エピローグ
エピローグ
「ふん、いなくなると静かなものだな」
ゴールデンウィーク三日目。
果南、幽子、真の三人が帰るのを見送ったナルマは、神社の賽銭箱にもたれかかるように座っていた。
連休前にはゴミだらけだった境内も、今ではすっかり綺麗に片付いていた。
鳥の声すらもしない無音の境内にて、しばらく空を眺めていたナルマは呟いた。
「たまにはジジイ共の所にも顔を出してやるか。信仰心が無いのも問題だが、信仰心が強すぎるのもこの上なく厄介なものだな。全く」
ナルマは重い腰を上げ、カランコロンと下駄の音を立てながら境内を後にした。
ナルマが姿を消すのと同時に、何処かからカラスが数羽やってきて、日常が戻ってきたのだと告げるようにカーカーと鳴き始めた。
場所は変わり、山を降りているバスの中。
運転手と真と果南の三人しか乗っていないバスは、道路の凹凸で時折左右に揺れながら次のバス停を目指して走っていた。
「いつまで泣いてんだよお前は」
目を赤くし、鼻を啜る果南の横で真はボソリと呟いた。
「だ、だって。あっという間だったから」
「結局三日目の朝まで一緒にいたんだから長い方だろ。それにアイツも言ってたろ。近い内に会えるって」
「近い内っていつ?」
「分かんないけど、八月に花火大会があるからその時に遊びに来るって意味じゃないか?」
ナルマはそこまで具体的な日時を言った訳では無いが、そうでもしないと果南が泣き止まないと思った真は思い付きでそう答えた。
「そっか、鳴間川花火大会があったね」
「源ジィかユウ姉伝いにそのうち連絡があるかもしれないんだからとりあえずは良いだろ」
「んんん」
滴る涙を手で拭い、ポケットティッシュで鼻をかんだ果南は少しだけ気が晴れた顔をしていた。
「中学三年の一年間なんてあっという間なんだから、気が付いたらすぐ夏休みになってるさ」
「そうなの?」
「模試、修学旅行、中間試験、期末試験、模試。ほら、あっという間」
真は冗談交じりに戯けながら言った。
「修学旅行以外が全然楽しそうな感じしないけど」
「部活に入ってれば地区大会とかあるんだろうけど、帰宅部には修学旅行ぐらいしかイベントは無いだろ。運動会とか合唱コンクールは二学期だし」
「それは、そうだけど」
「そういや修学旅行は何処行くの?」
「一日目に新幹線で広島に行って、二日目に京都と奈良、だったかな」
「ふぅん。僕の時も一緒だったな」
「マコ兄ィもそうだったの?」
「そうだよ。お前がお土産お土産ってゴネたから生八ツ橋を買ってってやったろ」
果南は当時の事を思い出そうとしたが、フワフワと曖昧な記憶しか蘇らなかった。
「生八ツ橋って羊羹みたいなやつ?」
「羊羹には似てないだろ。お前がイメージしてるのは多分ういろうじゃないか? 生八ツ橋はなんかこう、平べったくて三角形の、甘いやつ」
真は自分の説明の下手さに気を落としたが、それ以上の説明が出てこなかった。
「そう言えば何か食べたような気がする。知らない香りがしたような」
「ニッキだかハッカだか知らないけど何かそんな感じのが入ってるからじゃなかったか? 詳しいことは自分で調べて」
どうせ調べないだろうな、と思いながら真は口にし、バスを降りる頃には忘れているだろうなと果南は自覚していた。
「どうせならハワイとか行きたかったなぁ」
「修学旅行で海外行きたいなら高野台じゃなくて星ノ浜を目指す方が良いんじゃないの? あそこは修学旅行の行き先がシンガポールだかどっかだって聞いたけど」
果南はその言葉に一瞬目を輝かせたが、すぐに首を左右にブンブンと振った。
「果南はマコ兄ィとユウ姉ェがいる高野台を目指してるの」
「あっそ」
「可愛い後輩の進路にもっと関心持ってッッッ!」
果南の軽く握った拳は、真の肩を目掛けていたはずが軌道が逸れて鳩尾にめり込んだ。
「ぐふッッッ」
「あ、ゴメン、マコ兄ィ。大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
