——九月二十六日(火)夜明け前——

 本日も、結局一睡もできないまま朝を迎えることとなりました。これで三日連続になります。

 日中、何度かうとうとするのですが、とうてい睡眠と呼べるほどのものではなく、身体の倦怠感が日々増してゆきます。どうやら今飲んでいる導眠剤は、わたしの体質に合わないようです。 

 あれ以降、はうんともすんとも言わなくなりました。お腹に手をやると、そこはひんやり張りつめて、石のように黙り込んでいます。つわりに似た悪心や異常なまでの食欲も、今はもうすっかりおさまってしまいました。

 あの子に近づくには『眠り』が不可欠なのだ。そんな想いが確信へと成長し、わたしを苦しめます。何を愚かなことをと先生には笑われてしまいそうですが、当てずっぽうを言っているのではありません。実際わたしたち母子の再会は、で果たされたのですから。

 わたしとあの子の間に横たわる『呪いの淵』。何かの因縁が働いたとしか思えない、不可思議で忌まわしい断絶。対岸でわたしを待ち侘びるあの子を抱きしめ、「もう大丈夫」と優しく愛撫してやりたい。そのためには、『眠り』という渡し舟が何としても必要なのです。

 先生、どうかわたしを眠らせて下さい。どんな手段でも構いません。

 ……嫌な予感がするのです。このままではいけない。一刻も早くあの子のところへ行かなければ。でないと、何か測り知れない、恐ろしいことが起きる。そんな気がしてならないのです。


   **


 火にかけた薬缶が怒ったようにカチカチ音を立て、あたりがにわかに蒸気を帯びる。カップにティーバッグを落とし沸いた湯を注ぐと、秋の陽だまりにいるような香りが鼻腔の奥を温めた。仄暗いキッチンにただ一人、息を潜めて立つ女の孤独を、誰かが小さな声で祝福しているような気がした。窓辺に立ち、カップの縁に唇をつけて小さく息を吐く。曇った窓ガラスを拭うと、朝焼けを待つ樹木のシルエットがぼんやり浮かびあがった。

 Y高原でペンションを営む姉のところに来たのは、まだ梅雨が明ける前だった。夏の間、避暑に訪れた人々で溢れかえっていた町は、今は嘘のようにうら寂しく静まりかえっている。黄金色に染まった木の葉が一枚、どこからかやってきて窓ガラスの向こうを舞った。

 雑木林の隙間から大きな煙突のあるログハウスが見える。毎年夏と正月、東京から子連れの一家がやって来てあそこに滞在してゆくのだと姉は話していた。わたしがここに来て以降、あの煙突から煙が上がったことは一度もない。この辺一帯は高地のため真夏でも朝晩が冷え込み、暖が必要となる日も少なくない。アンティーク煉瓦の重厚な煙突が、使命を果たせぬ不甲斐なさを嘆いているようだった。

 昨日、箒を手に丸二時間費やした努力もむなしく、辺りはふたたび落葉に埋め尽くされている。うんざりしつつも、心の奥底に祈りのような清らかさが満ちてくるのは、地面に降り積もった葉群れの彩りのせいなのだろう。聖堂に施されたモザイク画のように、それらはつつましく季節の終わりを悼んでいる。

 足先がひどく冷たい。裸足のままキッチンに立ったことを後悔した。熱い紅茶も、身体の末端までは温めてくれない。下腹部に手を当て、「寒い?」と問いかけてみた。返事はない。

 あの子はもう、わたしの腹の中にはいない。頭ではそうと分かりつつ、繰り返しあの子に向かって語りかけてしまうのは、内側からそこを蹴られた時の重く切ない痛みを身体が記憶しているせいだ。あれは、妄想や錯覚などでは決してない。肉体に二つの魂が共存している不思議。わたしという存在が、いつのまにか、わたしだけのものではなくなっている危うさ。

