[短編]不良侯爵と私

羽倉せい

不良侯爵と私

 大正、帝都東京。

 年末近いこの時期は、なんとしてでも稼がねばならない。

 そうしなくては年を越せないからである。

 たでさえ物入りな時期であるのに、しかし没落華族の島津家の母と姉妹らは、使うことのみに精一杯であった。


「お母さま、あたし新しい洋服を新調したいわ! だって、たくさんのパーティーにお呼ばれしているのですもの!」

「お母さま、わたくしも美容院に行ってヘアを整えて、爪もきれいにしたいわ。三和商事の本馬さまがわたくしを誘ってくださって、観劇したいとおっしゃってくだすってるの!」


 末娘と長女のわがままに、富裕な夫人気質がいつまでも抜けないおっとりした母親は、二つ返事で了承した。


「いいわね、ぜひそうなさい! わたくしもお茶会にちょうどよいバッグを新調したいと思っていましたもの。みんなでお買いものに出かけましょ、ね?」


 きゃっきゃとはしゃぐ島津家のご婦人たち。そして彼女らは、地味な着物に古着の外套を羽織り、端切れの巾着を持っていましも仕事に出かけようとしていた丸眼鏡の次女、駒子を見た。


「ねえ、駒子さん。聞いていらっしゃったでしょ? お金くださる?」


 平屋の借家の玄関に立った駒子は背が高く、着物の裾も少々短い。肩にとどく髪をてきとうにひっつめただけの姿は、すべてを諦めて仕事に生きる(しかない)職業婦人といったところである。

 そんな駒子はにこりともせず、眼鏡を指であげながら言った。


「いいえ、聞こえませんよ。お金なんてもうどこにもないんです。いい加減、贅沢のできない身分だと知っていただけませんでしょうか」


 まあ! と婦人らは憤慨した。


「いやだわ、駒子さん! そんな残酷なことおっしゃらないで!」


 と姉。


「駒子姉さま! お金くださいな! あたしの欲しい服はたいして高いものではないの! ね? いいでしょ!」


 と妹。あげく母にいたっては、


「贅沢ができないだなんて、なんてことおっしゃるの! 駒子さん、そんな品のない意地悪を言わないでちょうだいな。あなた、誰のおかげでこれまで大きくなれたと思っているのです!?」


 とんだ言いぐさである。

 美人な姉と妹に挟まれた父親似の駒子を、母は一度も気に留めたことなどなかった。そんな駒子を育ててくれたのはいまは亡き使用人のばあやだし、なんならずっと自分で自分の面倒を見てきたと言っても過言ではない。

 駒子は動揺することもなく、


「誰のおかげって、ばあやと自分のおかげですよ」


 即座に冷たく言い放った。唖然とする母を尻目に、


「いいでしょう、わかりました。もうこの家には帰りませんから、借金するでも散財するでもしてどうぞお好きにお暮らしください。では、これで」


 駒子はそう言ってぺこりと頭をさげ、玄関を出た。

 こんなやりとりは日常茶飯事なので、母も姉妹もたいして本気にしていない。今日こそはと決意していたのは、駒子一人だけであった。


 五年前に結核で他界した父親は、賭博で多額の借金があった。立派な屋敷を抵当に入れて借金は返せたものの、日々の生活費は隠し貯金と、通いの女中をする駒子の収入のみである。

 華族時代の生活を忘れられない島津家のご婦人らは、使うことに長けていた。駒子の稼ぐ収入でまかないきれるわけもないのに、それでも勝手に無心してくるからやるせない。


(あの人たちのためにも、私は離れたほうがよいでしょう)


 そうすれば、なにか学ぶだろう。まあ、学ばないかもしれないが。

 

(通いではなく住み込みたいと、奥さまに頼んでみよう)


 以前から考えていたことである。女中をしている先の奥方も、真面目に働く駒子を気に入ってくれ、住み込みの部屋があるからどうかと提案されたこともあったので、それに期待をかけていた。