その後も、降りるバス停に着くまでの間、二人は他愛のない話に花を咲かせた。
果南と真の乗るバスから十メートル後方を、荷物をパンパンに積んだ原付がビィイイインと音を立てながら走っていた。
バスが揺れたり避けたりしている箇所に差し掛かる時は、特に注意を払いながら運転していた幽子だったが、頭の中は考え事で一杯だった。
時は遡りゴールデンウィーク二日目の深夜。
幽子は額をペチペチと叩かれることで目が覚めた。
「ん?」
眼の前には黄色く光る丸いモノが二つ並んでおり、黄色く光る丸いナニかは時折消えたり光ったりしていた。
「厠は何処だ?」
「”かわや”? んん、あぁ、トイレのこと? 一緒に行こうか?」
額を叩いていた声の主がナルマであることと、トイレに行きたがっているということに、眠りから覚めたばかりの頭でどうにか理解出来た幽子は布団からモソモソと這い出た。
「二人を踏まないように気を付けてね」
「分かっておる」
ナルマは二人を踏まないように宙を歩いていたが、暗い部屋の中で寝ぼけ眼の幽子は気が付くことはなかった。
暗い廊下に出る頃には少しばかり目が慣れてきたが、ナルマのように何の躊躇もなく歩くことはまだ出来なかった。
「あ、ナルマちゃん。そこの右手がトイレだよ」
数歩先を歩いていたナルマがトイレの扉の前で立ち止まり、幽子の方に振り返った。
暗い中で、ナルマの黄色い眼だけが薄っすらと光っていた。
「お前はどこまで気付いている?」
「え、何? どこまでって?」
目が覚めたとはいえ幽子の脳はまだ半分寝ていたために、ナルマの質問の意図が理解できなかった。
「たとえ血が薄まろうとも、お前は草薙の娘。ワシと共に過ごして何も思わなかったのか?」
時間にしては数秒だったが、体感では数分に感じる程の静寂。幽子はナルマが言わんとしたことを想像し、少しずつ目覚める脳が導き出した答えを口にした。
「それは、ナルマちゃんが人間じゃないってこと?」
幽子の言葉にナルマは目を丸くした。
「ほぉ? 何故そう思った」
「最初は気のせいかと思ったけど、雰囲気というかオーラというか、冷たい感じがしたから。確信を持ったのはナルマちゃんのことを源ジィに聞いたから」
神社の掃除が終わった時にした電話では何も伝えなかったが、その後に幽子はSMSでナルマという少女のことについて伝えていた。
源ジィの回答は「そんな名前の子供は聞いたことがない」というものだった。
「ふぅむ、まぁアヤツがワシのことを知らないのは当然だろうが」
ナルマは闇の中で上唇をゆっくりと舐めた。
「それで、ワシが人間ではないと思いながら何故共に過ごした? ワシが子供の姿をしていたからか?」
「それは」
幽子は口をパクパクと動かしたが声を発していなかった。そして、一度口を噤んでから話し始めた。
「理由は二つかな。一つ目は私の力じゃ圧倒出来ないと思ったから。二つ目はナルマちゃんから悪意を感じなかったから」
「ほぉ。圧倒は出来なくても勝つことは出来るとでも言いたいのか?」
ナルマの脅しかける視線に、幽子は腹の底から込み上げてきた恐怖を何とか呑み込んで平静を装いながら返した。
「いくらナルマちゃんの質問であっても手の内を晒すようなことはしないよ」
幽子の牽制するかのような視線にナルマは満足気に頷いた。
「良い良い。手の内を語る程の愚行は有りはしないのだから」
実際は勝ち目などまるで無いだろうと幽子は思っていた。
可能性の一つとして考えていた神や妖精の類であった場合、一切の神具を持っていない幽子には戦う術が無いからだ。
「悪意を感じないというのは、何か根拠でもあるのか? 不審に思わなかったのか? 何の変哲もない普通の人間の果南にワシが近付いたことに」
警戒する素振りは見せながらも、幽子は考え込むように腕を組んだ。
「うぅん。大丈夫そうだな、と思ったのは私の直感」
「直感!?」
「お前はお前で果南とは違う面白さがあるな」
ナルマはシュロロロと音を立てながら笑った。
