夏のはざま

はたせゆきと

第1話 朝の目覚め

 朝いつもの通りに眼が覚めた。そのつもりだった。

 今感じているこの違和感は一体何んだろうか。これといって明確に何が違うのかは、良く分からない。少し関節がこわばり、皮膚も何時もより分厚くなった様にごわごわした印象を覚える。


 そう云えばリウマチや膠原病(こうげんびょう)の様な難病では似た様な症状になると聞いたことがあるが、もしかしたらそう言う悪い病気にでもなってしまったのかもしれないと少し不安が過(よ)ぎる。


 漠然とした得体の知れない不安は感じたものの、昨晩の接待で調子を上げ過ぎた為、きっと二日酔いのせいだろうと無理に自分を納得させ、朝の出勤の準備に取りかかった。


 今朝の朝食に摂ったソーセージは実に美味(おいし)かったが、付け合せのサラダには何故か吐き気を覚えた。二日酔いだと、ソーセージの方が鼻につきそうな気もすると自分の結論に矛盾を感じたものの、折からのテレビニュースで流れてきた何処(どこ)ぞのテロ事件のショッキングな映像に目を奪われてしまい、そのまま自分の身に起こっている幾つかの不自然さを無理に忘れることにした。


 私は、いつものようにカバンを持って朝の通勤ラッシュの中へと潜り込んで行った。


 結婚して十年経った三年前、私は一大決心の末、マイホームを購入することにした。 都心の職場までは三回電車を乗り継ぎで合計二時間を必要とする新興住宅街の中に我が家はある。それでも都心から数十キロも離れていることもあって、この付近には未だ自然が所々に残されており、時には鳥のさえずりで目を覚ますこともあるし、夜になると蛙や虫の泣き声も聞こえてくる。

 そういう意味では、十分に幸せなのかもしれない。


 電車の心地よい振動に任せ、私は少し微睡(まどろみ)始めてしまった。額から吹き出した不自然な汗と共に眼が覚めた。確かに何か夢を見ていたような気もするが、それがどの様な夢だったかははっきりとはしないまま、私は何時もと変わらない満員電車の中にいた。

 私の目の前に娘より一つか二つ位年上の女子中学生が、折からかけられたブレーキにより雪崩れてきた暴力的な重力に、額に少ししわを寄せて苦痛の表情を現した。


 来年になると、娘もこの電車に乗って学校に通うことになるであろう。


 “ 自分は、一体何がしたくて、この様な理不尽な場所にいつまでも留まっているのだろうか?”


 “ 家族や自分を犠牲にしてまで、此の場所に留まらなければならない理由は何処(どこ)にあるのだろうか?”


 そう言えば、此処二~三ヶ月、娘とはまともに話をしたことがない。

 朝は私より遅く、夜は夜で私が帰る頃にはもう自分の部屋に閉じ篭っている。

 休日になると、私は休日出勤や接待ゴルフに出かけ、娘は部活で忙しく、また妻ともゆっくり話す機会も少ない。


 この様な状況になってしまったのは、いつ以来かなと考えてみるが、漠としてはっきりとは思い出せない。


 “ こんなので、本当に家族と言えるのか?”

 “ 田舎に帰った方が、最と家族的な生活を送れたのではないだろうか? ”


 此処に引っ越して来てから、時々フワーッと頭の中をよぎる一抹の後悔を私は不自然な額の汗と共に拭い去った。


 その日の私は、会社に出勤してからも未だ頭がボーとして冴えず、周囲で話している内容も何処かの知らない外国語を聞いているかの様に、脳の表面をひと周りして通り過ぎるだけで、心の奥迄は浸透して来ない。


 それでいながら、日頃は何も感じない女子社員から漂って来る香水の香りにある種の暴虐的な破壊衝動を感じていた。


 “ 自分の中で、何かが変化し始めている ”


 トイレを済ませ手を洗った時に、こすり合わせた手の甲や指から脛毛の様なジャリジャリとした感触が伝わって、体毛が何時もより少し濃くなったような印象を受けた。

 そればかりでは無かった。水に手が濡れることそれ自体に、私は今迄には身に覚えの無いある種の嫌悪感を覚えた。


 私は自分のデスクに戻ると朝目覚めてから感じている幾つかの身体の異変をもう一度最初からお浚(さら)いしてみることにした。


「課長、○○菱商事から電話が入っています 」


 昨日、商談が成立して一緒に食事した接待相手である。義理堅く昨晩の食事の御礼の電話であった。私は、少しの間世間話を挟んだ後電話を切った。その時には既に先程迄に感じていた自分の身体の異変については、もうすっかり忘れ去ってしまっていた。


 再び、女子社員から漂ってくる香水の香りは私の鼻腔から忍び込み、身体を突き抜けて行った。それは電車の中で感じた感覚とは比べ物にならない程強く、ゾクゾクとする衝動であった。


 “ これも自分が感じている身体の体調異変と関連しているのであろうか?”