 今日はちょうど、奥方がなにやら駒子に話したいことがあるとのことで、銀座の喫茶店に招かれている。もしかしたら、給金をあげていただけるのかもしれない。

 話の内容がなんにせよ、住み込みを提案するにはもってこいの機会ではないか。

 駒子は少々浮かれた気分で、指定された場所へ向かった――のだが。


「あなたはクビです。もう来ないでくださる?」


 窓際の席で待っていた駒子の前にあらわれた奥方は、紅茶を頼むや煙草に火をつけ、開口一番そう言った。

 三十代と思われる奥方はたいそう美しく、美容院でセットしたばかりらしい髪を気にしながら、呆然とする駒子に向かって驚きの言葉を口にした。


「あなた、あたくしの主人と外で会っているのでしょ?」

「………………はい?」

「すっとぼけなくてもよろしいのよ。主人が女中に手を出すことなんて、いまにはじまったことではありませんもの。けれどもね、あなたは違うと思っていたのよ。まったく、あなたのことを信じていたのに……!」


 たしかに、繊維会社の社長である裕福なご主人は、年齢のわりにすらりとしたお姿で、三つ揃えの背広姿も様になっている。交流の幅も広いため、浮いた噂もないこともない。

 とくに、女中とのあれやこれやは奥方との面接時に聞いていた。女性と見れば年齢に関係なく、誰にでも色目を使う性分らしく、女中を雇いたい奥方としては頭を悩ます事態であった。

 そこに突如あらわれたのが、地味な容姿かつ男性顔負けの身長を誇る駒子である。

 没落したとはいえ、元は華族の令嬢。厳格な立ち居振る舞いも功を奏し、奥方は「この子ならば大丈夫そうだ」と予想した。結果、予想どおりに大丈夫であり、だからこそ住み込みも提案するまでにいたったのであった。

 しかし。


「近頃のあの人の浮かれ具合、見ていたらすぐにわかるのよ。仕事関係の女性を調べたけれど、めぼしい相手は見当たらなかった。それで、最後に残ったのがあなたなの」


 奥方は煙草の煙をくゆらせながら、自嘲気味に失笑する。


「いいのよ、正直におっしゃって? こんなこと慣れているもの。けれど、あなたの頬を打つことぐらいはさせていただくわよ」


 駒子は息をつく。こんなくだらないことで仕事先を失うのか。また仕事を探さなくてはいけないのか。

 せっかく住み込めると思ったのに、あの家にふたたび帰らなくてはいけないのか。

 帰って、お金の無心をされるのか。もう、働ける場所もないというのに――。


「――奥さま。旦那さまのお相手は私ではありません」

「うそおっしゃい」

「本当です」


 そう言った駒子は、おもむろに席を立った。


「私を見てください、奥さま。私には母親似の姉と妹がおりますので、彼女たちならばきっとそれもあったでしょう。けれど、父親に似てしまった私の姿は、娘というよりも長髪の息子のようです。つまり私の言いたいのは、このようにどこかたくましさを醸している私と外で会って楽しみたいと考える物好きな紳士など、はたしてこの世に存在するのでしょうかということです」


 背後のついたての奥から「クスッ」とした笑みが聞こえた気がしたが、どうでもいい。唖然とした奥方は、煙草を指で挟んだ格好で固まった。


「私がもしも旦那さまであれば、間違いなくそんなことはしません。こんなにきれいな奥さまがいるのに、なにが面白くてわざわざ私なんかを誘うんですか。ありえませんよ。そう思いませんか?」


 真っ赤な唇をあんぐりと開けた奥方は、「ええ……まあ、そうかもしれないけれど……」と精一杯の声を振り絞っていた。


「……あなた。それはさすがに、自虐がすぎませんの?」

「いいえ。自虐ではなく事実です」


 駒子はいっさいの動揺もなく、ぴしゃりとはねのける。


「旦那さまがどこか浮かれているのは、奥さまへの贈り物を考えているからかもしれませんし、ご夫婦でのご旅行を計画なさっているからかもしれません。たしかに女性を誘うのがお好きな旦那さまかもしれませんが、私などを誘う暇があるのなら、そのへんの野良犬か猫でも拾ったほうがまだ有意義というものです。疲れを癒やしてくれるでしょうから」


 巾着から財布を出し、自分の紅茶代をテーブルに置く。


「とにかく、私ではありません。以上です」

 