「ねぇ、ナルマちゃん。ナルマちゃんの目的はなぁに?」
幽子の声はいつものように優しく温かみのあるものだったが、幽子の目は笑っていなかった。
ナルマとは違う独特な圧を持った視線にナルマは僅かに身震いした。
「シュロロロ。漏れているぞ。お前の”熱”が」
「そんなつもりは無いけどなぁ」
今の自分には抵抗する術が無いという事実を絶対に気取られてはいけない。
自分が襲われるだけならまだ良い。
だが、ここには果南と真がいる。
二人の姉として、何としてでも守り通さなければならない。
「まぁ良い。此処から先の話をするためにわざわざお前を夜中に起こしたのだから」
ナルマからの圧が弱まったのを幽子は感じだったが警戒は緩めなかった。
「マコちゃんやカナンちゃんには聞かせられない話ってこと?」
「別にワシは聞かれても良いのだが、あの二人が聞いていたらお前がはぐらかすと思ってな」
「ふぅん。はぐらかさないから話してよ」
「だからそのつもりと言っておるだろう。ワシがお前に言いたかったのはだな」
ナルマはそこで一旦、勿体ぶるように鼻で深呼吸をした。
「『今後、何処でワシを見かけても手を出すな』と、お前だけでなく草薙の奴ら皆に伝えてほしくてな」
「それは、蛇ノ目から出るってこと?」
例外はもちろんあるが、幽霊や神様、妖精のようなモノ達には『此処までなら自由に行き来できる範囲』があり、その範囲のことを『存在可能範囲』と呼ぶことが多い。
存在可能範囲というのは何メートル、何キロメートルといったような距離で決まるのではなく、土地や建物の境界で決まることが多い。
病院に出る幽霊で例えるならば、存在可能範囲が広い幽霊は病院の敷地全体、存在可能範囲が狭い幽霊は三階にある六号室だけといった具合だ。
存在可能範囲の広さと幽霊や神様の強さはあまり関連性はなく、アパートや病院の一室といった狭い範囲で強力な力を持つ存在もいれば、村や町や市や県を包み込むような広さを持つ存在もいる。
存在可能範囲の外に出てしまうと、力の弱いモノは消失し、力の強いモノは消失は避けられても、何かしらの力の制限を受ける。
人間界のように法で護られているのではなく、自らの力で自分を護るしかない彼等にとって、存在可能範囲外に出るというのは存在に関わるリスクがある。
幽子は、ナルマの存在可能範囲は蛇ノ目神社の周辺、広く見ても山の麓までだろうと思っていたために内心驚いていた。
幽子の動揺を感じ取ったのか、ナルマは鼻でフフンと笑いながら言った。
「そうだ。ワシは果南のことが気に入ってな。果南の側にいようと思う」
果南の名前が出たことに幽子は一瞬身体を震わせたが、動揺を隠しながら言った。
「私がそれを許すと思う?」
幽子は抜刀するかのような姿勢を取った。もちろん刀も何も持っていない。
だが、”何かしらの策を持っている”という主張は、抑止力となる。
これは幽子が思い出したくもない二年前のあの日に身に沁みた真理である。
「おぉ、怖い怖い。まぁ、そう慌てるな。側にいるのにも理由はある」
ナルマは笑いながら言ったが、内心は穏やかではなかった。
ナルマは幽子が何も持っていないことは当然見抜いていたが、幽子の見せた抜刀の構えはあまりにも流れるように自然で、それでいて必ず両断するという力強さをも兼ね備えており、遥か昔の憎き人間を彷彿とさせた。
この娘は危険だ。
草薙の娘、草薙幽子は”いざという時に躊躇なく刀を振り下ろせるタイプ”の人間だ。
幽子の瞳の奥に草薙の血が確かに残っていることを理解したナルマは、無意識の内に唾を呑み込んだ。
「シュロロロ。安心しろ。ワシは果南との契りを果たすために側にいるだけだ」
どうにか平静を装いながらナルマは言った。
その動揺ぶりは素人目でも分かるモノだったが、幽子は幽子でハッタリが通用しなかったという最悪の事態を想定して頭をフル回転させており、ナルマの異変に気が付かなかった。
「カナンちゃんとの契り?」
