第5話

「赤ちゃんの靴下を作ってるのよ。」

 奥さんはそう言って、眩しそうに目を細めた。彼女は窓際に置いた安楽椅子にゆったりと腰かけていた。午後の日差しがレースのカーテンを通して部屋の中に降り注ぎ、床に丸い落とし穴のような陽だまりを作る。窓際は明る過ぎて、長時間過ごすのに向いている場所とは思えない。移動しないの、と吉岡さんは度々尋ねたのだが、奥さんは毎回首を振った。桜が見える位置に座っていたいの、と熱心に手元を動かしながら彼女は言った。二年前、まだ奥さんのお腹が大きかった頃の話だ。

桜の枝は我が家のベランダに向かって勢いよく伸びていた。そこにびっしりと付いたつぼみはつい数週間前まで青々として硬そうだったのに、今や薄ピンク色の可憐な花びらが春風に揺れている。桜が咲き始めた頃から、それを眺めながら編み物をするのが彼女の日課になっていた。奥さんは手先が器用で、毛糸を使った温かみのある小物たちを次々と作り出すことができた。編針は複雑な動きで毛糸をからめとり、徐々にしっかりとした生地を生成していく。その過程を、吉岡さんは不思議な気持ちで眺めていた。クリーム色の毛糸で作られた円形の生地が、途中から加わった水色の毛糸と一緒に美しいグラデーションを作りながら靴下の形になっていく様子はさながら魔法のようだ。

 仕事が休みの日だった。暇を持て余していた吉岡さんはダイニングテーブルに頬杖を突き、編み物をする奥さんを何時間も飽きずに眺めていた。奥さんは肩がこるようで、時々トントンと叩いたり、腕をぐるりと回したりした。しかし基本的には、椅子にすっぽりと収まって体勢を変えなかった。春休みなのだろうか、外から子供の声が聞こえてくる。それが何故か、やたらくっきりと吉岡さんの耳に残った。子供たちは鬼ごっこだかかくれんぼだかの鬼を決めるじゃんけんをしていた。じゃんけんポイ、と吉岡さんも心の中で一緒に言った。一回で勝敗がついたようで、子供たちは鬼から離れて散らばっていったらしい。笑い声や叫び声は勢いを増しながらも徐々に遠くに離れていき、やがて消えた。

 ふと、吉岡さんは自分が泣いていることに気づいた。涙は目頭からポロリとこぼれ、鼻の脇の辺りをなぞるように滑り落ちていった。吉岡さんはびっくりして、慌てて手の甲でその雫を拭った。少量の水滴はカサカサと乾いた肌に飲み込まれ、すぐに消えた。その一滴だけだ。後には何かがこみ上げてくることもなく、目頭が熱くなる感覚ももう残ってはいなかった。どうして自分が泣いたのか、吉岡さんにはわからなかった。ただ、何となく奥さんにバレると恥ずかしいような気がした。幸いにも彼女は夫の異変に気がつかなかったようだ。奥さんの手元は止まることなく、滑らかに毛糸を紡いでいた――。

 そして二年越しに、またも吉岡さんは泣いている。

 悪魔の言葉で飛び上がるようにベランダに出た吉岡さんは、手すりから身を乗り出し目一杯に手を伸ばした。目の前の桜の枝には今年も膨らんだつぼみがびっしりと付いていたが、枝はその重みを感じさせないほどピンと元気よく上に向かって伸びていた。吉岡さんはどうしてもその枝を掴みたかった。ポツポツと開き始めたばかりの小さな花をその手の内に収め、じっくりと眺めてみたかった。しかし枝は思いの外遠くにあり、彼はそれを掴むことができなかった。吉岡さんは仕方なく上半身を引っ込めたが、食い入るような視線はまだ花に注がれたままだ。肩が震え始めているのが自分でもわかった。それは初め、後ろから見ていた悪魔が気づかなかったほどの小さな震えだったのだが、吉岡さんは次第に内側から溢れてくるものを制御できなくなっていった。彼は手すりにもたれて体を支えていたが、やがて膝から崩れ落ちるようにして体を丸め、嗚咽を漏らした。

 あの時のことがまざまざと思い出されていた。桜を眺める奥さん。編み物をする奥さん。それを眺める吉岡さん。子供の声。鳥の声。春の香り。陽だまりの中の奥さんの、膨らんだお腹。なぜあの時自分が泣いたのか、今になってようやくわかった。吉岡さんは地べたに手をつき、声にならない声を上げた。頭上では薄ピンク色の花びらが、今にも闇に溶け込んでしまいそうなほど頼りなく輝いている。風が吹いて、その内の一枚が吉岡さんの方に飛ばされてきた。花びらは風に乗ってクルクルと円を描きながら落ち、彼の頬に優しく触れた。

 幸せだったのだ。あの時、あまりにも幸福で泣いたのだ。

 妻がいて、子供がいる。大切なものがあって、大切にしてくれる人がいる。春の午後、目にはいるものすべてが美しく、愛おしく見えた。そしてそれは全部吉岡さんのものだった。彼の家であり、彼の家族だった。吉岡さんの頭には、今はもう失ったあの景色が鮮やかに広がっていた。あの頃、彼の手の中にあったもの。もう二度と、戻らないと思っていたもの。

 あの美しい光景が、もう一度この世界に返ってくるのだ。吉岡さんの死と引き換えに。

 吉岡さんは手すりを掴んでなんとか立ち上がった。脚はがくがくと震えていたが、内側からほとばしるエネルギーが彼を支えていた。吉岡さんは窓際にいた悪魔を押しのけて部屋の中に入っていった。ダイニングテーブルの上には紙とペンが、手つかずの状態で残されている。彼は立ったまま腰を丸め、机に向かい始めた。気持ちは急いていたが、なるべく丁寧な文字をメモ帳に綴った。伝えたいことがある。どうしても残しておきたい言葉がある。短いメッセージに、吉岡さんは自分に残っているすべてを注いだ。意味なんて無いと思っていた自分の人生が今、優しく彩られていく気がした。これでよかったんだ、と彼は噛みしめるように言った。

失っても、宝物は宝物のままだ。死ぬ間際にそれに気づけたことを、吉岡さんはこの上なく幸福に思った。

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