第2話

 吉岡さんと奥さんの出会いは五年前にさかのぼる。

 吉岡さんが売り場事務として勤務する大手百貨店に、奥さんが派遣の販売員としてやってきたというのが二人の出会いだった。二人は周囲の人から馴れ初めについて訊かれると決まってそのエピソードを話したが、たいていの人はその説明では納得しなかった。というのは、彼らが本当に知りたいのは出会い云々ではなく“どうして吉岡さん程度の人がこんなに美人な奥さんを捕まえられたのか”ということだったからだ。

 吉岡さんは確かに冴えないおじさんだった。百貨店の従業員は事務仕事であろうと多少の身だしなみが求められたから清潔感の面では問題なかったのだが、何というか全体的に幸が薄い印象を与えた。それは色白ののっぺりとした顔のせいかもしれないし、低身長でガリガリな身体つきのせいかもしれない。物怖じしない性格だったが明るくはなかったし、口下手ではないがお喋りでもなかった。真面目で仕事が早いので職場では重宝されたが、一旦外に出ると同僚たちは吉岡さんの存在を忘れた。彼はまさしく空気だった。彼がいないと困るくせに、誰も彼の働きぶりに大して感謝もしなかった。しかし吉岡さん自身はそのことを気に留めなかった。自分はその程度の人間なのだという諦めが、なぜか小さい頃から彼の中に備わっていた。

 奥さんは吉岡さんより十歳年下で、三十代向けの婦人服ブランドの売り場を担当していた。こざっぱりとした美人で、大人しくて控えめな本人の意に反してよく目立ったので、配属当初からフロアでも話題になった。吉岡さんが奥さんの担当店舗のクレーム対応をしたというきっかけで親しく言葉を交わすようになり、すぐに奥さんの方から交際が申し込まれた。自分が彼女から懐かれていることは自覚していたが、それでも吉岡さんは首を傾げた。いったいこの美女は俺なんかのどこが良かったんだろう?しかし奥さんはそれについて語らなかったし、吉岡さんも恥ずかしくて何も訊けなかった。何はともあれ、奥さんには吉岡さん自身も気づかない彼の魅力が確かに見えているようだった。

 奥さんと付き合うようになってから、吉岡さんは自分に実体があることを知った。今まであまりにも多くの人が自分を消費してすり抜けていくので、吉岡さんは自分が透明人間なのではないかと思っていたのだが、奥さんから見れば吉岡さんはきちんとした生身の人間だった。奥さんは何よりも吉岡さんとの時間を優先したし、彼のために料理を作り、彼のために部屋を片付けた。いつも目を見て喋り、手を取って歩いた。人から大切にされるというのはこんなにも尊いことなのかと、吉岡さんはしみじみ噛みしめた。二人は二年の交際を経て結婚し、東京の郊外に借りたマンションで慎ましくも温かな生活を送った。


「それにしても、あんたたちは不幸だったよ。奥さんから聞いたところによるとね。」

 悪魔の声に、吉岡さんはハッと我に返った。

「私にも子供がいるからさ。」

悪魔はしみじみといった感じで呟いた。

吉岡さんは静かに目を閉じ、押し寄せてくる荒波を前に、しばらくじっと息を潜めていた。それは二年前から定期的に吉岡さんの心に現れるようになった巨大な白い波だった。波は泣き出したいような叫び出したいような昂りとなって彼を支配しようとしていたが、泣いても叫んでも空しいだけだと知っている彼はただうずくまることしかできないのだった。

「生まれていたら、今年で二歳になります。」

 しばらくして、吉岡さんは顔を上げるとそう呟いた。悪魔は小さく一つ頷いただけだった。

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