——十月二日(月)午前一時四十七分——

 近ごろこのノートを開くのが、少し、怖くなってきています。

 妊娠も、消えたのことも、それに派生する諸々の事柄も、わたしがすべてを明かしているのはこのノートだけ。ためらう必要もなく、ありのままの自分を曝け出せる場所があるのは頼もしいようでいて、その実、妙な不安に取り憑かれることもあります。

 これまで胸の内で黙殺されてきた様々な想いが紙の上に写し取られ、やがて筆を執るわたし自身の制御をもきかないように勝手に独り歩きする。自分はこんな風にものを見、感じる人間だったのだろうかと、読み返すたび違和感を覚えずにはいられません。

 このノートの中には、わたしの知らないわたしがいる。それは、自己の俯瞰というより、別世界に存在するを掌握する行為に近い。上手く伝わるかわからないのですが、「読み返すたび、他人の日記を盗み見しているような後ろめたさに襲われる」と言ったら、先生の理解の手助けになるでしょうか?

 もしかすると、この違和感こそ、MPDという治療ツールの狙いなのでしょうか? だとしたら今後わたしは、と共にどこへ向かっていくのでしょう。先生はなぜ、あの日以降このノートに関してなんの言及もしないのですか? 特別な意図があって、あえてわたしの前で素知らぬふりをしているのですか? クリニックの予約日前夜になると、わたしは決まって軽いパニック状態に陥ります。診察の途中、不意に先生が「そういえば、初診の時に渡したあのノート、その後どうしましたか?」なんてこちらに水を向けてくる。その瞬間を想像すると気が高ぶって喉がからからになり、呼吸さえ苦しくなってくるのです。

 

 の一件があったからでしょうか。わたしは最近、血のつながりと、それが人の一生に及ぼす力についてよく考えます。

 以前お話ししたことがあったかもしれませんが、わたしは今、姉夫婦と一緒に暮らしています。

 姉には小織さおりという生後半年になる女の赤ちゃんがいて、不思議な偶然なのですが、逆算すると、わたしたち姉妹はほぼ同時期に妊娠し、一方の子が生まれた頃、それと入れ替わるようにもう一方の子が消えたことになります。

 もちろん、姉はこの事実を知りません。ただ、わたしは小織のことがとても愛おしく、その温もりを腕の中に抱きしめるたびに、「消えたあの子もきっと女の子だわ」と確信めいた想いに憑かれます。

 もともとわたしは子供が苦手で、はじめて小織と対面した際も、小さい命への情愛などまるで湧かず、それどころか、軟体動物のようなその肢体が不気味でたまりませんでした。ふつう人は、自分の姪に対してどのような感情を抱くものなのだろう? そんなことを思い巡らし、首を傾げるばかりだったのです。

 それが今はどうでしょう。小織と消えたあの子はわたしの中で一つになり、それぞれへの想いが相乗効果となって母性という包括的な愛に結びついている。それは、わたしが今抱えている諸々の問題(眠れぬ夜の苦しさや、先が見えない未来への不安など)を蹴散らすほどの力を持っているのです。これから先も、小織(=消えたあの子)の成長を見守りながら、この家でずっと暮らしていけたなら——ふと、そんな考えさえ頭をよぎります。

 そもそもわたしと姉が、今こうして一つ屋根の下で暮らしていること自体、不思議でなりません。実を言うと今回のことがある前、わたしたち姉妹は長いこと音信不通でした。それはもはや、互いの生存さえ確認できない隔たりだったのです。

 だからついこんな風に考えてしまいます。すべてはの導きなのだ。がわたしと姉を引き合わせたのだ、と。


 姉は現在、北海道の道東にあるY高原でペンションを経営するかたわら子育てと家事に追われています。自ずと出来上がってしまった役割とでも言いましょうか、わたしも姉をサポートすることに毎日忙殺され、早朝からペンションの雑事、その合間に小織の子守り、ふと気づけば夜……とまあこんな具合です。身体の不調を抱えながらこうした日々をやり過ごすのは、正直辛いことも多いですが、そうすることで居候の立場を後ろめたく思わずに済みますし、だいいち何もせずベッドの中にいても症状が改善するわけではないのです。姉もわたしの病気のことは知っていて、「できる範囲でやってくれればいい」と気遣ってくれています。

 義兄は獣医で、酪農が盛んなこの集落の牧場を、ほぼ一人で担っています。牛が産気づくと昼夜問わず出かけていき、帰りはいつになるか分からない。人間を診る医師も大変ですが、動物は言葉を話せないので、その診察や治療にはより優れた観察眼と忍耐力が必要とされるでしょう。その意味において、わたしも彼に一定の敬意を抱いてはいるのですが、熊のような体躯に髭だらけの顔、気難しげな眉間の皺とメガネの奥の鋭い瞳、お世辞にも清潔感があるとは言いがたい薄汚れたつなぎ姿を目の前にすると、どうしてもうつむきがちになってしまう。

