第3話

結婚して一年後、奥さんは妊娠した。

奥さんは常々早く子供が欲しいと話していたから、その喜びもひとしおだった。新しく赤い線が浮き出た妊娠検査薬を吉岡さんに見せつけながら、いつもは大人しいはずの奥さんは部屋中を小躍りして周った。彼女に比べれば吉岡さんの喜び方はずいぶんと控えめなものに見えたが、彼も彼で、その日の仕事帰りにベビー用品店で赤ちゃんのガラガラを買ってくる有様だった。気が早いんだから、と呆れた顔を見せつつも奥さんの口角は上がっていた。夫がきちんとはしゃいでいることがわかって、嬉しかったのだ。

幸いにも悪阻はほとんどなく、奥さんは穏やかに安定期を迎えた。平だったお腹は少しずつ、しかし確実に膨らんでいき、その変化は親になるという実感を二人に湧かせた。お腹の子が男の子だと言われたのは五か月目の検診の時だ。あなたに似るといいわね、と奥さんが言うので吉岡さんは驚いた。敢えて口に出す人は少なかったが、誰もが子供は美人な奥さんに似るべきと思っていることは明白だった。しかし奥さんは首を振った。私、あなたに似た子を産みたいの。そう繰り返して微笑む奥さんの、柔らかな曲線に縁どられた頬はバラ色に輝いていた。この頃から彼女は胎動を感じるようになり、吉岡さんもしょっちゅう奥さんのお腹に手を当てて小さな振動を楽しんだ。胎児は日に日に存在感を増し、これから生まれてくる新しい生命の音が、現実感を伴って鳴り響いていた。

いよいよ出産を控えた春の日の午後、吉岡さんの職場に一本の電話がかかってきた。病院からだった。吉岡さんは急いで産婦人科に向かったが、その頃にはもう奥さんは集中治療室の中だった。扉が開かれるまで、永遠のように長い時間をどうやって過ごしたのか吉岡さんは覚えていない。ただ、気づいた時には胎児は死んでいた。母体の子宮ごと取り除く大手術だったと、しっかり理解できたのは何日も後だった。お腹が空っぽになった奥さんはしばらく病院のベッドに寝かされていて、吉岡さんが見舞っても反応しなかった。呆けたように天井を眺める奥さんに言葉をかけるでもなく、吉岡さんも同じ表情で病室の窓の外を眺めていた。桜は散り始め、街いっぱいに美しい緑色が広がる季節になっていたが、二人にはそれが見えなかった。世界は色を無くし、音を無くし、香りを無くした。四方を暗闇に囲まれたような日々の中で、胸を刺す痛みだけが彼らを現実につなぎとめていた。

「その子供を、奥さんは返してくれって言ったんだ。」

 悪魔は静かに言った。

「死んでしまったあの子を生き返らせてくれ、というのが彼女の望みだった。それで契約内容としては、奥さんは二年前の臨月の時から人生をやり直すことにした。子宮も胎児もちゃんと腹の中に収まってる。子供は次こそは健康に生まれてくる。ただしその世界に、吉岡さんはいない。あんたはその一か月前に、心臓発作で亡くなったことにしてある。ここまではいいかな?」

 吉岡さんは力なく頷いた。

「さて、申し訳ないけど私はこれからあんたの首を鎌で切り落とす。私はその首を魔界に持って帰るんだが、人間界の設定ではさっき言ったように、あんたは二年前に亡くなったことになってる。悪いね、難しい話をしているのはわかってるんだ。ここまでで何か質問はあるかい?」

 吉岡さんは小さく首を横に振った。

「……奥さんに一筆書き残すこともできるけど、どうする?」

 うなだれる吉岡さんがさすがにかわいそうに思えて、悪魔は気を使ってそんなことを言った。本当に奥さんにメッセージを届けるとなれば悪魔側の負担が増えるだけなのだが、それでも構わないくらい、目の前にいるくたびれたおじさんは悪魔の目には惨めに映った。吉岡さんは少し考えたのち、書かせてください、と小さな声で言った。悪魔はダイニングテーブルの上のメモ帳をちぎって、そばにあったボールペンと共に吉岡さんの前に置いてやった。

吉岡さんをしばらく一人にしてやった方がいいだろうと思い、悪魔はベランダに出て時間をつぶすことにした。外は風もなく、悪魔のまとっている皮のコートは穏やかな春の気候には確かにそぐわなかった。彼は手すりにもたれて一服しながら、ぐるりと周りを見渡して久しぶりの人間界を観察した。マンションの三階から見渡せる景色といえばポツポツと灯る住宅の明かりくらいだ。その柔らかなオレンジ色の光を眺めていると、彼の脳裏には魔界で暮らす子供たちの顔が浮かび上がった。

悪魔は二人の女の子の父親だった。上の娘は人間界で言うところの“シシュンキ”に突入する年頃だったので、最近では父親とはろくに口もきいてくれない。悪魔はそれでずいぶん寂しい思いをしていたし、その理不尽な扱いに内心腹を立てることだってあった。外では威厳ある悪魔のくせに、家の中では小娘に無視されて小さくなっている男に過ぎないという事実に、情けなくなったりもした。もちろん子供が成長する上でそういう期間は必要だし、親としてはすべてを受け止めて見守ってやるべきだと思う。頭ではわかっているが、娘が彼の一挙一動に顔をしかめる度、耐え難い屈辱がそれまでの悪魔の価値観を揺るがせた。子供を持つというのは、本当に幸せなことなんだろうか?子供が大切という気持ちは消えてはいないが、それと同時に彼は娘の横暴な態度に感情を支配されることに疲れ始めていた。娘は今や、この中年悪魔の自尊心を脅かす災いの種でもあった。

結局のところ、あの子たちのためにすべてを犠牲にすることが自分にはできないのだ。悪魔はスース―する煙を胸一杯に吸い込みながらそう思った。俺は自分の身が可愛いから、大切だから、それを子供に汚されることが我慢ならないのだ。でも、そんな父親って俺だけだろうか?彼はもう一度、眼下に広がるオレンジ色の住宅の明かりたちを目に焼き付けるように見つめた。あの光の下で暮らす無数の家族たち――無数の父親たちの中に、俺みたいな葛藤を抱える男は果たしていないんだろうか?いや、きっといるはずなのだ。哀れで、惨めで、ずるくて弱い父親たちが。そしてくるりと振り返り、今度は閉ざされた窓とカーテンの向こう側にいる男のことを考えた。吉岡さん。かわいそうな吉岡さん。俺があんただったらこんな仕打ちは耐えられない。そんな身勝手な、独りよがりな決断のしわ寄せを食らう一生なんて、想像しただけで気が狂いそうだ。

タバコはもう十分に短くなっていた。悪魔はその火をベランダ用のサンダルの裏でもみ消した。そろそろ戻ろう。そう思った矢先、視界の端で何か白いものが揺れた。悪魔は驚いてその方向に目を向けた。ここが角部屋で、真隣に大木が生えていることをその時まで意識していなかったのだ。今にも夜の闇に溶け込んでしまいそうなくらい頼りない、その白い物体が何であるかに気づくと、彼の頬は少し緩まった。もしかしたら人間界のこの国は、一年で一番良い季節を迎えているのかもしれない。彼の中で、先ほどまで暴れていた投げやりな気持ちが束の間、小さくしぼんだ。悪魔は窓を開けると、部屋の中にいる男に呼びかけた。

「吉岡さん、桜が咲いてるよ。」

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