私たちの魔法書庫
@qwegat
本文
机に向かって魔法文字の解読に勤しんでいたら、頭上から小さな音が聞こえた。
私が『ぱん』と『たん』の中間くらいに位置するそれに顔をしかめ、シャンデリア然とした照明が埋める天井に視線を移動する間にも、音は『ぱぱん』または『たたん』になり、それがさらに『ぱぱぱ』『たたた』へと移っていって、いつしか『ぱ』と『た』の区別すらなくなって、あっという間にそれらは―――雨音たちは、『ざばばばばば』としか言いようがないような轟音で、天井に猛攻をかけ始める。
虫唾が走る、と思う。理由は簡単だ、ここはどこかの異世界に存在する巨大な魔法図書館に立ち並ぶ膨大な書庫のうち一室で、少なくとも将来的にはそうなる予定なのだ。そして、どこかの異世界に存在する巨大な魔法図書館に立ち並ぶ膨大な書庫の天井に雨粒が打ち付けて、しかも生えつくした雑草に囲まれてぽつんと建てられた外装の禿げた倉庫みたいな音を上げるなど、あるはずがない。当然、あってもならない。
「……ふぅ」
自分をなんとかして抑え込もうとする。それによって頭上で起こりつつある世界観の破壊を受け入れようとする。
どうにか収まったような気もする怒りを勢いで振りほどいて、手元の本に視線を戻す。ところどころが橙に染みていたり、穴をあけられていたり、橙に染みて穴をあけられたりしている本だ。その上には変な形の鍵穴みたいな記号が大量に並んでいて、本をいくつか調べた感じだと、その筆跡は明らかに複数種類存在するようだ。
私はこれを『魔法文字』と呼んでいる。なぜ魔法かといえば、この本が魔導書だからだ。なぜ魔導書かといえば、本のページのところどころに、魔法陣みたいな見た目をした、怪しげな記号が描いてあるからだ。
ページをめくる時の『ぺらり』という音は雨音にかき消されてしまったが、私の心中では決して衰えず発生している。雨ごときに邪魔されてはたまらないと、魔導書の開拓をまた一歩進める。
しかし。
「……あっ」
思わず呟く。
厚さの感じからいって百ページ以上を残したまま、本の内容は途絶えていた。
『どこかの異世界に存在する巨大な魔法図書館に立ち並ぶ膨大な書庫のうち一室につながってるドア』を見つけたのは、一週間ほど前のことだ。
世の中にはそれはもう大量の雑草だらけの廃れた土地が存在して、このドアも、一見すれば生えつくした雑草に囲まれてぽつんと建てられた外装の禿げた倉庫に過ぎない場所で見つけた。
その小屋になんとなく並々ならぬ雰囲気を感じた私は、夏の日差しが照り付ける下で、そのドアを試しに開けてみた。何かしらの部品が軋む音とともに、案外にも重かったそのドアは開いて……室内に浅く積もった埃たちが、日差しに照らされてきらきらと、その年月を誇示した。なんだやっぱり生えつくした雑草に囲まれてぽつんと建てられた外装の禿げた倉庫じゃないか、と思い。私は少しだけ落胆つつ、ドアを再び閉めようとした。
しかし、ドアを閉めようと室内を改めて見渡したとき、私はそれを確かに見たのだ。
例によって埃に包まれた本棚に、どこか誇らしげに立ち並ぶ、まるで魔導書のような……いや、他ならない魔導書たちを。
「……またかぁ」
そう言って吐いたため息は、きっと雨音でもかき消せない落胆の色をしていたはずだ。というか、落胆の色をしていないため息なんてそうそうない。
このどこかの異世界に存在する巨大な魔法図書館に立ち並ぶ膨大な書庫のうち一室は、はっきり言ってしまえば未完成だ。そもそも未完成でなければ天井から雨音がするような不具合が発生するわけがないのだが、それを抜きにしても未完成だ。つまり……本棚に刺さっている魔導書のほとんどは、途中で執筆が止まっている。
なんだか先ほどより大きく感じる雨音に囲まれながらも、いかにも異世界っぽい木製の机の上に広げた魔導書から、傍らの大学ノートに視線を移す。ここまでの一週間の研究でわかったのは、魔法文字の筆跡にはだいたい五つほどのパターンがあること、魔法文字の文法は空白で区切られること、魔法文字そのものは最低でも六十四種類存在すること……あとは、魔法陣の表記から推察するに、どうやらどこかの異世界では十進法を採用しているらしいことくらいだ。