 駒子は「大変お世話になりました」と頭をさげ、外套を羽織って外に出た。

 灰色の曇り空から、ぽつりぽつりと小雨が落ちる。雪の季節だというのに暖冬のせいで、すぐさま本降りになってしまった。

 ついていないこととは続くもの。朝から曇っていたのだから傘を用意するべきだったのに、勢いあまって家を出てきてしまった。そんな自分を心底呪う。

 雨宿りにちょうどよさそうな写真館の軒下に入り、ひとまず雨が晴れるのを待つことにする。

 

(啖呵を切って出てきたのに、ずぶ濡れであの家に帰らなくてはいけなくなってしまった。しかも仕事まで失ってしまうとは……)


 自分のせいではないので、なおさら解せない。なぜゆえこの世は、不条理なことばかりなのだろう。

 ため息をついてうつむいたとき、ばしゃりと水たまりを踏む靴先が見えた。


「おっと」


 水しぶきでズボンの裾を濡らした靴の主が、隣に立つ。そんな相手に微塵も興味のない駒子はうつむいたまま、姿をみとめることなくそっぽを向く。どうやらこの人も雨宿りをする魂胆らしい。なにげなく、そう思ったときであった。


賀瀬かせさま!」


 息切れしている女性の声が、あとに続く。賀瀬と呼ばれた紳士が言った。


「君は、さっきのお店で給仕をしていた子かな? どうしたの」


 さっきのお店とは、どこぞのレストランか喫茶店か。もしも喫茶店であれば、駒子のいたお店がここから一番近い。


「感激です、覚えていてくださったんですね! このように追いかけるなど、ぶしつけなこととわかっているのですが、どうしても賀瀬さまにお渡ししたくて……。わ、わたくしの連絡先です!」

「そう。それは嬉しいな。わざわざありがとう」


 飛び上がるほどの喜びを言葉にした女性給仕は、何度も賀瀬を褒め讃えてからその場を立ち去った。まるで有名人のごとき扱われ方である……というか。


(……賀瀬。たしか、姉上と妹の騒いでいる大金持ちの道楽者、〝不良侯爵〟とか呼ばれている方の名字も賀瀬だった気がする……)


 賀瀬 かをる

 武家出身の侯爵位を賜っている、賀瀬家の問題児。

 造船業と貿易業で莫大な資産を手中におさめている若き侯爵は、その財産と美貌をもてあますかのごとく、銀幕の女優やご令嬢などなど、ありとあらゆる女性たちとの浮名を流している。

 この世を遊び尽くすといわんばかりに冒険家めいたこともしており、素行の悪さよりも常識の外れた数々の言動から、ゴシップ好きの物書きらによって〝不良侯爵〟と名付けられるにいたっていた。

 同じ華族ではあるものの地位も財産も違いすぎたため、島津家とはなんのつきあいもなかった。そのため、駒子には〝不良侯爵〟の名前が『賀瀬 馨』であることしかわからない。


(賀瀬……まあ、きっとただの偶然でしょう。こんなところにそんな方がいるわけないもの)

 