 今日は、珍しく夜のスケジュールは何も入っていなかった。久し振りに早く帰って、朝起きた時から折に触れて感じている身体の異変についてもう少しゆっくり考えてみるのも悪くはないかもしれないと呟いた。


 こんな早い時間に食事を家族と一緒にすることは珍しい。娘は来年から私立の中学に通いたいと言っている。


 今朝、満員電車の中で見た女子中学生が圧倒的な重力に屈してしまった苦痛に歪んだ顔が一瞬脳裏に浮かんで来た。


 娘が私立の中学に通うことについて私は、特に肯定も否定もしなかった。娘の進学に決して無関心という訳ではない。むしろ、娘の将来を考えるとそれなりの学校に行って貰いたいと思っているのだが、妻と娘とが出した結論に特に異論を唱えるつもりはなかった。


 そう言う気持ちで口を挟まなかったが、私から否定されなかったことで、二人は益々饒舌(じょうぜつ)になっていく。積極的という訳ではないが、進学というテーマに対して少なくとも仲間外れにはされない環境に私自身は満足していた。


「サラダは食べないの?」

という妻の問いに、自分でも戸惑いを覚えていた。今迄は、好んで野菜を多く摂っていたはずなのに、今晩は何故か全く手が付かなかった。と言うよりその野菜サラダは自分の視界の中には最初から入っていなかった様な気がする。


 かといって、妻の言葉に気付かされたからといって食べる気にはならず、どうか早く片付けて欲しいという気持ちの方が非常に強かった。


 私は家族揃っての夕食が終わると、グラスにウイスキーを注ぎ野球中継を見ながら、いつもより早く家に帰って来たことに感謝する。家族の些々(ささ)やかな幸せなんてものは、本当は身近に転がっているものであることも感じた。むしろ、これまでは意図的に気が付かない振りをして、その解決を意識的に避けて来ていたのかもしれなかった。


 久し振りにゆっくりと湯船にも浸かりたかった。

 服を脱ぎ、鏡に映された自分の身体を観察する。接待などで不規則な食事が続き、休みの日に行くゴルフや、練習の打ちっぱなし程度では栄養分の摂取と消費カロリーのバランスが取れていないらしく、身体の其処彼処(そこかしこ)に贅肉(ぜいにく)が目立ち始めていた。


 洗面所の薄暗い照明の中ではあまりはっきりしないが、幾分体毛が濃くなり、それは私の目の錯覚かもしれないが、体毛の毛先が時より金色に光っているような気がしてならなかった。


 “ 入浴前に飲んだブランデーが引き起こした軽い幻覚だったのだろうか ”


 そんな違和感も一旦湯船に身を沈めてしまうと、記憶の中からは吹き飛んでしまい、今日一日の出来事の回想に迷い込んだ。


 “ 今日、女子社員に普段は感じたことも無い極めて暴力じみたあの衝動は一体何を意味しているのであろうか?”

 “ 潜在的欲求不満の表出によるものなのだろうか?”


 かつて、その女子社員に対し通常の仕事仲間以外の感覚は感じていなかったはずである。それが今日に限って何故そう感じられたか、幾ら考えても思い着くことは何一つ無かった。


 いつもより少し長めの入浴を終わり、ブランデーをもう一杯お替りしてベッドに潜り込んだ。その夜は何時に無く眠りが浅く、明け方になりやっと熟睡することができた。

 翌朝、一生懸命に起こす妻の声でやっと眼が覚めた。


 今朝の身体の強張(こわば)りは昨日の朝より少し酷くなっているような気がして、私は少し身震いした。ブランデー二杯位で二日酔いになることなど自分にはあり得ない。そうなると、昨日の朝感じた身体の強張りも二日酔いのせいでは無かったかもしれないと少し不安になる。


 やはり、何か悪い病気の可能性を考慮する必要ある兆候の様な気がしてならなかった。一端そう思い込んでしまうと、私は朝からとても憂鬱な気分になっていた。


 今日会社に行ったら時間を見つけ、同じビルの中にあるクリニックで診察してもらう必要性を実感した。


 

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