悪魔と妻と吉岡さん

得能かほ

第1話

その日、吉岡さんが家に帰ると奥さんはいなかった。その代わり、ダイニングにおいた四人用のテーブルセットの、右奥の席に悪魔が腰かけていた。悪魔だ、と吉岡さんは一目見ただけでわかった。頭に角が生えていたからだ。角は悪魔の象徴だった。吉岡さんは困惑した。人間に似ているが、おそらく本物の悪魔だ。しかし不法侵入に変わりはないので、とりあえず警察に通報しようと携帯電話を取り出した。悪魔は落ち着いた動作でそれを制した。大事な話があるんだ。それを聴いてからにしてくれ、と彼は低い声で言った。その一言にはただならぬ威圧感があった。それに気おされ、吉岡さんは携帯電話をしまわざるを得なかった。

 悪魔の体は黒い皮のコートで覆われていて、それは春の始まりの格好にしてはやや重たく暑苦しく見えた。コートを脱いだらどうかと吉岡さんは提案したが、悪魔は首を振った。

「これは悪魔の正装だから、仕事中はこのコートを脱ぐわけにはいかないんだ。」

 悪魔の顔は目の部分だけくり抜いた黒い仮面で覆われていた。そこから覗く瞳もやはり漆黒だった。そして頭に生えた二本のおどろおどろしい角は周りの物に突き刺さりそうなくらい鋭く尖っていたので、吉岡さんはひやひやした。その角も正装なのですか、と尋ねると悪魔はまたも首を振った。

「これは生まれつき生えているものだから、正装とは言えない。取り外しができないんだ。そんなことより吉岡さん、どうぞ座ってくださいよ。」

 悪魔は吉岡さんに椅子をすすめた。吉岡さんは吉岡さんなりに悪魔の出現に困惑していたから、今の今まで立ち尽くしたままだったのだ。気を取り直して悪魔の正面の席に腰かけると、悪魔は改まったように口を開いた。

「私がここにお邪魔しているのはね、他でもない、あんたの奥さんに頼まれたからなんだ。契約だ、人間と悪魔の契約ですよ。あんたも聞いたことあるでしょう。」

 吉岡さんは小学生の時に読んだある児童文学のストーリーを思い出していた。少年がおまじないを唱えて悪魔を呼び出し、お願いを叶えてもらう代わりに彼の一番大事なものを悪魔に捧げる、という話だった。あの時、少年は何を願い何を捧げたんだっけ?吉岡さんは懸命に頭を働かせたが、何しろ三十年も前のことだ。なんだか恐ろしい本だったなあ、という感覚意外に思い出せることはひとつもなかった。

「それで、妻はあなたとどういう契約を交わしたのでしょうか。」

 吉岡さんが尋ねると、悪魔は少しの間押し黙った。悪魔の顔は硬い仮面で覆われていたからその表情を伺うことはできなかったが、どんな状況でも沈黙というのはあまりポジティブな意味を持たないということを吉岡さんは経験上知っていた。伊達に社会人を十五年以上続けているわけではない。悪魔はしばらくもったいぶっていたが、ややあって口を開いた。

「悪魔は人間の願いを一つ叶えることができるが、その代わりにその人の一番大切なものを貰っていく。それはあんたも知ってるね?」

「はい。」

「なあ吉岡さん、私は悪魔の中ではわりかし心が優しい方なんだ。だからあんたにこんなことを言うのは気が進まないんだけど。」

「はあ。」

「まあでも、単刀直入に言おう。あんたの奥さんが私に差し出したのは、あんたの命だ。」

 吉岡さんはヒュッと喉を鳴らした。

「奥さんは子供が欲しいと願った。そしてその代わりに、あんたを差し出したというわけだ。」

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