 でも、だからといって彼との仲が険悪なのかといえば、そんなこともないのです。多忙を極める仕事のせいで義兄はほとんど家にはおらず、たまにわたしと顔を合わせても軽い挨拶をかわすだけ。つまり、互いの相性の良し悪しを判断できるほど、わたしたちはまだ関わっていないのです。

 去年の今ごろは、自分が北海道に移り住むなんて、想像だにしていませんでした。不眠による心身の不調に押しつぶされそうになっていたのは確かです。このままではいけない、いずれ大学に休職願いを出すか当直のない別の病院に移るかして、体調の改善に努めなければ。焦燥は常に心の一部を占めていました。しかしその後次々と起こった思いがけない出来事は桁違いの破壊力を持ち、舵取りのきかない小舟を翻弄する大波のごとく、わたしを未知なる世界へ押し流していったのです。

 思いがけない出来事——そう、あの日姉からかかってきた電話も、まさしくその一端だと言えるでしょう。

 

 それは、大粒の雨が窓ガラスを打つ、六月初旬のある肌寒い午後のことでした。呆れるほど雨は連日降りつづき、薄暗くぼんやりとした大気の中で、わたしは時間の感覚を失っていました。大袈裟ではなく、ふと目をやった時計の「五時」が、朝夕どちらなのか分からないことがよくあったのです。

 携帯電話に見覚えのない番号の着信があるのに気づき、留守番メッセージの表示をタップすると、再生されたのは女性の声でした。

〈遥子? わたしだけど……〉

 頬が強張り、心臓に軋むような痛みが走りました。遥子——いったいどれほどの人が、わたしのことをそんな風に呼び捨てにするでしょう。思い当たる人物は一人しかいません。わたしはそれを続けて三度聞き、数時間置いてからもう一度聞きいた後、確信しました。これは姉だ、と。

 黄泉の世界から託け《ことづけ》を預かったような、妙な気分に襲われていました。耳に入ってくる声と記憶の中の姉の面影がまるで結びつかない。無理もありません。姉がわたしの前から消えたのはもう二十年も前のこと。二人がそれぞれ十八歳と十二歳の時でした。過ぎた時間は記憶を風化させ、姉はわたしにとって、すでに故人のような位置付けとなっていたのです。

 さんざん迷った挙げ句こちらから電話を折り返すと、姉は時間の隔たりなどまるで問題にしていないように、義兄の仕事の都合で北海道に移り住んだこと、春先に出産し現在は子育てに大わらわなこと、七年前に自宅を造築してはじめたペンションがこれから繁忙期を入ること、などを切れ目なく一方的に話し、最後に、「こっちに手伝いに来てくれないかしら? どうせあなた、今は仕事もせず暇を持て余してるんでしょ?」と言い置いて、こちらの返事も待たずに電話を切ってしまいました。

 姉はわたしの携帯番号をどこで入手したんだろう? 最初に頭に浮かんだのはそのことでした。しかもその口ぶりから、姉はわたしが大学を辞めたこともすでに知っているようなのです。

 わたしと姉の間を取り持つ人間、と思いを巡らせてはみましたが、両親は二人ともすでに他界していますし、共通の知人もおりません。そもそもわたしには友達らしい友達などいないのです。ふと思い立って、『黒田遥子』をネットの検索エンジンにかけてみましたが、目ぼしいものは何もヒットしませんでした。当然と言えば当然です。わたしは平凡な一庶民で、SNSの類も一切やっていない。個人情報が巷に流れるわけはないし、その需要もないはず。

 姉のところに行く? 一つ屋根の下で一緒に暮らす? 時間が過ぎるほどに、ことの異常さがその輪郭を露わにしていくようでした。姉と向かい合って食事をしたり、一緒に買い物に出かけたり、家事や子守りなどのあれこれを分業をしたり……そんなこと、あるはずがない。両親の葬式にさえ、姉は列席しなかったのだ。それが今になって連絡をよこしたのは、いったいどんな了見からなのか。

 姉に直接問う以外、真相を突き止める術はありませんでした。けれど結局、わたしはそうしなかった。恐ろしかったのです。オペの失敗、予期せぬ妊娠、怪異とも言える胎児の消失、そして、二十年もの歳月を経て突然現れた姉……。各々は全く関係のない、たまたま同時期に起こった出来事に違いありません。でももし、そうじゃないのだとしたら? 人知の及ばない超自然的な力が意図的にこれらを引き起こし、今後わたしを待ち受ける、さらに悍ましい事件の序章として提示しているのだとしたら? 

 姉のところに来て、はや四ヶ月。いまだ、何かの拍子に考えるのです。わたしは大切なことを見過ごしてるのではないか? 決して引き返すことのできない深い闇の一点に向かって、すでに歩み出しているのではないか?

