第5話 目覚めと虚しい願い
やがて、私は頭の中の深い霧の中で少しずつ覚醒し始めた。
“ 私は人間だったはず ”
なのに今の自分は何かが違う。
人間には二本の足と二本の手がある。私は朦朧とした意識の中で、自分の身体に引き起こされてしまった現象に関する答えを求めようとした。
だが、自分の思考能力が相当低下しているのだろうか?
私は、その答えを見出すことは出来なかった。
“ 目覚めた私の身体には、不必要な手足が何本も何本も生えているように見える ”
私は、パニックになりかけた自分の気持ちを抑え、自分の手足の数を数えてみた。ぼんやりとした思考の中でも、まだ数を数えることくらいは出来る様である。
何(ど)れが手で何(ど)れが足か良く分からないが、八本もあった。
それに数える時に気がついたが、手足のそれぞれに長い毛のような物が生えている。また、手足の節々が黄色をしていることも分かった。
私は絶望のあまり、自分の一生分の声を最大限にして叫んだ。いや、叫んだつもりであった。しかしそれは、私の耳には届くことは無かった。
耳を澄ましたが周囲は全くの静寂であった。
どうやら自分は、音のない世界に迷い込んでしまった様である。
自分の正体も掴めず、しかも耳が痛くなる様な静寂の世界。
“ 今までも時々遭遇した経験のある、性質(たち)の悪い夢であるはずだ。
そうでなければならない。それ以外の何かであってはいけない ”
私が人間である現実の世界に戻りたいと強く念じれば必ず戻れるはず。
過去、実際に似た様な経験をしてきた。
昔から悪い夢を見た時には、
“ これは夢だ。夢以外の何者でもない ”
と、悪い夢から覚めることを強く望めば、何時でも現実の世界に戻って来ることが出来たはずである。
私は、自分の持つ過去の人間としての知識を総動員して、この悪夢から覚めることを只ひたすらに念じた。しかし、相変わらず自分の意識の中にはどんよりとした濃い霧が掛かっていて一向に現実の世界に戻る気配はなかった。
私はこの時迄は未だ心の中に余裕があった様な気がする。私は幾度となく現実の世界に戻れるように念じた。しかし、小さい子供が親と逸(はぐ)れ、濃い霧の中で方々を手探りで探し歩いているもどかしさにも似た、頼りない手応えしかなかった。
一向に現実の世界に戻れないことへの不安が拡散して行く一方で、自分が下等な動物への変身を一部認めてしまっているもう一人の自分が居るのも自覚して、私の冷静な思考能力は完全に消失してしまい、一人焦燥感に苛まれて行った。
“ そうだ、こんな時には自分が人間であったであろう頃の事実を思い出せばいいんだ ”
“ 人間であった頃の私は結婚していて子供もいたはずだ ”
私は、田舎を出て都会の大学に行き、そして就職した。そして、学生時代の友人から紹介してもらったOLだった今の家内と結婚し、娘も生まれた。何年か前に建売住宅を購入し、そこから毎日会社へと通っていた。
大丈夫だ。どんなことでも全て思い出せる。
そう言えば、最近自分の身体に変調を感じクリニックを訪問したのを思い出した。血液検査の結果は何も問題なかったが、生活や身体の変調は確かにあった。サラダが嫌いになったり、毛が長くなったり、時より眼が赤く光ったり、女性の白い首筋が異常に魅惑的に感じたりした。
私の身の回りに起こったそれらの変調は、私が何かに変身する為の前兆であった可能性も考えられないことはない。
私は、周囲を見渡し座敷の向こう側の居間に座って何かをしている二人に気がついた。ショートカットでブラウンの髪が私の妻で、黒のロングヘアーをしているのが娘である。そしてあの居間のあのテーブルは、妻と私が一緒に見立てた物に間違いなかった。
何か喋っている様で、口が時々開かれている。何の話をしているのかは聞こえてこないが、とても楽しそうに話している。彼女達が私の存在に気付いてくれさえすれば、私が今見ている理不尽な夢の世界にも終わりが来て、私は元の現実の人間に戻ることが出来る筈(はず)である。
私は隣の家まで聞こえるような大きな声を出して妻と娘の名前を呼んだ。 そのつもりだった。
“ やはりそうだ。これは夢なのだ。そうでなければ、妻や子供の名前など知っている訳がない ”
“ 動物が言葉なんかしゃべれるはずがない。この理不尽な現象の正体は間違いなく夢以外の何ものでもない ”
妻や娘の名前を必死で呼ぶ私の声が届いているのか届いていないのか、相変わず二人は仲良く笑い乍ら何かを話している。私は幾度も幾度も二人の名前を呼んだ。最後に呼んだ時には少し泣き声混じりであった様な気がする。
それでも、妻と娘には何か変化の起きる気配は無い。相変わらず笑い乍ら話を続けている。
私は此処が無音の世界であったことをすっかり忘れてしまっていた。夢から現実へ引き返す為の「キーワード」の悲痛な叫びが妻や子供には全く届いていないのを知らされ、私は完全に動転してしまった。
私は、少し時間をかけて待つことにした。その内、向こうでも私の存在に気が付き、私の名を呼ぶに違いない。
そうして、自分の中では数日間とも数えられる長い時間じっと耐え乍ら待った。
途中、空腹感を覚えなかった訳ではないが、自分が食事している最中に二人が声をかけてきたら折角の人間に戻れるチャンスを失うことを恐れて私は我慢した。
しかし、二人が私に声をかけてくれる様子はなかった。相変わらず話は何時終わるとも無く続いている。
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