第4話 うたた寝

 バブルの絶頂期に、一度マイホームの購入を思い立ったことがある。バブル崩壊を誰もが全く予想していなかったので、購入費は高くても何とか支払いの算段は出来ると誰もが考えていた。


 ちょうどその頃、田舎の父が体調を崩し長期入院、そして他界と、関東と九州を往復する日が暫く続き、マイホームの購入計画が延び延びとなっていた矢先バブル社会はあれよあれよという間に崩壊してしまった。

 そして土地神話はあっさりと崩れ去り、瞬く間にバブル絶頂期の半値近くで一個建て住宅を購入することが出来た。


 田舎の敷地と比較するととても比べ物にはならない広さだが、土地面積は七十坪と、この付近では決して狭くはない。曲りなりにも小さな庭と駐車場も敷地内に作ることができた。


 私は駐車場に車を入れ、エンジンを切った。


「もう、着いたの?」

 眠り込んでいた娘は、寝ぼけ眼を擦り乍ら大きく欠伸(あくび)した。


 自分の身体の変調は更に進んできている様な気がする。以前ちょっと気になっていた体毛の増加である。その夜一緒にベッドに入った妻から、

「貴方少し毛深くならなかった?」

と聞かれた。

「気のせいだよ 」

と答えながらも、自分の思い過ごしだけではないことを突きつけられて、私は愕然(がくぜん)としていた。



 私は、庭に面した縁先に寝転がって縁側から見える遠い空を眺めていた。

 建売住宅を購入する時、庭付きで小さくても縁側のある家というのが私が提示した唯一の条件であった。


 昨日行ったディズニーランドの疲れは完全には取れてはいなかった。

 仕事や付き合いで殆んどの時間を費やしてきた為、何も予定がない休日の時間の過ごし方が分からない。昼間から缶ビールを飲んで、うつらうつらしていた。


 西から南にかけての空には真夏の入道雲が力強く成長し始めていた。夏の青空にくっきりとした白の積乱雲が青い夏の空の背景に映えていた。


“ 到底自分にはこんなリアルな絵は描けそうにないな ”


 眠りに誘われる少し手前で、意識が遠のいていく瞬間のスーッと穴の中に落ちていくような感覚が何故かたまらなく幸せに覚えた。


 ふと、生暖かい湿った空気の流れを感じた後、空は一面に真っ黒な雲を急速に拡大させつつあった。

 あれほど、白くて美しかった積乱雲は、今は見る影もないようなどす黒い悪魔の容姿へと変貌を遂げていた。


 生まれたばかりの彼は白く清潔で、他の何者の干渉すら寄せ付けないような自己主張を示していたような気がする。私がちょっと転寝(うたたね)している内に彼の心の中ではどんな変化が生じたのであろうか。


 少なくとも今の彼は心の中に途方もない闇を包含している様な気がする。誰からも好かれる姿を捨て、憎まれる容姿に変貌させてまで彼は、何故空全体の支配者となる馬鹿げた野望を持ってしまったのだろうか。


 若い彼は、自分の野望の行き着く先を恐らく知らなかったのかもしれない。自分が空の覇者となった次に来る滅びの運命について迄は考えが及ばなかったかもしれない。いや、無理に考えることをしなかっただけであろう。


 南の空の闇を引き裂くように黄色味を帯びた白紫色の稲妻が走る。怒りなのか慟哭(どうこく)なのか、唸りにも似た声が遠くから聞こえてくる。もう恐らく、空の大部分が彼の権力に侵食されてしまっていることであろう。


 大粒の雨が庭木を叩き始める。雨礫(あまつぶて)に蹂躙された木々が少し屈んで腰を落としたように見えた。


 “ 彼は自分の持っている限りないその力を我々に認識してもらいたいのだろうか ”


 “ 思いの限りの蹂躙を尽くした後に来るのは、今度は己の存在が地球上から完全に消滅してしまうということを何回も何回も繰り返してきて嫌というほど知り尽くしているはずなのに ”


 “ 彼は何故そういう選択をしてしまうのであろうか。あるいはその選択しかできない様に作られているのであろうか ”


 時折睡魔に引き寄せられそうな意識の中で、私はその様な愚につかないことを考えていた。


 彼の威嚇(いかく)とも見える光線や唸り声は自暴自棄な迄のレベルに達していた。もう彼の心の中には彼が生まれたての頃に持っていた純粋な心は微塵も残されていないようである。

 あるいは、もう既に彼は自分の野望の行き着く先を知り始めているのかもしれない。


 切れ切れになっても辛うじて残っている彼の中の純粋であった頃のDNAが、自分の無知さ故に引き起こしてしまった罪を懺悔(ざんげ)している様にも思える。

 心の中の闇とDNAとの葛藤がやがて終焉(しゅうえん)を迎えた時、空一面を覆っていた暗黒の雲は尽(ことごと)く拭い払われてしまった。


 先ほどまで雨礫に蹂躙されていた観葉植物の濃い緑の葉が明るい日差しに以前にも増した生命力で光り輝いた。

 雨に濡れた木々や所々に残っている水溜りが、彼がかつて黒い野望を遂げてしまった名残を示していた。

 しかしそれさえも、明日になれば何事も起こらなかったように忘れ去られてしまうのは確実である。


 思考が殆んど停滞した自分の脳の中で、夕立が通過したと共に取り止めのない自分の考えは意識の中から急速に拭い去られて行ってしまった。


 “これでゆっくり眠れる ”

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