 

 今は見る影もありませんが、姉はその昔、天才少女と謳われた若手バイオリニストのホープでした。幼少から非凡な才能を発揮し、中学にあがる頃には、音大生をはじめプロを目指す若き音楽家が、その登竜門としてエントリーする国際音楽コンクールに史上最年少で優勝したのです。

 姉はわたしにとって、希望そのものでした。周囲の誰もがその神童ぶりを賛え凡庸な妹のわたしを蔑ろにしても、まったく気にしませんでした。それどころか、姉の素晴らしさを少しでも多くの人に喧伝したいと、自ら引き立て役を買って出ていたくらいです。 

 毎朝、その日一日の姉のスケジュールを確認し、姉の帰宅前には必ずレッスン室の掃除を済ませておく。バイオリンは非常にデリケートな楽器なので、空調にもよく気を配ること。サイドテーブルのメトロノームはねじをしっかり巻き、譜面台は窓から一メートル離れた右側四十五度の位置へ。楽譜は基礎教則本、エチュード、ソロ、アンサンブル、コンチェルトの順に重ねて置く……。姉のために何をすべきなのか、どうしたら姉が喜んでくれるのか。頭の中は常にそのことでいっぱいでした。

 数ある仕事の中でわたしが最も重要だと考えたのが、バイオリンの弓毛に松脂を塗ることでした。楽器ケースが開けられ、姉のしなやかな指が弓を取る。わたしは待ち兼ねたようにそれを譲り受け、慎重且つ丁寧に松脂を塗っていく。透き通った琥珀色の固形物に弓毛を近づける時、わたしの緊張は極度に高まります。当然です。バイオリンは姉の分身なのです。失敗は許されないのです。こつさえ掴めば誰にでもできる単純作業ですが、当時のわたしにとってそれは、自分だけに許された特別な儀式でした。

 花柄の壁紙と小さな出窓、くすんだ銀色の譜面台、落日のような光沢をたたえたバイオリン、風になびくと金色になる姉の後れ毛——そんな絵画的空間を、わたしの塗る松脂のアンティークな香りが包む。姉の奏でるバイオリンはわたしにとって『天使の翼』でした。願いさえすれば、どこでも好きな場所へわたしを連れて行ってくれる、自由の翼、救いの翼。

 姉がバイオリンをやめたのは、あまりに突然のことでした。家族の誰に告げることもなくそれまで特待生として研鑽を積んできたパリの国立音楽院を中退し、当時まだ獣医になりたてだった義兄と結婚したのです。当然、両親が賛成するはずもなく、結果的に姉は、駆け落ちのようにしてわたしたちの前から姿を消しました。

 音楽と獣医学。接点などまるでなさそうな道を歩んでいた二人を引き合わせたのは何だったのか、わたしには今でも分かりません。でも、そんなことはもはやどうでもいい。重要なのは、姉が幼少からあれほど熱心にやりつづけてきたバイオリンを、義兄との出会いによってあっさり捨ててしまったことにあるのです。

 何かの間違いだと思いました。わたしたち姉妹には、目には見えなくともしっかりとした意識の交感があると信じていたから。姉がわたしに何の断りもなくバイオリンをやめてしまうなんて。わたしを置き去りにして他の誰かのもとへ行ってしまうなんて。結婚なんて嘘だ。表向きはそんな風に語っていても、もっと特別で複雑な事情があるに違いない。

〈結婚? バカバカしい。誰がそんなことを言ったの? 訳あって学校は中退したわよ。でも、だからといって、バイオリンそのものをやめるわけがないじゃない。水のない所で魚が生きられる? そういう話だと思うけど。そんなことよりも遥子、わたし、来春にヨーロッパ各地で演奏会が予定されているの。あなたも春休みのあいだいらっしゃいよ?〉

 軽く唇を尖らせ、おどけたように、でもどこか得意げに語ってみせる姉の姿が思い浮かびました。

 大丈夫、姉は勝手にいなくなったりしない。『天使の翼』が、わたしを裏切るはずがない。これからもレッスン室の掃除は毎日欠かさずやろう。姉がいつ帰ってきてもいいように——わたしは自分自身を繰り返しそう説き伏せました。

 一年、二年と月日が過ぎ、そのあいだ姉からはなんの便りもありませんでした。病気にでもなったのだろうか。あるいは事故で重度の障害を負っているとか? 思いきって両親に訊ねてみようかとも思いましたが、家の中に醸し出される「今後、姉の話題はタブー」という空気が、わたしにそうすることを許さないのでした。

 さらに数年。もしかしたら、姉はもうこの世にいないのかもしれない。そんな思いがふと頭をよぎるようになりました。でもその都度、かぶりをふって自分をこう奮い立たせたのです。弱気になってはいけない。姉を信じ、待ちつづけると決めたのだから。いまさら天使の翼を手放すなんて、できはしないのだから。

 そうして丸六年が過ぎたころ、いつものようにレッスン室を掃除していたわたしは、ふと、あることに気づいたのです。部屋に染みついていた松脂の匂いが、知らず知らずのうちに、綺麗さっぱり消え失せている……。

 耳元で、誰かがこんな風に囁く気がしました。

〈あてのない希望にしがみつくのは、心が腐るのを待つのと一緒——〉

 わたしは十八歳。すでに姉が結婚を決意したのと同じ歳になっていました。春からは遠く離れた町の医科大学に進学することが決まっていて、そうなったらこの部屋の手入れは誰がするのかと、相も変わらずそんなことばかり考えて日々を過ごしていたのです。