 ふと、首筋に垂れた髪の先端を摘み、束になった毛先で唇を撫でてみる。くすぐったいような、チクチクするような、不思議な感触だった。髪を切ったのはもうずいぶん前のことなのに、わたしはいまだに短くなった自分の髪形に馴染めずにいた。


「——本当に、いいんですか?」

 鏡越しにそう男が呟いた時、自分が何を尋ねられているのかがわからなかった。質問の意図をよく把握しないうちに、わたしは頷いていた。

 銀色の大きなハサミがひやりと首筋に触れ、ジョキリ、と鈍い音がした。不意に、身体の片側が軽くなる。床には金属的な光沢をたたえた黒髪が一束になって落ちていた。その後ハサミは様々な角度で頭の周囲を滑り、サイドの髪が顎の高さに揃ったところで止まった。

 店の中は、わたしと奥の席でパーマをかける若い女性客以外、誰もいなかった。ハサミが動いている間、わたしは真っ直ぐ前だけを見ていた。鏡の中の自分を、瞬きもせず、ずっと凝視していたかった。肌は血色が悪く、目の下に青い影が落ち、頬の肉が削げている。正しい選択をした、と思った。身も心も枯渇したわたしのような女に、長くボリュームのある髪など滑稽だったのだ。不謹慎な健全さとでも言おうか、それは場をわきまえずはしゃいで周囲を白けさせる若者を連想させた。鏡は一点の曇りもなく磨き込まれていて、時折反射する無機質な光が目にしみた。

 その日も、わたしは一向に回復する気配のないまま連日つづく不眠のせいで、ひどく体調が悪かった。街の空気は重く、身体は自然と猫背になって、空腹なのに時折り激しい吐き気に襲われた。狭い歩幅でのろのろ進むわたしのことを、前から後ろから人の波が押し寄せてきて翻弄した。自分の身体をどこかに捨ててしまいたかった。何もかも捨てて、楽になりなかった。

 もう歩きたくない。歩けない。絶望的な気分で空を仰ぐ。すると、とあるビルの中層階部分が、そこだけ遊離するかのように白く浮かびあがていた。綺麗だった。地上のあらゆるものから拒まれているわたしに、何かが救いの手を差し伸べているように感じた。

 わたしはエレベーターの上昇ボタンを押していた。後先のことなどどうでもよかった。その時のわたしには、辿り着ける場所が必要だった。

 男が無言で仕事を進めるのが救いだった。鏡に映る自分。沈黙。ハサミの音。それだけだった。それで十分だった。


 不眠の兆候が顕著になったのは、今から六年前の夏、大学の関連施設である救命救急センターに着任してからだ。

 わたしはその時まだ二十代半ばで、白衣は身につけているものの医師としての経験や実積にはまるで乏しく、ベテランナースの咳払い一つで萎縮しているような頼りないありさまだった。救命での一年は他での五年分に相当する。そんな声に後押しされて現場へ踏み込んだはいいものの、下手に動くと噛みつかれそうな周囲の雰囲気に気圧され、ずいぶん場違いなところに来てしまったと、勤務初日から自分の選択を後悔していた。

 わたしにとってそこでの最初の患者は、バイクで走行中事故にあった二十歳の青年だった。

 緊急搬送の連絡が入ってから救急車が病院に到着するまでの時間は、想像していたよりはるかに短かった。運び込まれたストレッチャーには黒ずんだ血の塊のような物体が横たわっていて、これがまだ生きている人間なのだと思うと足がすくんだ。ナースシューズが縦横無尽に床を踏み鳴らし、事故発生時の状況、怪我の状態、バイタル、サチュレーション、ライン確保など、たくさんの情報が怒号となって飛び交う。各々の持ち場は迅速かつ的確な対応を心得ていて、動きにまるで無駄がない。わたしはおどおどするばかりで、腹立たしげに舌打ちする先輩医師の横顔をうかがっては身をすくませていた。

