第6話 ある転機
もうあれから幾日も経っている筈なのに、自分の身に引き起こされた現象は一向に改善している風ではない。
家内と娘の話は無音の世界のままいつ終わるともなく未だ続いていた。やはり声は全く聞こえてこない。耳をすませば痛くなる様な静寂だけを感じる。
“ あれから幾日も経ち私は居ないはずなのに、どうして探そうとしないのだろうか ”
“ 私の存在自体、もう二人の間では意味を無くしてしまっているのだろうか ”
私の頭の中は混乱の極みにあった。
あれから更に身体の変化は進み、それにつれ人間としての知能は可成り低下してきた様な気がする。
この頃になると、私は自分の正体が何であるか少し解り始めてきていたが、その考えを即座に否定した。
今の自分の “ 精神力 ” の状態でそういう事実と直面することは、すなわち自らの “ 消滅 ” を意味することになってしまう様な気がした。
私の腹は、空腹でゴロゴロと鳴り始めた。不思議なもので、こんな時でもやはり腹は減る。強い空腹を覚え、何かを食べたいと願った途端、さっきまでぺしゃんこであった腹部が大きく膨らみ始めた。
そう言えば、何時かテレビで見た飢餓で死んでいく子供たちのお腹は太鼓のように膨らんでいた。
自分もそろそろ餓死してしまうのではないだろうかと不安が頭を過ぎていく。
更に恥ずかしいことに、私は尻の部分から何か粘々とした液体が流れ出てきたのを知覚した。自分の身体の変化に対する驚きの意識とは裏腹に、私自身の身体は素早く近くにあった柱を登り始めていた。
私は本能の赴くが如くに空間を走り回った。私が走り回ったその跡からは、青い空のキャンバスを背景に白い糸による幾何学模様の見事な絵が完成していた。
誰から教わった訳でも無く、何かの参考書を見たのでは無くほんの短い時間で私は超一流の画家でさえも及ばない絵描きになってしまっていた。
私は完成した幾何学模様の絵を、暫しうっとりと見つめていた。正確無比の模様を呈している。自分の描いた絵画を見ていると、絵画の完成という視覚的な喜びとは別の何か、この後起こるかもしれない出来事に対するゾクゾクとした期待感に堪らなく心が打ち震えていた。
それが何かは未だ具体的には解らない。何れ知る時が来るであろう。
私は絵画の出来栄えに満足すると急に疲労を覚えた。最初に絵を書き始めた場所に移動し、暫く仮眠を取ることにした。知らず知らずの内に、私の手は一本の糸の上に軽く乗せられていた。
“ どれ位、眠っていたのだろう ”
糸に携(たずさ)えられた手に響いて来る何か生物の悲鳴とも鼓動ともつかない振動に、私は本能の赴くままに期待を膨らませて目を覚ました。
私は無意識の内に自分の描いた絵画の上を、最も短い直線を通ってその振動の源に向かって走っていた。今も自分の尻から粘々した液体が噴出しているのを知覚している。私の尻から出てくる液体は、空気に触れると即座に細い糸に変化して行く様である。
私は振動している物体に向かってその周りを何回も何回もグルグルと回っていた。私の動きが活発になるに連れて、その生物から発せられる振動は少しづつ弱まって行く。頃合いを見計らって私は、自分の鋭い顎を振動の主の最も柔らかそうな部分に向けて突き立てていた。そして、夢中になってその生物の体液を吸い取っていた。
こうなる前から、私は自分の正体がもう解っていた様な気がする。自分の中でその事実を一生懸命否定していただけに過ぎない。先ほど自分が貪り尽くした振動の源が何であるかを知ったことによって自分の正体がより鮮明となり、肉体の変異を事実として認識せざるを得なくなっていた。
“ もう、自分は紛れもなく人間ではなくなってしまっている ”
“ 否、むしろ自分が人間と思っていたそれ自体が夢であった可能性すら考えられる ”
居間に居る妻と娘の話しは、相変わらず延々と続いている。あの二人は未だ私の失踪に気がついていない様である。
“ 本当に気が付かないでいるのだろうか ”
“ それとも、最初からこの家に自分は居なかったのだろうか ”
“ 妻や娘のことも、会社のことも全て夢だったと云うのだろうか ”
“ そうだとしたら、あの日のディズニーランドに行ったことも幻覚だったのだろうか ”
“ それにしては、あらゆる物がリアル過ぎる感覚として蘇ってくる ”
私は堪らなくなって二人の名前を呼んだが、自分で描いた幾何学模様の絵を少し揺らしただけで、向こう側の世界では何の変化も生じなかった。
相変わらず、二人の間でいつ終わるとも知れない話が続いている。
“ 彼女達にとって、自分の存在は何だったのだろうか ”
居たたまれない気持ちで何度か、妻と娘の名前を力の限りを尽くして叫んでいた。しかし、その叫び声は今度も私の絵を虚しく少し揺らしただけに終わった。
私が蜘蛛に変化してしまってから、あるいは、自分が変な夢を見始めてから、もう何日が経ってしまったのだろう。時折、私の描いた絵画に魅せられて飛んできた獲物を私が貪り喰う以外、他に変わったことは何も起こらない。
居間では相変わらず、二人の終わりの見えない話が繰り広げられている。
この頃になると、私の中で少し諦めにも似た様な自暴自棄的な気持ちが現れ始め、その二人の会話に入りたいという希望も薄くなり始めていた。
今では、私の手に伝わって来る獲物から発せられる命乞いにも似た生命の鼓動が寧ろ私を恍惚とさせる。
最初私の描いた絵を打ち破らんばかりの激しさだった命の脈動はやがては小さく、弱くなり、私の支配下に完全に陥る。もうその頃になると、それまで私の感じていた恍惚感は消えうせ、現実的な別の旺盛な食欲が表在化してくる。私は自分の食に関する貪欲さを軽蔑しながらも、それは自分が生きる為の手段であると正当化した。
これは、私が人間でいた頃と少しも変わらない。いや、もっと酷かったかもしれない。人間は生きる為と称して、あらゆる物を殺して食べ尽くす。そして、食べられる運命にある動物や植物に対しては、人間の為に尊い命を捧げてくれました等と安っぽい詭弁(きべん)を並べ立てて偽善者ぶっている。
更に悪いことに、人間の為に捧げて呉れた動植物の尊い命の半分を腐らせて捨てている。
自分だって、生きる為に絵画を使って獲物を捕まえ動物を犠牲にしている。だが私はそれを残さず食べてしまっている。尊い生命を腐らせる様なことは決してしていない。
人間の論理で言うならその行為は十分に許されるであろう。
しかし、私の最も喜びと感じている獲物を捕らえてから獲物が息絶えるまでに感じる恍惚感にも似た精神的満足感は、神が創造した節理に反しているのかもしれないが、その喜びが無ければ自分は今の姿のままでは恥ずかしくて生存し切れない様な気もする。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます