狂おしいほどに海が鳴る

つるよしの

「あなた様は、鉱山で労働に身をやつして生を終えるには美しい男すぎる、奴隷商はそう判断したのでしょうね。私めも、そう思いますよ。この艶やかな長い黒髪。このように傷つけられてもなお、筋肉を失わぬ逞しい褐色の肌に、海鷲を想起させる青い双眼。たしかにあなた様は、お美しい」

 

 明け方、情事を終えた俺の臀部に軟膏を塗りながら、ワーフィルは嗄れた低い声で、俺の耳もとにそう囁きかけてきた。


「その美を留めたまま、御身をこの国の男たちに捧げさせようとあなた様を買ったお館様のご判断は、まさしく正しかった。そのように私めも、お世話をするたび、思わずにいられません」


 彼の肌を撫でる指使いは丁寧そのものだ。しかしながらいつものことだが、同時に俺の敏感な箇所を知りすぎているようにも思わずにいられない。

 俺はこの期に及んでもあらぬ声を上げないように苦慮しながら、ワーフィルの指先が与えてくる刺激から意識を逸らすように答える。

 

「ワーフィル。そうだとしても、俺は自分自身の正体も知らぬまま、この部屋で敵国の男どもに身を漁られて死んでいくのは耐えられぬ」

「それはそうでしょうな。ですが、これもあなた様の運命さだめでございましょう。そろそろ、あなた様が男娼に身をやつしてから五年です。そうお気持ちを定めないと、犯され尽くして果てる前に、心が死んでしまいますよ。かつて勇猛果敢な将であられたであろうあなた様には、それも耐えがたいことなのではありませぬか?」

 

 ち、ちちち、と起き抜けの小鳥が囀る声が微かに聞こえる。天窓から眩いひかりが差し込み、寝台しかない狭い半地下の居室にも朝が来たことを告げてくる。

 そのひかりの只中で俺はワーフィルの諭すような言葉に眉を顰めたが、彼の言うことももっともだと、どこかで力ない声がするので、彼に反論することはしなかった。

 ワーフィルが俺の裸体をぬるりと滑るたびに、右の足首に長いこと嵌められたままの枷の鎖が、じゃらじゃら、と揺れる。その音が虚しく俺の鼓膜を打ち続けている。いつまでも。


 

 俺には過去の記憶がない。

 

 分かっていることは、自分が、いま俺がいるこの国の敵国の将兵だったことくらいだ。

 記憶の断片から、戦に明け暮れる日々に身を置いていたことは僅かに思い出せる。しかし、それ以上のことは無理だ。自分の名前、身分、位、その全てを俺はいまだ忘れ去ったままだ。

 

 確かなのは、俺は五年前の海戦で、どうやら船から海に落ちたらしいということのみだ。

 そしてどういうわけか命だけは保って、この国の浜辺に打ち上げられてしまった。そして、身に着けていた衣服から敵国の人間と判断され奴隷にされ、男娼としてこの娼館に売り飛ばされたのだった。

 それから五年。かつての敵国の男どもにこの身を弄ばれる屈辱の日々を、今日も俺は生きてながらえている。

 

 奴隷でありながらも俺の浅黒い肌は、常に清潔に磨かれている。客に失礼がないように、という主人の心遣いから他ならない。それだけでなく、妖艶な匂いが香り立つ香油さえ塗りたくられている。

 また、客に好き放題にされた末の傷痕にも、商品価値が落ちぬよう、行為の直後には念入りに薬を摺り込まれる。

 そして、それらの役目を全て負うているのは、俺と同じ故郷を持ち、同じく奴隷に身をやつしているワーフィルなのだ。


 彼は俺より遥かに年老いているという理由で、この娼館に売られても男娼としては扱われなかったらしい。

 そのかわりに、いわばこの館の「名物」である俺の世話係を買って出て、今に至る。

 捕えられて長い月日を経てもなお、この国の言葉にいまだ不自由な俺と違って、ワーフィルは語学に秀でていた。それゆえ、館の主人が俺と意思疎通を図るのに、彼は願ってもない存在だったのだろう。