 でも、その時反応した嗅覚は確かな実感を伴って、わたしにある残酷な事実を突きつけました。主人あるじのいない部屋を美しく保つことに囚われるうち、それまでの人生の三分の一が、いたずらについえてしまった……。

〈あてのない希望にしがみつくのは、心が腐るのを待つのと一緒——〉

 姉はもう、戻ってこない。わたしはその事実を受け入れなければなりませんでした。自分の心が、腐り切ってしまう前に。


 わたしだけでなく両親にとっても、姉は心の拠り所でした。思い起こせば、わたしたちは皆、危うい家族間のバランスを、姉と姉の弾くバイオリンによってどうにか保っていたのです。頼れるべきものはもう他にない。ここから決して手を離してはいけない。それを各々が本能で感知し、姉を取り囲んでいました。


 わたしの父は医師でした。そのことを誰かに語ると、わたしが父のことを敬愛し、それ故に同じ道を歩んだのだろうと早合点する人がいますが、決してそんなことはありません。わたしが医師を志したのは、両親の呪縛を離れるのに一番安全で確実な手立てを模索し、消去法を重ねた上で、最後に残ったものがそれだったからです。

 父のことを考えると、わたしは今でもやり切れなさに心が塞がれ、自分の命がひどく無意味もののように思えてきます。目蓋の裏に浮かぶ父の幻影に、「お前に安住の場所はない。お前の望みなど何一つ叶わない」と言い渡される気がするからです。

 父は家にいる時間のほとんどを書斎に籠り、音楽を聴きがら酒をあおることに費やしていました。食事の際もそこを離れず、家族との団欒などはなから眼中にない。八畳ほどの部屋にはレコーディングスタジオさながらの音響機材が備え付けられ、毎夜恐ろしいほどの大音量で交響曲やオペラが何本も流される。

 世の中には何か特定の事物に偏執的愛情や無尽の情熱を注ぐ、いわゆる『△△マニア』と呼ばれる人がいますが、父の場合、その奇行は単なる『クラシックマニア』で見過ごせるほどなまやさしいものではありませんでした。そもそも父は、クラシックにそこまで深い造詣があったのかどうか。子供のわたしでも分かる間違い(シベリウスをロシア人だと言い張ったり、R・シュトラウスとJ・シュトラウス二世を混同していたりなど)がたびたびありましたし、音源のコレクションもオーディオシステムの豪華さから比べるとずいぶん見劣りするものでした。それに書斎にいる時の父はたいていアルコールによる混濁した意識の中にいて、音楽鑑賞などまともにできていたとは思えません。

〈嘆かわしいわね——〉

 姉はたぶん、そう言いました。ある晩、酒臭い息を吐きながらふらふらとトイレに向かう父と、廊下ですれ違った時でした。たぶん、と書いたのは、その時突然起こった爆風のような音のうねりに、姉の声がかき消されてしまったからです。ドアが開け放たれたままの父の書斎からは、ショスタコーヴィッチ作曲『ムツェンツク郡のマクベス夫人・第二楽章パッサカリア』の冒頭がけたたましく鳴り響いてきました。

 思わず両耳をおさえてその場にしゃがみ込んだわたしを、姉が抱き抱えるようにして自身のレッスン室へといざなってくれました。部屋のドアがパタリと閉じたとたん、それまで両肩にのしかかっていた音の重圧がするりと抜け落ち、代わりに姉の手の温もりがそこを覆いました。

「パパは堕落しきってるのよ。自分をとことんいじめ抜いて、もう何も考えられないくらい追い詰めないといられないんだわ。可哀想にね……」

 いったい何を言ってるんだろう? わたしには姉の言葉がまるで汲み取れませんでした。憐れむべき人を見誤ってはいないか? 酔った父の姿が視界に入っただけで息が詰まり、身動きできなくなるほどの恐怖に怯えている妹が、今目の前にいるではないか。

 わたしが極度に口数の少ない(知能に欠陥があるのではないかと疑われたほどです)、感情表現の乏しい子供だったのは、環境がもたらした当然の成り行きでした。

 人間にとっての言葉と情操は、森でいうところの樹林と水脈の関係に似ています。それぞれが互いを支え養うことで、より大きくて豊かな、揺るぎない命の循環へと結実する。いつ暴発するか分からない音の凶器と、それに引きずられるようにしてふらふらと歩く父の姿は、わたしがわたしになろうとする力、いわば感性の水源とでも呼ぶべき場所をことごとくらし、そこから芽吹くはずの言葉を根絶やしにしました。

 先生、わたしの言ってることって被害者意識の塊ですか? 何もかもを親のせいにし過ぎてますか? でも、考えてみて下さい。無邪気に感情を表したくてもその受け皿がない。路肩に咲く可愛い花をしきりに指さしても、濁った目をした父親は不反応のままそれを踏み潰してゆく。「もっと笑顔で! 元気よく!」「楽しくないの? それとも体調悪い?」「こんな怪我をしても泣かないなんて強い子ね」「いったい何を考えているの?」——学校で教師に言われるたびに思いました。笑うってどうやればいいの? 元気って何? 怪我すると人は泣くものなの? 人が何を考えているかなんて、そもそも分かるものなの?