 それに、万が一本人だとしても、自分には関係がないしどうだっていいことだ。

 駒子はただただ、軒下に落ちる雨を眺めていた。

 少し寒い。吐く息も白くなってきたので、今夜あたり雪になるかもしれない。

 そんなことを考えていたときである。くしゃりと紙を握る音がたち、思わず横目で隣を見た。

 賀瀬なる端正な横顔の紳士は、写真館脇のゴミ箱に紙をひょいと投げ入れた。

 え。あれは、もしかして。


「……捨てたんですか」


 またもや不条理に遭遇し、思わず言ってしまった。

 賀瀬がこちらを見る。年の頃は二十代。外国風のコートと中折れ帽子の着こなしが、なんとも洒落ている。くわえて、息をのむほどの美しいお顔と立ち姿であった。

 しかし、他人の外見に左右されない駒子にとっては、彼もジャガイモみたいな一人にすぎない。そんな駒子の問いかけに、賀瀬はなぜか楽しげに瞳を輝かせた。


「そう」

「どうしてですか」

「不要だからさ」


 駒子は眉間にしわを寄せる。と、賀瀬の前を過ぎるやゴミ箱に手を入れ、くしゃくしゃになった紙をつかむ。

 それを、賀瀬に差し出した。


「いらないのなら、はじめにそう言って断るべきです」


 賀瀬が目を見開いた。


「嬉しいなどと言って受け取ったのですから、せめて自宅に持ち帰ることくらいはしてください。わざわざこれを書いてあなたに渡した方に失礼です」


 ぐいと紙を突き出す。すると、なぜか賀瀬は面白そうに微笑んだ。


「お説教をされたのははじめてだな」

「お説教ではありません。ただの礼儀です」


 紙を受け取った賀瀬は、それをコートのポケットに入れた。


「これでいいかな」

「けっこうです。赤の他人が、突然失礼いたしました」


 駒子はぺこりと頭をさげ、前を向いて雨がやむのを待つ。すると、


「きっと君は真面目に働く、とてもいい女中さんなのだろうね」


 びっくりする駒子に、賀瀬はにっこりとした笑みを向けてくる。


「不条理な理由で君がクビになる場面に遭遇してしまった。もちろん、他意はないよ。君のうしろの席にいただけだ」


 ああ、と駒子は遠い目になる。


「なんとなく笑った声が聞こえた気がしました。あなただったんですね」

「それは失礼。でも、笑ったわけじゃない。理知的な方だと思って感心したんだよ」

「まさか」

「本当に。しかし、あの奥方の言うことも一理ある」

「え」

「君は自虐がすぎる。そんなふうに自分に厳しくしすぎると、生きるのが苦しくならないかい?」


 駒子は驚き、分厚いレンズに阻まれた小さな目を丸くする。けれど。


「……人は、楽なほうに流れます」


 母や姉、妹のように。


「その楽をした先に待っているのは、惰性と破滅です」


 というか、間違いなく破産する。


「きちんと現実を直視していなくては、あとあと大変な思いをするのも自分です。なので、いまがよければいいという生き方は感心しません」

「その意見には同意だけれど、たまには羽目を外しても罰は当たらないさ」

「一度でも羽目を外したら、きっと癖になるんです」


 これまた母や姉、妹のように。しかも、自分にだって同じ血が流れているのだ。恐ろしすぎてそんなことできるわけがない。


「私は自分がどういう人間か知っています。なので、私が奥さまに告げた言葉は、すべて自虐ではなくただの事実です」

「本当に?」

 

 少々食い気味に、賀瀬が突っ込んできた。


「本当に、君は自分のことを知ってる?」


 当たり前だ。なにしろ自分のことなのだから。


「もちろん、知ってます」

「そうかな」


 にやりとした賀瀬は、おもむろに写真館のドアを見る。


「いいことを思いついた。僕が本当の君を見せてあげよう」


 はい? と首をかしげる間もなく、賀瀬は駒子の背をそっと押しながら、写真館のドアを開けてしまった。

 レンズを磨いていたらしい壮年の店主が顔をあげ、賀瀬を見るなり微笑んだ。


「これはこれは、賀瀬さま。いらっしゃいませ」

「近くまで来たものだから、一枚頼めるかな?」

「もちろんでございます」


 戸惑う駒子を尻目に、賀瀬と店主のやりとりがはじまる。あれよという間に椅子が用意され、そこに座るよう指示された。


「……写真を撮るのですか」

「そうだよ」

「どうしてですか」

「正しい自分の姿を、鏡以外で見ることができるからさ」


 たしかに鏡に映るのは、いつもぼやけている顔である。眼鏡をかければ輪郭もくっきりするけれど、その代わりに分厚いレンズもくっついてきた。

 正しい自分の顔がわからない。というか、そういうことではなくて。


「自分を知っているって、内面のことです。外見のことじゃありません」

「わかってるさ。まあまあ、いいからいいから」


 なにがいいのか。この人は案外てきとうだ。とはいえ、ちょっと興味もあった。なにしろ駒子が持っている写真は、幼いころに家族で撮った一枚きり。おかっぱ頭で姉のうしろに隠れている七歳の自分しか残っていないのである。

 しかし?

