あとがき

 江戸時代になると武家や商人だけでなく多くの庶民も旅に出るようになった。しかし社会の底辺で暮らす人々の旅の記録はあまり残されていない。特に女性の旅の記録は非常に少ない。旅を記録するにはそれなりの教養を必要とする。庶民にとって旅日記を書くという行為は相当難易度が高かったのだろう。


 そんな希少な女性の旅の記録のひとつに「知井宮本郷女五人連れ西国順礼書付け写し」という古文書がある。これは出雲から西国巡礼に出た五人の女が伊勢で仲間の一人を病死させて帰村したため、その死に疑義ありとして村役人の取り調べを受けた際の吟味口上書である。現代風に言うなら供述調書のようなものであろうか。


 この口上書の現代語訳が山陰中央新報社刊、藤沢秀晴著「ふるさと文庫10歴史の中の旅人たち―山陰の街道を往く―」に収録されている。この小説はその記述を基に創作したものである。

 その記述を基にと言っても、口上書の大部分はトメの死に関するもので出雲から伊勢に至る旅についての記述は非常に少ない。以下がその部分の記述である。



 私どもは三月二日に宿元を出立いたしました。御存知のとおり、いずれも暮らしに難渋する小身者でございます。路銀とてもございません。ただ道々ご報謝を頼りに旅を重ねるほかはなかったのでございます。

 伯州米子から北路を通り、因幡、但馬の国を経て、三月十七日丹後国天の橋立につきました。

 成相寺に参詣してのち、若狭、近江国の札所、札所を巡礼して、四月一日美濃国の西国三十番の観音様の善福寺へ参ったのでございます。

 都へは立ち寄らなかったか、と仰せでございますか。何の路銀も所持せぬ私たちのことでございます。花の都などは、所詮はじめから縁のないところ、と考えに入れてはおりませんでした。

 伊勢路へ向かいまして四月八日に参宮いたしました。翌九日すぐに伊勢山田を出立し、熊野路をめざして伊勢国多気郡焼飯村と申すところにつきましたのは、四月十日のことでございます。


   藤沢秀晴著「歴史の中の旅人たち―山陰の街道を往く―(ふるさと文庫10)」九八頁から抜粋



 できるだけこの記述に沿ってストーリーを組み立てたのだが、いくつか改変を行った。彼女たちは最初から都の札所へは寄らないと決めていたようだが、そうなると巡礼ではなく物見遊山の旅という印象が強くなってしまうので、小説中では旅の途中でそれを決めたことにした。


 成相寺までのルートだが、「伯州米子から北路を通り」とあるので、恐らく鳥取岩美を出た後も海沿いの道を通って寺へ向かったのだと思う。それを「山陰街道からなりあい道」というルートに変更したのは、そちらのほうが資料が豊富で書きやすかったから、という作者の都合によるものである。何卒ご容赦いただきたい。


「美濃国の西国三十番の観音様の善福寺へ参った」という部分は謎である。美濃の札所は華厳寺だし、三十番札所は宝厳寺だ。そして善福寺は美濃三十三観音霊場の三十番札所であって西国巡礼の札所ではない。

 どうしてこんな勘違いをしたのだろうとあれこれ考えてみたのだが、彼女たちはほとんど予備知識なしで旅に出たのではないだろうか。寺の名前も場所も番号も知らず、行く先々で地元の人や巡礼者に尋ねながら札所を回り、美濃でも同様に尋ねたところ、聞かれた人が美濃観音霊場の札所と勘違いしたのか、あるいは美濃観音霊場の巡礼者と同行してしまったのか、とにかくそんな理由で間違った寺へ行ってしまった、というようなことを考えてみた。

 本来の三十番である宝厳寺へ行くには船に乗る必要があるので、都の札所と同じく最初から行く気がなかったのかもしれない。小説ではスケの待ち合わせ場所として善福寺を唐突に登場させてしまった。違和感を抱かれた方がいるかもしれない。お詫びする。ちなみに美濃三十三観音霊場は令和二年に見直しが行われ、現在の三十番札所は善福寺ではなく観音院である。