 よって、ワーフィルの願いは聞き届けられ、この屈辱的な月日の全てにおいて、ワーフィルは俺の傍に常に居続けている。

 まるで従者のように。

 

 奴隷だというのに、従者のような存在がいるとは、考えてみれば皮肉且つおかしなことであるが、ワーフィルは俺に対してそのように振る舞うのをやめない。

 そういえば、俺に対して敬語を使い続ける理由を、彼はかつてこう俺に説明したことがある。

 

「浜辺に打ち上げられたときの服装からいって、あなた様はおそらく、祖国では位の高い将だったのではないか、とお館様から伺っております。対して、私めは身分の低い者でありました。だとしたら、あなた様にはこのような言葉遣いで接するのが妥当でございましょう」

 

 ワーフィルは皺の寄った顔に笑みを刻みながら、俺にそう言った。

 それを聞いて、俺はなるほどな、とひとり胸のなかで合点した。それがワーフィルのかつての身分から来るならば、俺には特にそれを咎める権利はない。

 

 とはいえ、落ちつかない気持ちもある。

 

 俺は自身の正体もなにも思い出せない身であるが、ワーフィルはそうではない。きちんと祖国での生活の記憶も、自分の身分も、俺が海に落ちたあの戦のことも全て覚えている様子だ。

 しかし彼は、俺がそのことに言及すると、ただ、柔らかく、意味ありげな笑みを唇に浮かべるのみだ。

 そして、なぜ俺の世話係を申し出たかについても、明かすことはない。

 

 思えば、ワーフィルと俺は、奇妙な関係であった。

 だが俺には、この五年というもの、あまりにも自分に与えられた日々の運命が過酷すぎて、そのことについての疑問に脳を使う余裕はなかった。

 よって俺は、奴隷として、男娼としての日々に漫然と飼い慣らされ、ワーフィルの存在に疑問を感じる機会を、月日を経るごとに失いつつあった。

 


 そんな、俺がここに囚われてから、六年の月日を経たある夕暮れのことだった。

 

 俺の半地下の居室に、降りてくる足音がある。ワーフィルのものではない。さてはいつもより早い時刻であるが客が来たのだ、と俺はひとり嘆息した。今夜も長い苦痛の刻が続くのだろう。

 さりとて、抗う手段もない。俺は浅黒い肌を震わせながら、足音が部屋の前で止まったのを耳にする。いつものことだが、諦観がひりひりと胸に満ちる。数えきれぬほどの恥辱の夜を超そうとも、客が鎖に繋がれた俺の姿を見た途端、どす黒い歓喜の表情を浮かべる瞬間の心情は、筆舌に尽くしがたいものがあるのだ。


 ところが、違った。

 部屋に入ってきたのは、使用人であった。何度かワーフィルに替わって食事を届けに来たことのある男だ。何事かと身を強張らせた俺に男は近づくと、いきなり右足首の枷に手を伸ばしてきた。

 次の瞬間、しゃらん、と音がして鎖が床に転がる。枷が外されたのだった。

 驚きのあまり瞳を見開いた俺に、男が早口で何事かを告げてくる。


「お前の身請け先が見つかった。これから、お前を、新しい主人のもとに連れていく」


 男の言葉はなおも聞き取りにくかったが、なんとかそれだけは解することができた。続いて、乱暴に腕を掴まれ、身体を持ち上げられる。

 俺はそのとき、ワーフィルのことを思いだしていた。

 彼のことを思い返しながら、ワーフィルに別れの挨拶が出来ないことを、ただただ、残念に思っていた。

 後から考えれば、なんとも愚鈍なことに。



 であるから、娼館から連れ出され馬車に乗せられた俺が、郊外に慎ましく建つ一軒家の前に降ろされ、連れこまれたその家のなかで新しい主人とやらに面会したときの衝撃は、計り知れないものであった。

