第3話 診察結果

朝のコーヒーを入れながら妻は、

  “そんなに、酔っ払っては

  いなかった様に見えたけど?”

と低い声でそう言った。


「 疲れていた筈なのに、何故か寝付かれずに参ったよ 」


 朝の何の変哲もない何処ででも交わされているような単純な夫婦の会話である。


 洗面台に向かい寝不足の顔を見る。折りしも、昇り始めた太陽の光がカーテンの隙間を潜り抜け部屋の中に入ってきた。鏡に映っている自分の瞳が突然一瞬の間だったが、ルビーの様に赤く光った気がした。だが暫くじっと見てみると、いつもと同じ黒い瞳の色をしていた。


 光線の具合か、何かの錯覚だったと自分に言い聞かせ、私はいつもの様に歯を磨き、顔を洗い出勤の準備に取り掛かった。


 ここ数日、感じている体調と精神の変化はその後も少しずつ大きくなっているような気もするが、それを証拠づける程の具体的な変化は未だ見られていない。

 いずれにしても、明後日の血液検査の結果で何かわかるかもしれない。そうすれば、心に引っかかっている幾つかの危惧も取り越し苦労に変わるはずである。

 否、そうでなければならない。


 眠い!そして頭の中には重い雲が立ち込め、そのどんよりとした不快な感覚は、今日も昨日と同じ様にまだ続いている。

 今迄、会社にいて仕事中に眠気を感じたことなど一度もなかったのに、ここ数日ずっとそれが続いている。夜眠れないから昼間眠たくなるのは当たり前のことだが、何か別の重大な理由が潜んでいるのかも知れない。

 しかし今の自分の濁った思考では幾ら考えてもその答えを見出すことは出来る筈も無かった。


 翌日、私は検査の結果を聞く為、クリニックのドアを通り抜け診察室の回転椅子に座っていた。


 医師は血液検査の結果表を見ながら言った。

「血液検査の結果から見る限り、全く何の問題ありませんね。寧ろ私より健康そうですね 」

・・・・・・・!

「やはり、仕事の疲れが溜まって、少し精神的に過敏になっているのが原因ではないのでしょうかね 」

 その医師はそう笑いながら、軽い精神安定剤を処方してくれた。


「この薬は、眠れない時に飲んでも良いでしょうか 」

という私の問いかけに医者は、

「睡眠薬じゃありませんので飲んですぐに眠れるようになるということはありませんが、気分が落ち着くので眠り易くなるとは思いますよ 」

と答えた。


 正直、私はその検査結果に失望していた。検査結果に何か問題があって欲しかった。そうすれば、それを治療することで現状の得体の知れない不安感から抜け出せるだろうという藁にもすがる様な希望を持っていた。


 私は落胆を抑えきれないまま家路に着いた。明日と明後日は、珍しく何も予定が入っていない。久し振りに家族サービスするのも悪くないと、ディズニーランドへ行くことを思い立った。


 最近少し父親離れを始めた娘ではあるが、やはり小学六年生。ディズニーランドへの誘惑は大きいと見え、妻も含め何時になく華やいだ食卓となった。

 自分の身体の不調については未だ家族には何も言っていない。勿論、クリニックに行ったことも話していない。


 兎に角、明日は家族が満足行くまでとことん付き合う覚悟を決めてベットに潜り込んだ。

 寝がけに睡眠薬代わりにと飲んだブランデーとクリニックから貰った精神安定剤の相乗効果が現れたとみえ、その夜はいつになくぐっすりと眠ることができた。

 むしろ、久しぶりの明日の遠出に興奮気味であった妻と娘の方が睡眠不足になっているようである。


 休日の日に家族とドライブが出来るという、ほんの少し努力すれば実現出来る普通の幸せを、自分は何とか理由をつけて蔑(ないがし)ろにしてきた様な気がする。

 人並みか或いは人並みよりちょっとだけ多めの幸福感を得るためには、ほんの少しだけ努力すれば可能になるのに、私は自分に都合の良い色々な言い訳を見つけては避けてきたようだ。


 少し寝不足とはいえ、妻も娘もその朝の瞳は生き生きと輝いている。私は、その笑顔を見て、仕事と家族の何方が自分にとって重要なのかをその時明確に感じていた。


 これまでは、 

 “ 仕事と比較できるものではない ” と天秤にかけることさえしないで来た。 

 

 仕事に打ち込むのが家庭を守ることだと信じようとしていたのだと思う。仕事上での挫折感はこれまでの処、特に思い当たるふしはない。むしろ絶好調だと思える。

 さすがに、年相応に精神的にも肉体的にも一種の老化に近い現象が生じ始めているのは否定できない。



 朝早く出たせいか、ディズニーランドへの道は余り混んではいなかった。ほぼ予定通りの時間に到着し、殆んど待つこともなく入園することも出来た。家族揃ってここに来るのはこれが二度目である。


 私は、今日一日がとても長くなるのを予感したものの、決してそれは不快なものでは無かった。こういう平凡で幸せな日がずっと終わらなければ良いとも思う。いずれ、娘は出て行くし、やがては私と妻の何方かが先に死に、最後は誰か一人が残されてしまう。


 やはり最後に残される者は少し辛い気がする。

 そんな取り止めもないことを考えながら、今日一日が何時までも終わらないでくれたらと願う。


 それでも時間は世界の人々や生物の全てに平等に過ぎていく。やがて、一日の終わりの最大のイベント、カウントダウンが始まる。確か前回家族で来た時には娘が疲れて途中で寝てしまい、背負ってそのまま家に帰った記憶が残っている。


 夜空に舞い上がる大玉の花火を背景に、娘と妻の顔が何時になく華やいで見えるのは気のせいではないと実感する。

 娘の黒い瞳に花火が映し出されている。花火も綺麗だが、何かに取り憑(つ)かれているような妻や娘の横顔も妖しく美しい。


 帰りの車の中、それまで生き生きとしていた妻と娘は死んだように眠っている。

 こんな何の変哲もない平凡であるが平和な一日が、いかに家族にとって重要なものであるかを証明している様な安らかな寝顔である。


「御免なさい。余りはしゃぎ過ぎて、疲れて眠ってしまっていたみたい。運転変わらなくて、大丈夫?」


「あと、三十分もすれば家に着くから、、、」

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