 

「私、お金が」

「もちろん僕が払うよ。僕のわがままにつきあってもらっているんだから」


 思えばたしかにそのとおり。これはこのわけのわからない人の提案にすぎないのだから、払っていただいて当然なのだ。遠慮は無用。

 駒子はむっつりと椅子に座る。少し斜めになるよう店主に言われ、そのようにする。と、賀瀬が近づいてきて、


「これは没収」


 駒子の顔から眼鏡を取ってしまった。こうなるとなにも見えない。すべてが霧の中である。

 閃光電球らしきものを持った店主が、蛇腹カメラの冠布かんぷをかぶる様子が、ぼんやりした視界に入る。


「こちらを見て、微笑んでください」


 微笑めなかった。やっぱりむっつりしたまま声のするほうを凝視する。「動かないでください」と言われたのでまばたきすら我慢していると、ボンッという音とともに閃光電球がまたたいた。


「はい、終わりです」


 駒子が椅子から立とうとした矢先、賀瀬が近づいてきた。てっきり眼鏡を返してくれるのだろうと思って手を差し伸べると、賀瀬は笑った。


「まあ待って。悪いね、もう一枚いいかい?」

「もちろんでございます」


 駒子の座っていた猫脚の椅子は背もたれがなく、クッションが赤褐色のビロードで少し横幅があった。

 賀瀬は端に座るよう駒子に言うと、自分もその隣に腰掛ける。そして、駒子に耳打ちした。


「変な顔の写真を撮ろう」

「はい?」

「変な顔だよ。こういうの」


 帽子を取った賀瀬は舌を出してみたり目を上向きにさせてみたり、あっかんべーという表情をつくる。駒子は呆気にとられて固まった。


「そ……のような顔で写真を撮る方はいません」

「どうして撮っちゃいけない? 決まりなんてなにもないのに」


 言われてみればそのとおり。そのとおりなのだが。


「ずっと残るものなんです。恥ずかしいじゃないですか」

「恥ずかしいけれど楽しいよ。他人がどう思うかなんて、どうだっていいことじゃないか。さ、君もやって」

「無理です」

「そう言わずに、僕の真似をしてごらん?」


 賀瀬はかまわず、変な顔をする。どんなに美しいお顔でも、変な顔は変だった。はじめは拒否していた駒子であったが、賀瀬のくだらなさに「ふふ」と思わず笑ってしまう。


「君が変な顔をするまで、彼は永遠に店を閉められないよ」


 彼、と店主を指す。永遠とは大げさだが、この場からさっさと立ち去るにはそうするしかなさそうだ。ええい、こうなればやけくそだ。


「わかりましたよ。私だって、やってやります」


 賀瀬が笑った。


「よし、いいぞ。あっちを向いて、一緒にやろう」


 駒子は生涯でもっとも変であろう(そして後悔するであろう)表情をつくり、カメラを向いた。我ながらどうかしていると思ったが、なんとも妙に面白おかしい。

 やがて閃光電球が弾け、一瞬で撮影は終わった。

 店主が笑みを堪えつつ、賀瀬に言う。


「現像したお写真は年明けになりますが、よろしいですか」

「もちろんだよ。お騒がせしたね、ありがとう」

「どういたしまして。またいつでもお越しくださいませ」


 眼鏡を返してもらい、写真館を出る。雨はすっかりあがっていた。

 駒子は賀瀬にお礼を言うべきなのか若干迷い、やはり言うことにして頭をさげる。賀瀬が微笑んだそのとき、一台の車が目の前で停まった。

 きりりとした容姿の男性が、運転席からおりてくる。


「駐車場でずっとお待ちしておりましたが、また私の目を盗んでこんなところにいらしたとは! しかもあろうことかこの期に及んで、一般女性を口説くなんて……!」


 目をむいて訴える男性に、賀瀬は苦笑を返した。


「この人はそういうのじゃない。ちょっとね、なんとなく特別だ」


 は? と困惑する男性を、賀瀬は運転席にうながした。


「君の家まで送ろうか」

「いえ、けっこうです。ありがとうございます」

「本当に?」

 

 目を丸くする。断られるのが珍しいらしい。駒子は内心で少し笑う。この人は「本当に?」とよく言う。


「本当です。ではこれで、失礼いたします」


 お辞儀をすると、


「仕上がった写真、君の家に届けさせるよ。お楽しみに」

 

 賀瀬はそう言って、後部座席に落ち着いた。

 車が走り出し、小さくなっていく。そのときになって、駒子はふと思った。

 

(撮った写真、私の家にも届けさせるって言ったけれど、住所を知らないのにどうするのだろう……?)