 目前には、親しい笑顔があった。そう、皺の刻まれた顔に浮かぶ、あのどこか意味ありげな笑みだ。あまりにも見慣れた、あの。


「……ワーフィル」


 ふたりきりになり、驚愕のあまり喉を震わせた俺を、部屋の中央に佇むワーフィルが、面白いものを見るような眼差しで見下ろしている。しかもその装いは、今まで見慣れたみすぼらしい奴隷のそれではなく、この国の市民が普段着ているような、きちんとした綿の白い上衣姿だ。それまで乱れ放題だった灰色の長い髪も、清潔に油で整えられたうえで結われ、背へとひとつに流している。

 

 ただ、その微笑みだけが変わらない。

 ……いや、そのほかにも変わらぬものはあった。

 床に座り込んだまま、唖然として声も出ない俺に放った語の、丁寧な言葉遣い、それもだ。

 しかしながら、言葉の内容は、あまりにも俺の理解の範疇を超えていて、からからに乾いていく喉から、俺はしばらく何も搾り出すことが出来なかったが。


「実はですね、私めの六年の刑期が昨日で明けましてね。晴れてこの国での市民権を得ることが出来たのですよ。それと同時に、約束通り報奨金も下賜されましたので、あなた様を買い求めることがこのたび叶ったわけでございます」

「……刑期……? 報奨金? なんのことだ……それは? お前は俺と同じ、奴隷ではなかったのか?」

 

 俺はしばらくの後、ようやっと震える唇を動かして、ワーフィルに問うた。心の臓の鼓動が激しく跳ねる。すると、ワーフィルはゆっくりと俺の問いに答えた。まるで俺をなぶるかのように、勿体ぶりながら、ゆっくりと。

 

「ええ、そうでしたとも。私めは長いこと、あなた様と同じく虜囚としてこの国で奴隷の身分にありました。ですが、それも昨日までのこと。私めはあなた様と異なり、刑期を過ぎればこの国の市民として扱ってもらえるゆえ、約束がなされておりましてね。それは他でもない、あなた様のおかげなのですが」

「……俺の?」

「はい。私めは、上官たるあなたを褒美として、奴隷とされながらも、そのような処遇を受けました。もちろん報奨金とは、その手柄に対する報酬でございます」


 視界がぐらり、と揺れる。

 俺は激しい目眩に襲われながら、彼が悠然と放った言葉を噛み締める。そしてその意味を悟った瞬間、俺は口から激しく語を爆ぜさせることを止められなかったのだ。

 

「俺を、差し出した……! ではワーフィル、お前は俺の部下だったのか? そして、俺を裏切って、俺の身柄を敵に売ったのか!?」

「おやおや、売ったなどと、人聞きの悪いお言葉を使いますな。あなた様と私は、船が撃沈されたあと、ともにあの荒れた海を漂流した仲ではございませんか。とはいえ、浜に打ち上げられてみれば、海に落ちたときの衝撃からか、あなた様が記憶の全てをなくしていたのは、私めにとっても想定外ではございましたが」


 俺の息は止まる。

 まるで悪夢のなかにいるかのようだ。それまでの恥辱の年月が遠い記憶と霞まんばかりに。それほどまでに、ワーフィルが舌なめずりしながら俺に語る真実は、衝撃でしかなかった。

 

「まあ、でもそのおかげで私めは、あなた様に抵抗されることもなく、身柄を首尾よく敵に引渡すことが叶ったわけですが」

「……では、ワーフィル、お前は俺の過去の素性も全て知った上で、今まで俺に接していたのか」

「そうですとも。まったくもって、お人好しなことに」

「お人好し?」


 そうワーフィルを質したとき、彼の瞳が、ぎらり、と苛烈なひかりを帯びた。俺の背筋が、一瞬、びくり、と怖気づくほどに。

 そんな俺をワーフィルは睨み返す。その目に宿っているひかりが、どこまでも冷たく、憎々しげに瞬くのを俺は思わず、固唾を飲んで見守る。

 果たして、数十秒の沈黙ののち放たれた彼の声は、堪え難い怒りに震えていた。

 

