第6話

「俺、すぐ諦めちゃうからさ。」

 いつか、夫がそんなことを言った。

 話の流れは覚えていないが、その言葉だけはくっきりと頭に残っている。人に対して怒れなかったり、強く要求できなかったりする自分自身について、彼はそういう風に表現したのだ。あの時、私は何て返したんだっけ。大したことは言わなかった気がする。それが今では悔やまれる。私はあの人を死に追いやることになったけど、せめて生きているうちに教えてあげればよかったのだ。あなたは、諦めているわけじゃないよ、と。

 先ほど悪魔がやってきて差し出したメモを、奥さんは改めて見返した。悪魔は紙切れを渡すとすぐに帰ってしまったのだが、出て行く直前にこんなことを言っていた。

「私は、吉岡さんのことが上手く理解できないよ。あんなに潔く自分を捨てられる男のことなんて、想像もできない。ただ、周囲から理解されるとか共感されるとかって、彼にとってはどうでもよかったんだろうな。吉岡さんの人生は吉岡さんのものだったんだから。あの人、なんだか幸せそうな顔して死んでいったよ。」

 丁寧な筆跡は、吉岡さんの生きざまそのものだった。奥さんはそれを見て、心をかき乱されないわけにはいかなかった。しかし彼女はそれを決して表に出さないよう努めた。私には感動する資格も、泣く資格もない。事態を招いたのは私なのだから。夫は私のせいで死んだのだ。そう思いながらも、彼女は先ほどから手元のメモを何度も読み返していた。

『幸せにしてくれてありがとう。』

 吉岡さんは、優しい。

 彼は諦める人ではなく、許してくれる人だったのだ。どんな理不尽な目にあっても、吉岡さんは最後は人を許す。奥さんは彼のそんなところが好きだった。自分を犠牲にすることを厭わず、そしてそんな自分自身の優しさに気づくこともなく、いつも背中を丸めておとなしくしている彼が好きだった。奥さんはいつもその優しさに甘えていた。甘えすぎて、いつからか彼の存在を蔑ろにするようになっていた。彼女はいつの間にか、取り返しのつかないところまで来た。吉岡さんはもういない。もう後には戻れない。奥さんは大きなお腹をゆっくりとさすった。この先は、この子と二人で進んでいくしかないのだ。

 奥さんは窓際に置いた安楽椅子に座っていた。彼女は紙切れをポケットにしまうと、膝の上に置いていた毛糸を取り上げ、編み物の続きを再開した。毛糸は水色とクリーム色。生まれてくる赤ちゃんの靴下を作っているのだ。奥さんは器用に編針を動かし、美しい模様の入った生地を作り上げていく。午後の柔らかな日差しが部屋の中に降り注ぎ、まるでベールの様に彼女の体を包んだ。それは吉岡さんがもう一度見たいと願い、しかし見ることができなかったあの景色だった。外からは子供たちが遊んでいる声が聞こえてくる。どこからか、鳥の鳴き声も聞こえる。時間はやけにゆっくりと感じられたが、それでも確実に過ぎ去っていく。何気ない一日は、終わりに向かって進んでいった。そしてまた新しい朝を迎える。

 桜はポツポツと咲き始めていた。ぱんぱんに膨らんだ柔らかなつぼみがすべて開き、視界いっぱいに薄ピンク色の花びらが広がる日を、奥さんは心待ちにしている。街中に新しい生命のエネルギーが溢れ、人々が花を見上げながら幸福そうに歩くその頃、彼女はこの世で最も愛おしい産声を聞くことになるだろう。

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悪魔と妻と吉岡さん 得能かほ @KahoTokuno

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