「あぁ、果南が成人するまでの間、果南と身近な人間を降りかかる不幸から守る、という契りだ。果南の身近な人間というのはお前も見抜の小僧も含まれている」
「わ、私も?」
先程から話がどんどん妙な事になっている。幽子はあまりの驚きに声が裏返った。
「そうだ。まぁ、果南を依代にするのにお前達を守るだなんて契りは本来必要無い。大袈裟な契りを結んだのは神社の掃除の礼も含めたワシの気まぐれだ。果南が成人するまでお前達を守るという契りをもって、たっぷりと現世を堪能させてもらうよ」
特定の人間に憑依することで存在可能範囲を広げる事は可能である。
依代となる物や人があれば、本来の存在可能範囲とは別に、依代を中心に存在可能範囲を設けることが出来る。
子や孫を守るために守護霊となった存在が、子孫が何処に引っ越そうが側にいるのはこのためである。
同様に、無念の死を遂げた人間の霊がその場に留まるのではなく犯人の側に居続けるのも同様の方法を用いている。
幽子はナルマの言葉が本心であると感じ、抜刀の構えを解いた。
「とりあえずは分かった」
構えを解いた幽子を見たナルマはニヤリと笑った。
「それは良かった。なぁに、果南とワシは契りを結んだのだ。ワシが裏切れば全てのペナルティはワシに降りかかる。お前達を裏切るようなことはせん。する意味もない」
「ねぇ、一つ良い?」
流れに身を任せてそのまま納得しそうになっていたが、当然の疑問が残ったままだった。
「なんだ?」
「ナルマちゃんがカナンちゃん達を守ってくれるのは分かったけど、”契り”ってことは等価交換、等価じゃないにしてもそれなりの代償があるんじゃないの?」
さすがに誤魔化せなかったか、とナルマは思ったが、抜刀の構えを解いた時点で押し通せると確信していた。
「さっきも言ったろう? 果南を依代にするだけならそこまで強固な契りは不要だと。”果南に協力して欲しいことがあれば協力してもらう”が、それ以上のことは要求せん。ワシがどれだけ労力を払うことになっても、果南にそれ以上の要求はせん。そもそも果南はごく普通の何の力もない人間だ。そんな奴にこのワシが一体何を要求すると思う?」
「それは、まぁ、うぅん」
幽子はナニかが頭の中で引っ掛かったのだが、ナルマが嘘を言っている様子が無かったために、それ以上問いただすようなことはしなかった。
「交渉成立、というわけだな。まぁさっきも言ったが、お前達が危ない目に遭えば助けてやる。だが、自分達から危険に飛び込んだら知らないからな。死にたがりを助けてやる程の甲斐性は無い」
「裏切ったら、嫌だよ」
「裏切るも何も無いと散々言っておるだろう。契りを結んだのだ。ワシが先に破棄するようなことはせん。お前達草薙の人間がワシの首を獲ろうとしているのなら話は変わってくるがな」
ナルマは舌をチロチロと覗かせながら腕を組んで踏ん反り返った。
ハッと我に返った幽子は、前を走るバスとの車間距離がかなり狭くなっていることに気が付いた。
慌ててブレーキを握り、いつもの車間距離に戻した。
「あ、危なかったぁ」
考え事をしながらの運転は危険だと承知しているのだが、やはりナルマとの会話のどこかが引っ掛かる。
どこかが引っ掛かるのだが、違和感の正体が何なのか分からなかった。
連休最終日の夜。
月が空高くから街や山々を照らしていた。蛇ノ目神社の駐車場には一台の車が停まっており、車から四人の若者が喋りながら降りた。
同じ頃、蛇ノ目のとある屋敷にいたナルマは、蛇ノ目神社から人間の気配を感じた。
「妙な輩がいるな」
一人の老人が、ナルマの声を聞くや否や音も立てずにナルマの側に跪いた。
「鳴萬我駄羅様。どうかされましたか?」
「ワシは神社の方を見てくる」
「我々はいかが致しましょう?」
ナルマは部屋の中を見回すと、パッと見ただけでも十人近くの老人が跪いていた。
ナルマは舌打ちをしてから言った。
「来るな。目立つようなことはするな」
ナルマはそう言いながら、手元のお猪口に残った酒を一気に飲み干して立ち上がった。
「何かありましたら何なりとお申し付けください」