 素面しらふの時の父は、いつも何かに怯えていました。人と関わるのを極端に嫌い、家族に対しても、まるでそこにいないかのように振る舞う。不意に互いの視線がぶつかった時は、落ち着きなく瞬きを繰り返し、口元を痙攣させ、油の切れたの機械のように不自然な動きでその場を立ち去ってゆく。その様子はいかにも奇妙で、血の通っていない、動く蝋人形のようにわたしの目には映っていました。書斎のリクライニングチェアに身体を預けたまま、次第に溶け崩れてドロドロになってゆく。そんな父の姿を、当時は幾度となく想像したものです。

 それでも酔っていないうちはまだましで、いったんアルコールを口にすると、父はそれまでとは打って変わった、悪魔的陰翳を身にまとうのでした。暴力をふるうとか、怨みごとを繰り返すとか、理不尽な言いがかりをつけてくるとか、そういうたちの悪い酔っ払いにありがちな醜態とは違う。振る舞いは平生よりむしろおとなしいくらいなのに、こちらが怖気おぞけで動けなくなってしまうような禍々しさが透けて見える。喩えるなら、その呼気に他者の精神をおか毒気どっきが含まれている感じ。その皮膚から多種多様な負の感情が粘ついた棘となって飛び出している感じ……。

 父という人をイメージする時、わたしの脳裏に浮かんでくるのは、気弱な顔でその場を立ち去る骨ばった背中か、魂ごとからめとられそうな鈍く禍々しい眼光。そのどちらかしかありません。


 母はわたしが物心つく頃すでに、とある新興宗教の敬虔な信徒となっていました。教団の活動に熱心に取り組み、週末はたいてい家にいない。小学校に入ったころからわたしも母に連れられて祈祷会や勉強会に参加するようになり、大きな催事の際には他の信徒たちに混ざって炊き出しやバザーの手伝いに駆り出されたりしました。

——このことさえ知っていれば、未来などまったくもって恐るるに足りません。言い換えると、これを知らずしてあなた方に真の幸福は訪れない。知力、財力、名声……これら世俗的成功と心の安寧は必ずしも結びつきません。ひとたび往来に出れば、そこは魑魅魍魎。嫉妬、憎悪、欺瞞、謀略、災疫など、厄難は石ころのようなさりげなさであちこちに転がり、あなたを躓かせ、それまでの生活を一変させようと目論んでいるのです。思い悩み、自分を見失いそうになった時、大切なのは枝葉末節にとらわれないこと。すなわち原則に立ち返えることです。

 

 ではこのとは何なのでしょう? 一言で言えばそれは、あらゆる生命、森羅万象のもととなっている力。我々はそれを『創造主ヤハウェ』と呼んでいます。古くからこの名は唯一神として他宗教でも登場しますが、我々が崇める創造主ヤハウェはこれとは似て非なるもの。聖典、神話、スピリチュアルなどにありがちな抽象イメージではなく、量子力学の見地からその存在を確認できる物理的エネルギーなのです。ただ残念なことに、科学はまだ万能ではありません。今から約百三十八億年前にビックバンが起きたことは提唱できても、それ以前の宇宙がどんな場所だったかは分からない。そういうことです。

 科学の足らぬところを補い、創造主ヤハウェの何たるかをさらに教授してくれるものは他にないのか? 我々は偉大なる先人の智慧を借るべく古代からの文献を精査し、そして一つの真理に到達しました。天神合一てんじんごういつ思想——これは、生けとし生けるものがみな創造主ヤハウェの一部だということを意味し、それと同時に、我々一人一人の中にも創造主ヤハウェが既存していることを意味します。……なんのことかさっぱり理解できないというお顔をしていますね。無理もありません。現代人に刷り込まれた『個』という概念が、真理への到達を阻んでいるのです。今の段階では、わたしの話がしっくりこなくとも結構です。そもそも働かせるのは頭ではない、魂です。『個』の殻を破った先に現れてくるそれまでとは違う自分、創造主ヤハウェに内包されている自分、創造主ヤハウェを内包する自分。これらを体感できた時、あなたの人生に不安や恐れはなくなります。真の幸福が訪れるのです。

 逆に、創造主ヤハウェに背いた思想や行為はあなたを破滅させます。世の中に溢れる不条理な不幸や災難は全てこれに起因しているのです。創造主ヤハウェは万能です。不軌ふきを見逃すことは絶対にありません。いいですか? です」

 母は教団の広報役員として聴衆の面前でよく講説を行いました。もともと美しい人でしたが、創造主ヤハウェについて語る時はそれがさらに際立ち、娘のわたしでも思わず見惚れてしまうことがありました。澄んだ水のように光を弾く肌、夜の樹海を思わせる深い瞳、知性の奥深さを漂わせた眉と鼻梁、親しげに語りかけてくるチャーミングな唇……その姿は創造主ヤハウェの高潔さをそのまま体現し、見ている人々の心を打ったのです。

