第4話
思い返せば、二年前からの奥さんとの日々はどこか物悲しく、作り物のような緊張感があった。ずっとそのことに気づかないふりをしていたんだな、と吉岡さんは振り返ってみて思った。奥さんと二人、上手くやっているような気がしていた。我々は悲しみを乗り越え、支え合って生きているはずだった。しかしそう思っていたのは吉岡さんだけだったのかもしれない。
悪魔が気を使って出て行った後、シンと静まり返った部屋の空気は体に突き刺さるほど鋭く尖って感じられた。これなら一人にしてくれない方がよかった、と吉岡さんは思った。冷たく重たい空気に押しつぶされながら、彼の体はだんだんと震えてきた。まもなく自分は死ぬ。何よりもその恐怖が、毎秒ごとに膨らんで吉岡さんを支配していく。紙とペンを前にして、彼はまだ何も書けずにいた。この恐怖の中で、頭を動かして考えをまとめる気力が吉岡さんにはなかった。吉岡さんはしばらく粘ったが、やがて書くのを諦めることにした。
この状況は奥さんが自分を裏切ったということなのだろうか。四方八方に散らばる思考の中に、吉岡さんはぼんやりとそんな疑問を見つけた。最後に奥さんの顔を見たのは今朝、家を出る時だった。彼女は台所で洗い物をしていた。行ってきます、と呼びかけるとちょっと振り向いていってらっしゃい、と言った。なんの変哲もない朝だった。あの時、奥さんがどんな顔をしていたのか吉岡さんは思い出せない。どうして覚えていないんだろう。いつからそういうところを見なくなってしまったのだろう。彼女はその晩吉岡さんが死ぬことを知っていたのだろうか。あれが最後になると、わかっていたのだろうか。
吉岡さんは何も気づかなかった。奥さんがあんな契約を結んでいたことも。そこまでして子供を取り返したいと思っていたことも。夫婦二人の生活はスムーズに回っているように思えた。毎日一緒に晩御飯を食べたし、毎晩同じベッドで寝た。手をつないで散歩し、他愛もない会話を繰り返した。大切なものを失った悲しみは消えないが、それを抱えながらこの先も生きていくのだろうと思っていた。二人で。ずっと二人で。それ以上何も望まない。しかしそれは、奥さんにとっては綺麗事だったらしい。
絶望の中で死んでいくのだ。享年四十、俺の人生は結局何だったんだろう。吉岡さんは自分の人生をなるだけ客観的に振り返ってみようと思ったが、考えれば考えるほどそれはロクでもない、虚しい一生に思えた。みんなが彼をすり抜けていった。信頼していた妻もまた、最後には彼を捨てた。今、彼の手元には何も残っていなかった。吉岡さんは諦めることに慣れていたが、今回ばかりは胸が張り裂けそうなくらい辛かった。悲しくて、悔しくて、すべてが憎かった。こんなことになるなら何もしなければよかったのだ、と思った。結婚しなければよかった。子供を作らなければよかった。希望を持ったから絶望が返ってきた。吉岡さんはすべてを後悔した。何もかも、なかったことにしてしまいたかった。
「吉岡さん、桜が咲いてるよ。」
もし悪魔がそう教えてくれなければ、吉岡さんは本当に苦しみながら死んでいったことだろう。
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