「分かっておる。今日はそのまま帰る。全て片しておけ」
「かしこまりました」
ナルマは近くの窓を開けると、月の浮かぶ空に向かって跳躍した。
宙を浮かびながら境内の方へと向かったナルマは、若者達が境内で騒いでいるのを見つけた。
「また度胸試しか? この周辺の土地には近付いてはいけない場所なんていくらでもあるというのに」
ナルマは四人から五メートルばかり上空に寝転がりながら、若者達を観察することにした。
「もしもーし! 神様、いますかー?」
男が拝殿の入口に近付いて叫んだ。
「ちょ、夜だから叫ぶなよ」
「こんな山奥にだぁれも来やしないよ」
「ワシはここにいるぞ」とナルマが呟いたが、境内にいた女だけがナニかを感じ取ったのか辺りをキョロキョロと見回しただけで、他の人間達は気付く様子は無かった。
「賽銭あんのかなぁ」と言いながら男が賽銭箱の中を覗こうと身をよじらせた。
「おい、バチ当たるぞ」
「その前に犯罪だよ」
「ギャハハ」
品のない男女の笑い声が境内に響き渡った。
ナルマは賽銭箱の隙間から手を入れようとしている男を睨みつけながら言った。
「それ以上触れるな。小僧」
しかし、ナルマの声は誰の耳に届くこともなく闇に吸い込まれていった。
「なぁ、此処ってトイレってあんの?」
一人の男が辺りを見回しながら呟いた。
「あっても汚ねぇだろ。こんなところのトイレってよ」
「マジかよ。漏れそう」
「何でさっきのコンビニでしなかったんだよ」
「急に来たんだって」
「もうその辺ですれば?」
「ちょっとやめてよ」
「ギャハハ」
一人の男が近くの草むらに近付いたが、何を思ったのか踵を返して賽銭箱へと近付いた。
「神様も喉渇いてるっしょ。賽銭代わり賽銭代わり」
そう言いながら男は賽銭箱の上に登ると、ズボンのチャックを下ろした。
「うわ、ヤッバお前」
「ちょっと、最低」
笑い声と共に、賽銭箱に入るはずのない物が注ぎ込まれていった。
ナルマはその様子を何も言わずにジッと見ていた。
これから屠る獲物を品定めするかのように。
「ハァ、スッキリした」
男は身体を少し震わせてからズボンのチャックを上げた。
「お前呪われるぞ」
「良い酒飲んだ後のシッコだから酒みたいなもんよ」
男は笑いながら賽銭箱から飛び降りた。
「んなわけねぇだろ」
「ギャハハ」
「お前達、生きて帰れると思うなよ」
怒りを剥き出しにしたナルマの声は、今度は女の耳にハッキリと届いていた。
女は慌てて辺りを見回したが、見知った人物しかいなかった。
「何か声がしなかった?」と聞きたかったが、自分の勘違いだった場合に馬鹿にされるな、と思った女は口を噤んだ。
「ていうかさ、ここにいる神様ってなんなん?」
「知らねぇよそんなの。蛇ノ目神社なんだから蛇なんじゃねぇの?」
「シュロロロ。正解」
ナルマの声は女にしか届いていない。
女は空を見上げた。気の所為だろうか、月が三つに見えるのは。
ナルマの黄色い眼が女の両の目を射抜いていた。
「じゃあ蛇ノ目ってなによ?」
「だから知らねぇよ。蛇の目ん玉なんじゃねぇの?」
「意味分かんねぇ」
「ギャハハ」
やがて、一人が缶コーヒーを拝殿の屋根の方に放り投げてから言った。
「何もいねぇしそろそろ帰らん? おもんねぇし」
カランコロンと、屋根の傾斜によって転がった缶コーヒーが近くに落ちてカラーンと音を立てた。
「そうだな。何もいなかったし」
「此処におるだろう。此処に」
ナルマは宙からフワリと着地すると、拝殿の扉に寄り掛かった。
女の視線はナルマに釘付けになっていた。
いつから居たのか。誰なのか。
何故こんな所に、こんな時間に少女が一人でいるのか。
その全てが分からなかった。
「おい、レミ。早く行くぞ」
「シュロロロ。お前、”れみ”と言うのか。付き合う男は選んだ方が良いぞ。まぁ、もう遅いがな」
女は頭が真っ白になっていた。
なんだこの少女は。ヤバいヤバいヤバいヤバい。何か分からないけどとにかくヤバい。
山を降りる前に死ぬって言った?