 トメの終焉の地となった焼飯村の現在の地名は三重県多気郡大台町弥起井である。トメの最期についても改変を行っている。小説ではトメだけ病にかからなかったが、実際には五人全員麻疹に感染している。最初にソメ。次がキミ。四月十七日にトメが発病し、フユ、マツがそれに続いた。トメの最期については次のように記述されている。



 一行五人のうち、四人の病いは快方に向かいましたのに、ただ一人、とめだけはどうもはかばかしくございませんでした。

 大体に下地から病身でもございましたし、麻疹も特に重かったようで、病みつきから食事がさっぱり喉を通りません。難儀するうち五月五日の夕方から腹痛まで加わりましたので、医者殿もさっそくおいで下さり、薬など呑ませてくださいましたが、結局療治に叶いませんでした。

 六日昼まえに、とうとう相果てたのでございます。さてもさても、残念至極で、旅の空のこと、まして私どもも皆んな病後の身とて、わが身の扱いも満足にできぬほどの折から、ほとほと途方にくれて、ただ死骸にとりすがって泣くばかりでございました。


   藤沢秀晴著「歴史の中の旅人たち―山陰の街道を往く―(ふるさと文庫10)」一〇〇頁から抜粋



 これを読むと麻疹で亡くなったというより、麻疹によって持病の腹病が悪化して亡くなったように思われる。旅のリーダーだったトメを失くして四人はさぞかし心細かったことだろう。


 口上書には娘四人の他にトメの兄茂助の口上も記載されている。死なせてしまった側だけでなく、死なれてしまった側の言い分も聞かねば公平な吟味は行えないという判断によるものだろう。

 その中で茂助は「私儀、旦那寺は胎泉寺でございます」と述べている。そこで著者の藤沢氏はわざわざ神沖西町にある胎泉寺に出向き、トメの過去帳を見せてもらっている。次のように記載されていたようだ。



 妙覚 同(五月)六日  知井宮本郷 孫兵衛跡 茂助 妹

                         スカ事

 此者、西国ニ出、伊勢通辺ニテ死去

 先方ヨリ法名送リ来ル、別記ニアリ


   藤沢秀晴著「歴史の中の旅人たち―山陰の街道を往く―(ふるさと文庫10)」一〇七頁から抜粋



「妙覚」が焼飯村の養国寺で授かったトメの法名だ。菩薩とは如来になるべく修行を積む者のことなのだが、その修行の最高位を妙覚という。観音菩薩霊場の巡礼途上で命を落としたトメを思ってこの法名をつけてくれたのだろう。

 スカ事とあるが、明治になるまでは呼び名と本名は異なることが多かったので、スカ(あるいはスガ)がトメの本名だったのだろうと藤沢氏は推測している。


 この小説はトメの死で終わったが、実はハッピーエンドのストーリーも考えてはいた。観音像の力を四人に使ってもトメは死なず、虫の息ではあるが命を保ち続けていた。そこで四人は自らの極楽往生ではなくトメの救済を祈願しながら残りの札所を回るのである。そして満願成就に至ったとき、観音像は二つに割れ、トメは全ての宿命から解放されて、四人と共に村へ戻り、その後は茂助家族と穏やかな日々を過ごして天寿を全うする、というものだ。

 しかしトメの死がなければ五人の巡礼の物語が今日まで残ることはなく、歴史の中に埋もれてしまったであろうことを考えると、やはりこの物語にトメの死は不可欠であろうと思い直しこのような作品となった。バッドエンドに不満な読者もお見えかもしれないが、何卒ご理解いただきたい。


 路銀は持たず車も鉄道もない、ただ徒歩だけに頼る二百年前の旅。さぞかし過酷なものだったのだろう。しかし小説中ではそのような描写はなるべく避け、温泉に入ったり、郷土料理を食べたり、見世物を楽しんだりと、お叱りを受けそうなくらい五人を甘やかした。これはせめて小説の中では彼女たちに楽しい思いをさせてやりたいという作者の親心である。大目に見ていただければ幸いである。









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娘五人連れ西国巡礼 沢田和早 @123456789

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