第2話 クリニック

 通勤電車に乗った途端に睡魔が襲って来る。今日は昨日よりも更に酷く、乗り過ごしそうになり慌てて電車を降りる。眠っている時にかいた汗も昨日より少し多い様な気がする。

 “ 夏だからしょうがない ”

と無理に自分を納得させる。


 会社に着いても、まだ完全に覚醒し切っていないのか、虚ろな気分で少しフワフワと足が地に付かない感覚がある。こうなると嫌でも体調の不良を自覚せざるを得な状況に陥っていた。


 部下からの朝の定時報告では、特に緊急で処理しなければならない案件はなかった。私はついに決心がつき最上階にあるクリニックを訪問した。幸い診察受けに来ている人は少なく、殆ど待たされる事なく自分の順番が回ってきた。


 問診の際に、自分の身体に関して感じている不自然さについて医師と会話した。医師の診断の混乱を避ける為に、抽象的に感じている異変については出来る限り言わないようにと努める。

 具体的に感じている部分に絞って話し始めたが、しかし自分が感じている変化について何一つ具体的な表現が出来ない事に気が付いた。

 つまり、今自分が知覚している異変については、その全部を抽象的にしか感じ取っていないことがわかった。


「少し疲れが溜まっているようですね!」

・・・・・・・!

「念のために血液検査だけはやっておきましょう。検査の結果が出る三日後にまた来診して下さい 」

と医師はそれだけを告げると、次の患者の名前を呼んだ。


 私は、看護士に導かれるまま処置室行き、検査の為の採血を行った。

 若い看護士の白い手が私のシャツを捲り上げ、そして腕を掴む。上腕部をゴムチューブで縛り、静脈血管に注射針を刺す。チクッとする痛みと共に、消毒液と香水の混じった蠱惑(こわく)的でそれでいて何処か頽廃(たいはい)的な匂いが鼻腔をかすめる。


“ ドクン ”


と、昨日女子社員に感じた感覚と同じ、暴虐的な衝動が体の芯を通って突き上げて抜けて行った。

 それでも未だ身体の中に残っていた感覚の残滓(ざんし)は身体の奥から痺れに似た快感を拡散し、身体中の毛穴を通り身体の外に溢れ出している様な気がした。


 その瞬間私は、無性に彼女の首筋にむしゃぶりつきたい様な衝動が湧いてきた。

私の目は、彼女の白い首筋に釘付けとなる。


  “ 終わりましたよ ”


という看護士の声で我に帰り、自分の身体の中で生じた衝動を幻覚だと否定しながら慌てて診察室を出た。

 あたかも自分の心の中が相手から見透かされてしまった時のようなバツの悪さを伴っていたからだ。


 今日は、お得意さんとの晩御飯接待が予定されている。

 会社に戻りデスクに腰を下ろすと、再び頭の中に鉛でも流し込まれた様に思考にどんよりとした雲が掛かり再び眠気が襲そってくる。

 “ やはり、自分の身体はどうにかなってしまっているのかもしれない ”

 “ 医師が言うように、疲れが溜まっているだけなら良いのだが ”


 頭の中を過ぎる幾つかの不安を、鈍くなった思考で無理やりに追い払う。何れにせよ、三日後には検査の結果が出る。それ迄はくよくよ考えても仕方が無いのだと自分に言い聞かせて襲いくる不安を無理に押さえつける。



 今夜の接待客は、なかなか帰ろうとしない。一次会の食事の席上で、もう既に二次会へのモーションをかけ始めている。今日中にはとても帰れそうにない。つい最近までそんな状況をむしろ自分自身が楽しんでいたし、時としては自分から誘い水をかけた事も少なくなかった。

 しかし、今晩に限っては、それがとても苦痛に感じられる。


 四十歳を迎え、体力的にも精神力的にもレベルの低下傾向が見られ始めているのだろうか?


 二次会のクラブで飲み始める頃には、自分が少し酔っている事が自分でも自覚できる程度の中程度の酔いのつもりであった。本当は最とひどく酔っていたのかもしれない。

 私は酔いに任せ、冗談とも本気ともつかないような口ぶりで、今日、看護士に感じた、彼女の白いうなじに感じた暴力的な衝動のことを話した。

 隣に座っていたホステスの弥生は、

「私の首筋ではどう?」

と彼女のうなじがはっきりと私に見えるように首筋を見せてきた。


   “ ドクン” 

 突然に身体の芯から突き上げて来る衝撃的な快感。

 酔いで感覚が鈍くなっているにも拘らず、鮮烈で暴力的な衝動が私の肉体の中心から理性を押しのけて顔を現す。


 一瞬の出来事であった。私は少し伸び上がって弥生のうなじを軽く噛んでいた。


 不意を突かれたという事もあって、暫くは何が起こったのか自覚できないでいた弥生だが、 “ あっ ” と小さな声を上げると全身を硬直させてしまった。

 彼女の目は焦点が合っていなかった。少し荒くなった彼女の息遣いが耳元に聞こえて来る。直ぐに弥生の呼吸は正常に戻り、焦点も次第に定まってきた。

 

 その間、弥生は生まれて未だ経験したことのない不思議な感覚に囚われていたらしい。地中深く迄掘られた深い闇のトンネルの中を何処までもゆっくりとゆっくりと落ちて行く様なそんな感覚、それは不快な感覚とは程遠く、何時までもずっとそのまま落ちていたい様な、元の世界には戻りたくない自虐的な快感であったと不思議そうな顔をしてした。


 私は、

「今の時代、バンパイヤーでもあるまいに!」

と訳のわからない言い訳をしていた。


 酔っているたは云え発作的に引き起こしてしまった自分の軽率が齎(もたら)した衝動の事実をまずは自分自身が消化し切れないでいた。

 私は、

「もう遅いし、明日も仕事ですのでそろそろ帰りましょうか?」

と接待の相手に声をかけた。


 一刻も早くその場所から消え去りたい衝動に駆られていた。

 私は、逃げるように電車に飛び乗り、電車を乗り継ぎ家に帰り着いた頃には、酒の酔いはすっかり覚めて、急速に身体が軽くなってきたような気がした。

 気分が爽快になって来るのは良い事であるが、また眠れない夜を過ごさなければならないかもしれないと考えると、今度は気分が滅入り始める。


 昨晩と同じ様に明け方近くにやっと深い眠りに落ち、今朝も又妻に揺り起こされる迄全く気がつかなかった。

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