死ぬって何?
死にたくない。あぁ、神様。私を助けろ!
「おい、レミ」
一人の男が女の顔を覗き込みながら言った。
「ふむ、強く効かせすぎたか? そろそろ解いてやろう」
男が女の肩を叩くと、女は我に帰ったかのように身体をビクッと震わせて男と目を合わせた。
「何?」
「だから帰るって言ってんじゃん」
「もしかして呪われた?」
「そ、そんなわけないじゃん」
「ホラ、帰るぞ」
女が歩き出そうとするよりも早く、自身の身体が勝手に動いていることに気が付いた。
足を動かそうと思っていないのに勝手に身体が歩き出す。
腕も、首も、視線も、呼吸も。その全てが自分の意図した通りに出来なくなっていた。
「自分の身体を乗っ取られるのはどんな気分だ? ん? ワシは乗っ取ったことはあっても乗っ取られたことはないから分からないんだよ」
ナルマは笑いながら女の腰をバシバシと叩いた。
「ほれ、早う歩け」
少しだけぎこちない歩き方をしていたが、最後尾を歩いている女の様子がおかしいことに、誰一人気が付くことはなかった。
若者達が車に乗り込むタイミングで、ナルマは車の上に飛び乗った。
重さを一切感じさせないナルマの跳躍は、車の屋根に飛び乗った際も一切の音を立てなかった。
運転席に座った男がエンジンをかけると、爆音で洋楽が流れ始めた。
「なんだこの音は。何とも耳障りな音だな」
ナルマが顔をしかめていると、運転席の男はアクセルペダルを思い切り踏み、車は砂利を散らしながら勢いよく発進した。
「おぉ、速い速い」
ナルマは特に気にする様子もなく、車の屋根の上で足を広げて座った姿勢を崩さないまま、走る棺桶の中にいる人間達を何処で仕留めるかを考えていた。
若者達の乗る車は明らかに制限速度を超えているスピードで山道を下っていた。
道幅は広くないため少しでも内側に寄れば対向車とぶつかるのだが、運転する男は対向車のことなど考えずに道の真ん中を走っていた。
「さっきからメチャ飛ばすじゃん」
助手席に座る男が笑いながら言った。
「対向車なんか来るわけ無いからスピード出し放題よ」
「なにそれ、最高じゃん」
「お前も今度やれば良い」
助手席に座る男は、フロントガラスに何匹もこびり付いている羽虫を見ると眉をひそめた。
「やっぱやめとくわ。なんか虫多いし」
「虫ぐらいで騒ぐなよ。女かよ」
地面の凹凸にタイヤが乗り上げたのか車体が大きく跳ね上がった。
助手席に座る男は一瞬の浮遊感に思わず身体を強張らせた。
「つーかさ、さっきから後ろの二人静かすぎね?」
「あ? 寝てんじゃねぇの?」
運転している男は後ろの二人のことなど気にもせず前を見ていた。
「こんな運転でよく寝れるなって」
助手席に座る男は後部座席の方を見ると目を丸くした。
「待て待て待て待てッッッ!」
「うるせぇな、なに騒いでんだよ」
「後ろに二人がいねぇッ!? お前も見ろ早くッッッ!」
助手席の男が口にしたように、確かに一緒に乗り込んだはずの二人がいなくなっていた。
「馬鹿か、運転してんだぞコッチは」
運転している男は助手席の男の話を全く信用せず、そのままブレーキペダルに足を添えることもせずにカーブへと突っ込んだ。
車は大きなカーブを強引に曲がった。タイヤが小枝を踏んでいるのかパキパキと音がした。
遠心力で身体がドアの方に寄った男は片目で車体の側面にへばりついているナニかを見つけた。
窓を開けることに抵抗を覚えたため、姿勢を整えて窓に頬を寄せるようにして側面を見ると、女が車体にしがみついていた。
女は助手席の男を黄色い瞳で睨みつけた。
「あ、おいッ! 車体の横に黄色い目をした女がへばりついてるッ!」
助手席の男は叫びながら運転席の男の肩を叩いた。
コイツ、ここまでしつこく冗談言う奴だったか?