 子供が生きる世界というのは、目に触れるもの耳にするものがごく限定的な、狭い世界です。彼らはそのぶん、大人にはない感受性や洞察力を有してはいますが、判断の基準はたった一つの物差しに委ねられる。親です。心のどこかで親の思考や習性に違和感や嫌悪感を覚えても、子供は結局それを肯定するしかない。そうしないと、自分とそれを取り囲む世界のあり方がことごとく歪んでしまうから。虐待を受けている子供の多くが親を庇い、悪いのは自分の方なのだと誤った自戒に走るのもそのためです。

 わたしが母の異常さに気づいたのも、ずっと後になってからでした。小学生のうちは朝晩にやるお祈りの儀式もさほど苦痛ではありませんでしたし、教団の行事や催事にも半ばお遊び気分で出かけていました。街頭での宣教活動中に学校のクラスメイトと遭遇した時は気まずかったですが、それさえどうでもいいと思えるくらいに信徒の人たちはみな優しく、わたしを可愛がってくれた。何より、まばゆいばかりに美しい母のことが、わたしには自慢だったのです。

 そんなわたしとは違い、姉は母の信仰のいっさいに踏み込もうとしませんでした。表立った批判はしなくても、自分が興味のないこと面倒なことには決して組み込まれない。

福音符チャーム』はそのいい例だと言えるかもしれません。それは教団が信施しんぜの見返りとして信徒に配る呪符じゅふの一つで、表に金糸で『ともしび』と刺繍された名刺サイズの紺色の布袋でした。母は首から下げられるようそれに紐を通し、「お風呂の時以外、肌身離さず身につけているように」と娘二人に念を押すのですが、律儀に言いつけを守るのはわたしの方だけで、姉は「神さまにはわたしの一番大事なものを護ってもらうことにするわ」と、何食わぬ顔でそれをバイオリンケースの隅に押し込んでしまうのでした。

 万事がこんな調子なのに、母は決して姉に腹を立てたり、その態度を咎めたりはしませんでした。むしろ従順なわたしの方が、創造主ヤハウェに対する振る舞いや信仰心の真偽をたびたび問いただされ、場合によっては手をあげられることもあったのです。

 あれは確か、わたしが小学四年の頃。学校から帰り自宅の玄関ドアを入ったとたん、いきなり母に頬をたれたことがありました。何が起こったのか分からず呆然とその場に立ち尽くしていると、母はわたしの手を引っ張り強引にリビングに連れていきました。

「燃やしなさい」

 ぞっとするような冷たい声がして、母が一枚の写真を差し出します。

「この世界の正義は創造主ヤハウェだけだと再三あなたに諭してきたわね? なのになぜ、こんな穢らわしいものに近づいたの? 表面では従順なふりをして、その実、陰ではわたしを裏切っていたのね。なんて根性の捻じ曲がった嫌な子なの」

 それはわたしが学校のバス旅行で鎌倉を訪れた際、クラス全員と撮った集合写真でした。母が問題にしたのは背後に映る大仏で、「神=創造主ヤハウェとは人知を超えた万能エネルギーのことで実体などない」とする教団の教えに著しく反するものだったのです。

 痺れを切らしたのか、母はマッチを一本擦って写真に火をつけると、ソファーテーブルの灰皿にそれを落としました。炎はそこに映る人たちを舐め取るように揺らめいて黒い残骸に変えていきます。

「ごめんなさい……」

 わたしができるのは、ひたすら許しを乞うことだけでした。ごめんなさい、成り行きで周囲の行動にならってしまっただけなんです、もう二度とこんなことはしません、約束します、だからどうぞ許してください——。

「……そう。なら、あなたは周囲に唆されたというのね? 自分にまったく非はないと」

 返す言葉がありませんでした。もしここで誤ったことを言えば、それこそ取り返しのつかない事態を招きかねない。母は矢継ぎ早に捲し立てます。同じクラスの子供たちが低俗過ぎるわ、今後は一切付き合いを許しませんからね、だいたい担任教師の管理が杜撰すぎます、さっそく明日学校に行って校長に談判を……いや教育委員会の方が先かしら? とにかく困った時あなたがすべきは創造主ヤハウェのお導きに従うこと、そうすれば解決の糸口は見つるのだから——。

 わたしは母の前にひざまずき、自分の肩を抱くように両腕をクロスさせてから額を床につけました。神さまに祈りを捧げる際の礼法でした。頭の中に、こんな一節が浮かんできます。

なんじまどふべからず。ひとへに信心しんじんに励みたまへ。さすればそこに道あらむ〉

 母をはじめ多くの信徒が折に触れて口にするため、わたしの記憶にも刷り込まれていた言葉でした。

 しばらくして平伏した頭を恐る恐る上げると、そこにはいかにも満足げな笑みでこちらを見下ろす母の顔がありました。「よくできました」と、判子を押されたような気分でした。


 コンクールでの優勝以降、姉の周囲はにわかにざわつきはじめました。雑誌やテレビで『日本クラシック界に彗星あらわる!』などとうたった特集が組まれ、それを機に演奏会やCDの発売までもが企画されるようになったのです。