「……あなた様はご自分の素性を知らなくて幸せです。あなた様は、本国ではそれはもう暴虐な将官として知られていたのですよ。そしてその禍は、あなたの副官であった私めにも及びました」

「俺が……お前に何かしたというのか?」

「そうですとも。私めにとっては、いまも思い出すのも苦痛なことですが、……まあ……残り少ない余生です、今一度くらいは口にしてもよいでしょう」


 それから、ワーフィルは一気に語を放った。俺の瞳を射貫かんばかりに見据えながら。


「ライハーン閣下。あなた様は、私の妻を辱め、死に追いやったのですよ」



 すでに陽は落ちていた。

 俺たちふたりがいる部屋にも暗がりが広がる。ただ、窓から漏れる月光のみが仄かに明るい。俺は呻きながら、いまや燃えさかる復讐心を隠しもせずに己を見下ろすワーフィルを質す。

 

「……お前は俺を買い取ってどうするんだ。これ以上なく無残なやり方で殺して、妻とやらへの弔いとするつもりか?」

「殺す? まさか」


 月のひかりのなか、ワーフィルがさも可笑しげに眉をつり上げる気配がする。

 

「これでもあなた様を身請けするには相当の金が必要だったのですよ。報奨金があらかた底をつくほどには。そんな勿体ないことが、どうしてできましょうか」


 そう言いながら、ワーフィルはかがみ込むと、床に垂れていた鎖をさりげなく掴んだ。俺が足枷の代わりに付けられていた首輪に繋がる鎖だ。そして、勢いよくそれを自分の方に引く。

 俺の身体はぐい、と抗いがたい力で、ワーフィルの身に引き寄せられた。

 気がつけば、暗闇に爛々と燃えるワーフィルの瞳が俺の目前にあった。憎しみと悦びに燃えさかる怪しい双眼が。

 

「あなた様が今日の今日まで、行きずりの男になにをして、なにをされていたのか。その行為などに意味はないのです。なにより肝心なことは、あなた様の現在が総じて、私めの思った通りの姿になり果てているということ。私めにとり、あなた様に望むことは、それ以上でもそれ以下でもございません。そして、それが全てなのです」

 

 そう言いながらワーフィルは鎖をまた強く引く。長い髪が鎖に絡まり、首筋は攣らんばかりに引っ張られ、俺は思わず苦悶の声を上げた。それを認めて、彼は満足そうに、ほぉ、と息を吐く。

 

「幸い、男が男を扱うやり方は、この六年というもの、お美しいあなた様の痴態を盗み見ることでたっぷりと学ばせていただきました。……大丈夫、手酷くは致しませんから。たしかに私めは、あなた様を買い求めはしましたが、昔も今も、あなた様に従者としての敬意は持ち続けているつもりでございます」


 そしてワーフィルは、まるでちいさな子どもに言い聞かせるような声音で、俺にこう告げたのであった。


「……だから、あなた様は、心から安心なさって、これからは私めにだけに愛されれば良いのです」


 首輪を繋いだ鎖を引き寄せるワーフィルの拳には、いよいよ力が漲っており、俺はいまや息をするのにも難儀するほどだ。しかし、膝立ちの体勢を崩そうにも、彼はそれは許さないとばかりに鎖越しに俺の首を締め付けてくる。


 苦しい。意識が遠ざかる。なにも感じ取ることが出来ない。

 ああそうだ、いつかもこんなことがあった。

 あれは漆黒の闇のなか、どこまでも冷たい海原に落ち、波に飲まれたときのことではないだろうか。


 海鳴りが聞こえる。轟く波音が聞こえる。

 

 そんな記憶が胸中を覆い、意識が闇に落ちかけたその刹那、俺の唇は、柔らかななにかに塞がれた。

 

 ワーフィルの口づけは、禍々しいほどに柔らかで、激しく、狂おしい愛に満ちていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

狂おしいほどに海が鳴る つるよしの @tsuru_yoshino

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