大学ノート上に存在する情報そのものはそれだけではない。『置き換え?』とか『大文字?』とか『句読点?』とか、胡乱な内容の走り書きも存在する。でも、その弱々しい形状を見ればわかる通り、それらはとても何かの理屈に基づいて出されたような思考とは言えないものばかりだ。『分倍河原』などの妙に力強い文字列もあるが、これはシンプルに寝言である。
「……やっぱ、イタズラだよね」
思考が、つい口をついて暴露されてしまう。雨たちはこんな時に限ってやけに静かで、その考えを現実から隠したりなんかしてくれない。晴れるのが近いのかもしれなかった。
そう……そうだ、実際のところ、この部屋はどこかの異世界に存在する巨大な魔法図書館に立ち並ぶ膨大な書庫のうち一室なんかではない。それどころか部屋ですらなくただの倉庫で、しかも雑草に囲まれている。
一週間前の私が確かにここに見たはずの、書架に立ち並ぶ無数の魔導書たちも……結局は、誰かが創作した幻なのだ。その実態は魔導書でもなんでもなく、それどころか未完成なのだから書物ですらない。
魔法文字だって、見たところ規則性こそあるようだけど、結局は暇な誰かが作り上げた、手の込んだニセ言語に過ぎないのだろう。筆跡については……筆跡については。
「なんで筆跡が五種類あるんだろう……?」
私は疑問に直面する。
真っ白のページたちを捲り戻し、再び現れる魔法文字の海に目を通す。この本には五つのうち四つの筆跡が登場するが、それらは入り混じっているのではなく直列的に配置されている。要するに第一章では筆跡B、二章ではC、三章ではDで四章ではE、という具合だ。もちろんここまできれいに分かれているわけではないが、例えば第二章にEが登場したり、第三章にBが登場したりといったことはない。つまり……『順番』が決まっている。
「……もしかして」
机の上に散乱する、同じく未完で終わった本たちを調べる。いずれの本も、魔法文字がABCDEの順で並んでいる。Cから始まったりDから始まったりすることはあっても、順番そのものは決して入れ替わっていない。つまるところ……魔法文字の筆跡は、複数の人間が、順々に本たちの執筆を進めた結果なのだ。
彼らは、どうしてそんなことを? 他でもない自分自身が、それをよく知っているはずじゃないか。
私は沈黙する。それは思考の、同時に決意の沈黙だ。
「……よし」
そして、立ち上がる。
この部屋はイタズラだ、それは間違いない。一度雨音が聞こえた時点で、イタズラであることは完全に確定して、私には決して覆せない。だけど……未来の人間にとってなら、どうだろう? つまり、もしも私が何かの行動をしたら。雨音が聞こえないように屋根に工夫をしたら。溜まり切った埃を払えたなら。魔法文字を研究して、きっとある意味を理解して。それで新たな筆跡Fを、この本たちに刻んだなら。
そうして私が、あるいは私ではなくてもいい、それよりさらに来るGでも、Hでも、Iでも、誰かしらが部屋を整え切った後。何かの筆跡によって魔導書たちにピリオドが打たれた後。そのうえでまた別の人が私のように、この倉庫に訪れた時。
そのときこの部屋は、どこかの異世界に存在する巨大な魔法図書館に立ち並ぶ膨大な書庫のうち一室として、完成するのではないだろうか。
大学ノートに目を落とす。魔法文字たちの中に再び飛び込む。そこに書かれているのが何か解読して、そこに続きを付け足すために。AとBとCとDとEが残した私たちの魔法書庫を、もう一歩完成に近づけるために。
気づけば雨音は聞こえなくなっていて、どこかの異世界の晴れた天気が、図書館を包み込んでいた。
私たちの魔法書庫 @qwegat
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