは。
胸はたぶん、大きい方が好き。
でも尻は? 唇は? 鎖骨は? 二の腕は?
普段はどんな女をオカズにして、どんな体勢で己のものに触れ、週何回くらいの頻度で男の欲を満たしているのだろうか。
ズボンの下に隠れた欲求は、普段どれくらいの大きさで、もし生まれたままの姿の私を晒したらどんな風にむくむくとそそり立つのだろうか。
彼の指先が私の素肌に触れるとき、いつものように優しくなで回してくれるのだろうか。
それとも乱暴にのしかかり、私の隠された場所までつまびらかにしながら興奮のあまり鼻の穴を大きくするのだろうか。そっちの方が燃えるなあと思うし、できればぐちゃぐちゃにされたいし、逆に私が馬乗りになって先輩を調教してあげたいとも思う。
留まらない妄想はやがて現実味を帯びて、けどもちろん……想いを口に出せるはずもなく。
私はあくまで仕事に悩むかわいい”後輩”を演じている。
暗闇に潜むウツボのように、いつか、がぶりとかみついてやるために。
薬師寺先輩に、先をこされないために。
――そう、思っていた。
……けど、先週。
私はたまたま、見かけてしまった。
新幹線の改札口から出てくる、先輩と並んだ女性。
茶髪の、いかにも元気つらつとした尻軽そうな女が、まるで当たり前のように私の先輩と腕を組みながら、笑っている姿を。
そして、何より。
先輩もまた、私が観察したなかで一度も見せたことのない、ゆるくて幸せそうな笑顔を浮かべていたことを――
*
だから私は、その人が先輩の彼女なのだと判断した。けど、
「先輩。先週の金曜日、先輩と駅で一緒に歩いてた女性は誰ですか?」
「友達だよ」
先輩の返事があまりにも自然で、私は混乱した。
人のウソは、声に出る。
いじめっ子の声はいじめっ子の声をしてるし、虐められる子は虐められるような声をしている。
けど先輩の返事はごくごく普通で、そこにウソは含まれていない気がしたのだ。
「……あ、そうなんですね。ごめんなさい、余計なことを聞いて」
「まあ彼女だと勘違いされるのは分かるけど、そうじゃないんだ。……って言っても、信じてくれないか?」
「いえ、信じます。っていうか先輩の言い方が、友達っぽくて」
ただし全部を語っているわけでもない、とも思う。
私には分かる。先輩をたくさん見てきた、私には。
嘘の味はしないけれど、本当の味というには濁りがある。
先輩自身が、そのことに気づいているかは分からないけれど――
「里山。悪いけど、職場ではあんまり言いふらさないでほしい。ただの友達だけど、知られるとヘンに勘ぐられるし」
「分かりました。……大学時代のお友達、ですか?」
「仕事始めてから知り合ったんだ。仕事の愚痴って、同じ職場の人には話せないってあるだろ? そういう時に、話を聞いてくれる友達って感じで」
そう答える先輩の、遠くを見つめる眼差しが、あまりにも優しかったので――
私はその唇を奪いたい衝動を抑えながら、がんばって笑顔を作る。
間違いない。先輩はその人に、友達以上のなにかを抱いていた。
それが何かは分からないけれど、少なくとも私の知っている以上の関係が、その子との間にあるんだろう。
――ずるいな、と思った。
私の知らない先輩を、その人は知っている。
私の見ていない先輩を、その人は卑怯にも独り占めしている。
ずるい。
ずるい。
少しでいいから、その素顔を私にも分けてほしい……。
ううん、少しじゃ足りない。全部欲しい。
私は先輩のすべてが欲しい。
叶うならいますぐ先輩を縛り上げて連れ帰り、ご飯を作って食べさせてあげたい。それから私と一緒にベッドに入って私の身体を余すことなく堪能させ私の虜にしてあげたい。
先輩。先輩。私の先輩。
お願いだから、私を、私だけを見てください。
他の子には見向きもせず、私だけのものになってください。
叶うなら今すぐあなたを監禁して、一切の自由なんか与えず束縛させください――
……なんて醜い本心が囁くけれど、私の手は届かない。
先輩の前での私は、ただの物わかりのいい後輩。
でないと、先輩はきっと私の前からいなくなってしまう。
それに……
こんな非常識で頭のおかしな願いが通らないことくらい、私だって理解している。
だから私は、先輩に粉をかけつつ、あくまでいい”後輩”を演じている。
けど、そのうち必ず、振り向かせてみせる。
私から告白せずとも、先輩が私から目を離せなくなるように。
ただの”後輩”から”恋人”へ、いつか必ず形を変えてあげるから――
「じゃあ、先輩。その子のことは、みんなには秘密にしておきますね」
「ああ。助かる」
「いえいえ。もちろんです。……これは”後輩”の私と”先輩”だけの秘密ですから」
私はふふっと笑い、仕事着に着替えるためバックヤードに向かった。
それから先輩に見せるためだけに着てきた上着を脱ぎ、一人の女からただの後輩へと変身する。
相手の女の子が、誰かは知らない。名前も知らない。
けど、私と先輩は同じ職場。
仕事という圧力がある限り、私と先輩の間には”先輩”と”後輩”っていう、がっちりとした名前も形もある関係が存在する。
その間に、先輩の意識を変えてみせる――
と、着替えを終えながら決意し、いつもの可愛い後輩として先輩の元へとてくてく歩く。
「先輩。今日も仕事、頑張りましょうねっ」
「ああ。と言っても俺は当直明けで帰るけどな。里山こそ、仕事頑張ってくれ」
「はい。先輩のぶんまで頑張りますから。――だから私の仕事ぶり、見ててくださいね、先輩」
「もちろん。先輩だからな」
先輩が笑う。
そう。私が仕事を頑張っている限り、先輩は私を見てくれる。
だからこそ私は今日も一生懸命にがんばるのだ、と自分に言い聞かせながら、仕事の準備に取りかかる。
――その背中を、先輩に余すところなく見てもらうために。
――――――――――――――――――――
ここまでお読み頂き、ありがとうございます。
里山のプロローグをもって物語は一区切りとなります。
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