 そのことはわたしたち家族の間にも少なからず変化をもたらしました。父は姉の練習に配慮してステレオの音量をしぼるようになり、母も教団関連の外出が減って姉のための夜食やステージ衣装の準備に時間を割くようになりました。

 外聞などまるで気に留めない様子だった両親が、姉を風穴かざあなにした新しい気流に身を委ね、生活を改める。不思議でした。彼らが何を拒み、何に迎合するのか、その基準がわたしにはさっぱり判らない。ただはっきりしているのは、わたしに姉の真似はできないということ。姉以外の誰があの両親の思考を転換させ、その行動に制限などかけられたでしょう。

 馴染みのない『平穏』という舞台の上で、家族の各々がわざとらしくを演じる。いかにもぎこちない日々ではありましたが、日常生活というものは、真実が突きつける渾沌よりも、虚構に彩られた安寧の方に遥かに高い親和性を持ちます。少なくともわたしにはそうでした。呼吸する、食べる、排泄する、眠る。生命維持に不可欠なこれらの事柄が、滞りなく淡々とやり過ごせればそれでいい。他に望むことなど何もない。

 ただそんな割り切りの良さも、根底にはそこはかとない不安がありました。こんな平穏がいつまでもつづくわけがない。しわ寄せはいつか必ず襲ってくると。

 事件が起きたのはある日曜の午後、姉が某音楽大学主催の特別公開レッスンを受講しに遠方へ泊まりがけで出かけている時のことでした。

 姉はまだ中学生だというのにどこに行くのもたいてい一人で、よっぽどのことがない限り母が帯同するのを拒みました。いつだったかわたしがそれについて訊ねると、「レッスンを受けるのも、演奏をするのもわたしでしょ? わたし以外の誰がそこにいる必要があるの?」とそっけなく返答されました。今でも時々思うのです、もしわたしたちが普通の家族で、あの日母が姉と連れ立って出かけていたら、あんなことにはならなかっただろうに、と。

 姉の不在が長引くと、家の中はたちまちその綻びを露にします。実際その日も、休日の午前中だというのに、モーツァルトの『魔笛』が耳を塞ぎたくなるほどの大音量で流され、それをまるで気に留めず立ち働く母の側には『ともしび』と書かれた教団の小冊子がうず高く積み重なっていました。

 何がきっかけだったのかは分かりません。気づくと、ソファに腰掛けていたわたしの背後で、父が怒鳴り声をあげていました。辺りに響くソプラノのけたたましい歌声に塗り潰され喋っている内容までは分からないものの、母に向かって目をひん剥き前のめりになったその姿が、彼の憤怒の激しさを物語っていました。驚きました。父がそんな風に猛り立つ姿を、わたしはそれまで見たことがなかったのです。しかもその顔に、酒気はまったく見当りませんでした。

 眼前の光景は、さながら無声映画のワンシーンのようでした。キャストにセリフは一切なく、BGMと身振り手振りだけが彼らの心情を代弁する。はじめは父の勢いに気圧けおされているだけだった母も相手のやり方に毒されたのかいつしか反駁の体勢を固め、それを見た父がさらに逆上していく。辺りに鳴り響く夜の女王のアリア『復讐の心が地獄のごとく我が心に滾り』が、きな臭い二人の掛け合いをどこかコミカルに演出していました。

 女王は歌います。

〝復讐の心が地獄のごとく我が心に滾り、死と絶望の炎が辺り一面に燃えさかる〟

 不思議でした。父も母も、これまで見知ってきたどんな二人よりも生々しく、嘘がないように見える。口づけを交わすかのように相手に接近したかと思うと、不意にその肩を突っぱね、またしばらくするとどちらともなくにじり寄り……の繰り返し。男がダイニングテーブルの『灯』を引っ掴んで床に叩きつける。女は発狂したように頭を掻きむしり、その胸ぐらをつかむ。組んず解れつするうちにそれぞれの手脚は知恵の輪のように組み合わさって、踠けば踠くほど複雑に絡み合い離れられなくなる。

〝お前は永遠に見棄てられるのだ! あらゆる絆を断ち切られるのだ!〟

 無声映画の世界に極めて異質な効果音が差し込まれたのは、その直後でした。母の頭蓋骨が砕ける音です。実際、そんなものが聞こえるはずもありません。けれどその時、聴覚とは違う別の何かが骨伝導のようにわたしの内部を貫き、確かな手応えをもたらしたのです。父の手にはいつのまにかヘルメットが掴まれていました。自転車に乗る際、わたしが常用していたものです。白い硬質の球体は、母の頭部や顔面めがけて何度も振り下ろされました。悲鳴が轟き、血があちこちに飛び散り、力尽きた殉教者が赤黒く腫れあがった顔で「神さま、神さま」と助けを乞う。けれど無情なことに、彼女への攻撃が緩むことはない。

 なんじまどふべからず。ひとへに信心しんじんに励みたまへ。さすればそこに道あらむ——創造主ヤハウェは信じる者を決して裏切らない。母は繰り返しわたしにそう諭してきました。もしそれが本当ならば、今こそ母は救われるべきではないか。わたしは自分が偉大なる霊験れいげんの証人になる様を想像しました。創造主ヤハウェがどのようにしてそこに現れ、虐げられた信徒に救いの手を差し伸べるのか。それを目撃することを考えると、期待と興奮で顔が上気してくるのが分かりました。

 ……と、不意に何かが弾けたように家の中からすべての音が消え、直後、人間とも動物とも判別のつかない雄叫びがわたしの鼓膜をつんざきました。

(もしかすると、これが創造主ヤハウェの声?)