頭の中に疑問符が浮かんだものの、運転手の男は肩を叩く助手席の男の手を肘で振り払った。
「んなわけねぇだろ」
運転手の男がそう言ったのと同時に、バンッ! とフロントガラスに黄色い目をした女が降ってきた。
「ワァアアアアアッッッ!?」
運転手は慌ててブレーキペダルを強く踏んだ。
しかし、スピードを出しすぎていたことと小枝や砂利の散乱した路面だったことが重なり、車は制御を失った。
男はハンドルを強く握りしめ操作したが、車は滑りながらガードレールに向かって正面から突っ込んだ。
勢いよく斜面を進む車は、太い枝にぶつかったのかフロントガラスが弾けるように割れ、葉っぱや小枝が次々と車内に入ってきた。
やがて、強い衝撃が尾骨から伝わるのと同時に車の動きが止まった。
そして大量の水飛沫が降り注ぎ、男の全身はあっという間にずぶ濡れになった。
運転席にいた男は最後の衝撃の時に頭をぶつけ、そのまま気を失った。
「うッッッ。いってぇなぁ」
どのくらいの時間、気を失っていたのかは分からない。
全身の冷たさと頭の痛みに男が目を覚ますと、車は川の中で止まっていた。
締め付けるような強い頭痛に思わず歯を食いしばりながら、男は車の外に出ようとドアに手をかけた。
だが、ドアを押してもビクともしない。
不審に思った男がドアをよく見ると、車体と一緒にドアも歪んでいた。
「マジかよ」
まだローンが残っていた車は、廃車確定だと素人でも分かるほどに歪んでいた。
女が降ってきたせいでこんなことになったんだ!
腹いせに車のハンドルに拳を振り下ろすと、川のせせらぎだけが聞こえる空間にプァーと弱々しい音が響き渡った。
「そうか。ガラス全部割れてんじゃん」
フロントガラスが殆ど無くなっていたため、男はダッシュボードを這いずるようにして外に出た。
いくら五月といえど、深夜の風は濡れた身体には冷たかった。
カチカチと歯を鳴らしながら男はボンネットの上にゆっくりと立ち上がった。
月明かり以外の光源は無く、車で突き破ってきたであろう木々の奥は完全なる闇が広がっていた。
「ん?」
男はここでようやく、事故を起こしてから仲間達の姿を見ていないことを思い出した。
膝をついて車内を確認したが、誰の姿も気配も無かった。
「俺を置いてったのか?」
いくら何でもそんなことはないだろう。
本当にそうか?