 案外、うっかりさんらしい。せっかくの写真を見る機会を失って残念だが、なんとなくこれでよかったような気もした。

 気づけば、女中をクビになったことなんてどうでもよくなっている。騒がしい家に帰ることも、朝ほどは嫌ではない。

 駒子は雨上がりの虹を空に探しつつ、家路に向かった。



 * * *



 母による親戚筋への金の無心が功を奏して、島津家の年末年始はホクホクである。

 姉妹も母も希望の品を手に入れたうえ、知人の板前に作らせた贅沢三昧なおせちもある。そんなご機嫌なお正月も三が日を過ぎたとき、妹が美容院で借りてきた雑誌を広げた。


「あら。また〝不良侯爵〟の新しいお相手だわ。今度は歌手の宮脇勝子ですって!」

「まあ! わたくしにも見せてちょうだいな」


 姉も雑誌をのぞく。いつもであればここで終わる場面なのだが、今回ばかりは駒子も気になる。姉と妹の背後から、そうっと雑誌を視界に入れた。

 モノクロ写真の若い女性の横に、すらりとした男性の姿があった。それを見た瞬間、駒子は驚いた。

 どこからどう見ても、自分に変な顔をさせた当人だったからである。


(まさか、あの人だったなんてうそみたい)


 雑誌の写真におさまる賀瀬は、なんとも元気そうだ。そんな相手といっときでも同じ空間にいたと思うと、不思議な気分になってくる。

 しみじみと信じられない思いでいたとき、郵便配達員が来た。駒子が玄関に出ると、年賀状と封書を渡された。

 年賀状は母や姉妹宛で、封書だけが自分宛てであった。

 家族から離れて封書を開けた駒子は、二枚の写真にびっくりした。

 一枚は、自分だけの写真。眼鏡のない自分は、思いのほか凛とした器量でなかなかである。もっときちんと着飾れば、美人の部類に仲間入りできる可能性すら秘めているように思われた。


(え。私、こういう姿だったの?)


 そしてもう一枚は、おかしな顔をつくって映るバカげた男女である。

 福笑いの『ひょっとこ』のような表情の賀瀬に、失敗した『お多福』みたいなしかめ面をしている自分。

 

「ふっ」


 声を出して笑った駒子に、雑誌を見ていた妹が気づく。


「駒子姉さま、どうしたの。笑うだなんて珍しい!」


 駒子はとっさに写真を着物の胸に隠し、無表情を装った。


「なんでもない。足の裏がかゆくなっただけです」


 居間を離れて自室に入る。写真をあらためて見てからひっくり返すと、賀瀬からの一筆が添えられてあった。


 本当の自分を見た気分はどうだい? ――賀瀬 馨


「ふふ」


 駒子は笑う。案外悪くない。しかし?


(どうして私の住所がわかったんだろう)


 それだけは謎である。

 

 前途多難な年明け。無職であるし、島津家の借金は膨れるばかり。

 それでも、生きていればなんとかなる。きっと、なんとかなるはずだ。

 だって、こんなに不思議なことが起こったりするのだから。

 駒子は二枚の思い出を、文机の引き出しに大切にしまった。


 この日より数日後、駒子はクビにされた奥方から謝罪の手紙をいただいた。

 それによれば、夫の浮かれ具合は駒子の言ったとおり、奥方との旅行を計画していたからだったらしい。

 誤解から一転、駒子は無事に復職できることとなった。

 こうして丸くおさまった背景には、夫の知人に賀瀬がいたからなのだが(住所もそれで知ることにいたったらしいのだが)、そのことを駒子が知るのは、もう少しあとになってからである。


(おしまい)

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