 そう思って振り向くと、そこにはバイオリンを構えた姉が立っていました。

(なんだ、神さまが現れたわけじゃないのね……)

 落胆しかけたわたしに姉は挑みかけるような目を向け、一呼吸おいてから馬の疾走のごとく激しいアルペジオを弾きはじめました。一つ一つの音をのみで打ち削るような奏法に、はじめはまるでメロディーを感じ取れませんでしたが、曲が次第に本来のテンポとリズムを取り戻すと、それが『パガニーニのカプリース第二十四番』だと分かりました。

 わたしは自分が大変な過ちを冒していたことに気づきました。なんて素晴らしい演奏なんだろう。耳から流れ込む音律が、そのまま胸の高鳴りとなってさざなみのように身体の隅々へと伝わる。手足は硬直し、唇は震え、瞳は見開いたまままばたきすらできない。神さまだ。神さまがここにいる。こんなに近くにいたのに、今までどうして気づかなかったのだろう——。

 曲のフィナーレを飾る踊るようなトリルと締めの一音を颯爽と弾ききると、姉はそこにいる観客一人一人に視線を止めてからゆっくりとお辞儀をし、その場から立ち去りました。

 わたしは溢れ出る涙を拭うことも忘れ、感動のステージを披露してくれた演者に賞嘆の拍手を送りました。生まれて初めて、自分が本当に泣いているのだという気がしました。部屋の中は惨憺たるありさまで、観葉植物のプランター、壁掛け時計、フロアライト、液晶テレビ、ダイニングチェア、炊飯器、オーブントースター、薬缶、コーヒーメーカー、調味料の瓶など、様々なものが床の上に投げ置かれて乱雑に混ざり合い、その隙間を、食器の破片や、大量の『灯』が埋め尽くしているのでした。

 ヘルメットを掴んだまま気を抜かれたように立ち尽くす父と、その足元にうずくまり嗚咽を漏らしつづける母。二人の間にはどす黒い血溜まりが出来上がっていて、それらの光景はわたしを幸福な気持ちで一杯にするのでした。姉の演奏が放つ高潔な光は、あらゆる悪意や汚濁を一瞬にして拭い去る。『夜の女王』でさえ、張り詰めたその神威の中では、かしましい振る舞いを許されないのだ。姉さえいれば恐れるものなど何もない。わたしはもう、大丈夫——。


 姉にとってバイオリンとは何だったのか。大人になった今それを改めて考えると、胸が苦しくなってきます。

 あの家には怪物がいました。ふだんは息を殺し、どこかに潜んでいて分からない。あまりに上手く生活の中に溶け込んでいるので、やがて家族は、それがもともと存在していなかったような錯覚に陥ってしまう。でも、だからこそたちが悪い。一度暴れ出すと、それは各々の心の隙間に見事に滑り込み、何かを確実に壊してしまう。家族間の信頼だったり、共有してきた想い出だったり、互いへの敬意や労いだったり……そういうものが、もう二度と元には戻れないというほど大破されてしまう。姉だけが頼りでした。怪物に催眠をうながすセレナーデを奏でられるのは、姉だけだったのです。

 姉は自分を見つめる周囲の目の中に、飢えた物乞いのような声が含まれているのを感じ取っていたでしょうか。

〈どうか我々を見捨てないで下さい。その弱さを受け入れて下さい。あなたなしでは生きていけないのです。これからも、ずっと、ずっと——〉

 

 姉がいなくなってから、父はあれほど傾倒していたクラシックをいっさい聴かなくなり、ますます酒に溺れるようになりました。酔って意識が混濁するとところ構わず失禁し、足が向かうに任せた場所で寝入ってしまう。警察から連絡を受けたことも一度や二度ではありませんでした。

 手の震えが止まらなくなり、眼球や皮膚に黄疸が現れ、体調不良で仕事を休みがちになったある日の深夜、泥酔したままふらふらと路上に歩み出たところを車に撥ねられました。内臓破裂による即死。あっけない最期でした。


 父の死後、もともと精神疾患のあった母はそれがさらに悪化し、教団の活動にも参加できなくなりました。丸三年、通院の時以外はほぼ家に引きこもり、むさぼるように薬を飲みつづける毎日。その顔に、教団の代表として人々の先頭に立っていた頃の面影は、少しも残っていませんでした。

 母が自ら首を縊っているのを発見したのは、通いのヘルパーさんでした。現場を調べた検視官が、死の直前に書かれたものだろうとわたしに手渡した紙切れには、震える筆跡でたった一言、「創造主ヤハウェのもとへ」とありました。

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