疑心暗鬼に陥った男は、とりあえず川から出ることにした。
男は所々歪んでいる車の屋根の上を歩いて少しでも水の中を歩かないように距離を稼ぎ、最後は諦めて川の中へ降りた。
膝下まで水に浸かり、苔で何度も滑りそうになりながら男は何とか川岸に辿り着いた。
「クソッッッ。やってらんねぇよマジで」
男はポケットからジャラジャラと沢山の小物がぶら下がった携帯電話を取り出したが、画面を見て声を漏らした。
「圏外!?」
画面の上部には通信不可を示す圏外マークが表示されていた。
「嘘だろオイ」
男は携帯電話を高く掲げてみたが、圏外マークは消えることはなかった。
そうか。此処が圏外だから、アイツ等は助けを呼ぶために何処か携帯電話が繋がる場所を探しに行ったんだ。
何故自分を置いていったんだ、という不満はあったものの、この場に仲間がいない理由が分かったために男は胸をなでおろした。
背伸びまでして高く掲げていた携帯電話をポケットに仕舞おうとしたところで男は目を見開いた。
川の中に止まったままの車の横に誰かが立っていたからだ。
目を凝らすとそれが女であることが分かった。
「何だよレミ。いたのかよ。とりあえず川から上がれよ。深くねぇから歩いて来れるだろ」
しかし、女はピクリとも動かなかった。
「レミ?」
男三人女一人で神社を訪れたから、女はレミであると判断した。
だが、車がガードレールを破る直前にボンネットに女が降ってきた。
今車の横に立っているのは仲間ではなく、降ってきた女なのではないか?
男が恐る恐るもう一度女の姿を見た時、黄色い瞳と目が合った。
その瞬間、身体が動かなくなった。
「お前が最後だ」
その声は車の横に立っている女からではなく、自分の真後ろから聞こえた。
しかし、振り向こうとしても首も腰も視線すらも動かせなくなっていた。
「まぁ色々と考えたのだが、お前達のような下等生物のためにワシが時間を割くのも馬鹿馬鹿しいと思ってな。喰らうことにしたわ」
自分の後ろから知らない声が聞こえる中、川の中にいる女が一歩、また一歩と男に向かって歩き始めた。
濡れた髪が女の顔に貼り付いていたが、その隙間から黄色く光る瞳が覗いていた。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
瞬きのタイミングすら自分の意志で行うことが出来ない。
男は少しずつ近付いてくる、かつての仲間の、今はただただ不気味なだけの姿をその目に無理やり焼き付けられた。
「なぁに、安心しろ。すぐに死ぬわけじゃない。丸呑みというのはな、全身の骨が砕け、筋繊維が千切れ、消化液で皮膚が溶け、肉が溶け始める。ゆっくりゆっくりジワリジワリと事が進む。せいぜい腹の中で悔い改めろ」
シュロロロと奇妙な音が聞こえるが、視線を動かすことの出来ない男には何の音か分からなかった。
死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない。
その時、目の前に居た女の膝から下が男の顔の前に現れた。
それは大型トラックですら簡単に丸呑みにしそうな程に巨大な白蛇が、女の身体を上から咥えてぶら下げたことによる光景だったが、男にはそれを確認する術はなかった。
白蛇が女の身体を丸呑みにすると、今度は男の上で口を大きく開けた。
開けた口からポタポタと赤紫色の液体が垂れてくる。
一切身動きの取れない男は、ただただ己の不幸を恨んだ。
そして、男の視界が突然真っ暗になった。月明かりすら無い完全なる闇。
胃の中の物を全て吐き出したくなるような生理的に受け付けない激臭。川の水で冷えていたはずの身体を包み込む生温かさ。ヌルヌルとした液体に触れた所からピリピリと痺れ始め、身体全体を締め付ける力は段々と強くなっていく。
視界が無くとも、謎の声が言ったように、自分はナニかに丸呑みにされたのだと悟った。
助けて助けて助けて助けて助けてッッッ!
男の願いも虚しく、全身の骨に少しずつヒビが入っていく感覚を、まるで夢でも見ているかのようにただ呆然と感じ取ることしか出来なかった。
「分かってはいたが不味いな。さっさと吐き出したいわ。こんな奴等」
ナルマは自分の腹をポンポンと手で叩きながら神社の方角へと歩いて行った。
木々の合間を縫うように進んだナルマの姿は、あっという間に闇夜に紛れて見えなくなった。
大場果南と黄眼の少女 野々倉乃々華 @Nonokura-Nonoka
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