 結局、青年は助からなかった。彼の身体は損傷があまりにひどく、手の施しようがなかった。まるでパソコンの[delete]を押すようなやり方で、彼の命は消えた。青年が『ご遺体』と呼ばれるようになっても、手術台にはまだ温もりが残っていた。それは、自分という存在が有形から無形へとあまりに呆気なく変性してしまったことに対し、彼が見せている戸惑いのように思えた。

 その後も次々に急患が搬送されてきた。そのたびに、ベルトコンベアの流れ作業のように、留まることなく命の分別がなされていった。[生]と[死]。目の前にあるのはこれだけだった。手を伸ばせば、二つの間をたゆたう大切な何かに触れられそうなのに、手術室にわだかまる暴徒のような力がわたしを前へ前へと押出し、立ち止まることを許さなかった。

 丸一日と十時間を病院で過ごした後、ようやく帰った自宅マンションの空気は重く澱んでいた。冷えたベッドに滑り込み目を閉じても、目蓋の裏には点滅するサイレンや、血液の付着したガーゼや、CT画面の陰影や、絡み合う挿管チューブなどが交互に浮かんでは消え、眠りの訪れを阻んだ。 

 溜め息や寝返りを繰り返すうち辺りは白みはじめ、それにつれて部屋の温度も上昇した。首筋が汗で湿る。食える時に食い、寝れる時に寝ろ。脳みそのスイッチを即座にON/OFできるようにしろ。そんな先輩医師の教えを思い出し、精神はさらにささくれ立っていく。

 救命での日々を過ごすうち、気づくとわたしは、慢性的な不眠状態に陥っていた。まんじりともせず四、五日過ごすのは当たり前で、当直明けの帰宅時は靴紐を解く力さえ残っていないこともあった。そんな自分を危うく感じることもあったが、周囲の声がそれを忘れさせた。体調に反し、いつのまにか職場でのわたしの評価はめきめきと上がって、先輩医師やベテランナースたちにも感心されるほどになっていた。

 今後はどこでどんな疾患の患者に行き当たろうと怯むまい。救命での三年は、医師としての揺るぎない覚悟と自負をわたしにもたらしてくれた。

 ただその副産物として、不眠の影がわたしのもとを離れなくなった。それは、あたかも存在自体が消えたかのようにおとなしくなったかと思うと、気まぐれにすり寄ってきてさんざん悪さをし、わたしを苦しめた。


 思い返せば、わたしは幼少の頃から周囲の子供たちに比べ極端に睡眠時間が短く、眠りも浅かった。

 幼稚園ではお昼寝の時間をやり過ごすのにひどく苦労した。皆がなぜそうも易々と眠りに落ちるのかが謎だった。先生たちにとって良い子とはよく眠る子供のことを指したし、その逆もまた然り。次第にわたしは自分を偽るようになった。悪い子の烙印を押されないよう良い子の集団の中に溶け込み、自分もその一部であるかのよう暗示をかけたのだ。

 偽りの数だけ、秘密も増える。お昼寝の時間はまさに秘密の巣窟だった。

 カーテンを締め切った部屋の中央に、まっすぐ敷き詰められたマットレスが二列。小さな寝息と乳臭い体臭を放つ集団が、孵卵器に並んだ卵のように身を横たえる。お昼寝の時間はたいてい息苦しかった。寝る直前にいつも飲まされるホットミルクの被膜が口の中で尾を引き、喉の奥に絡みついている気がするからだ。

 ある日、眠りの芝居に飽き飽きしたわたしが人知れず瞼を開くと、互いの息が触れ合う距離感で、T君の顔があった。

 T君はとてもわんぱくで、悪さばかりしてよく先生に叱られていた。まったく仕様のない子ね……と繰り返しぼやきながらも、先生たちは皆、彼のことを好いていた。大人たちは叱りやすい子供を好む。わたしはT君が苦手だった。わたしは子供が苦手な子供だった。

 目の前で寝息を立てているT君は、それまでわたしが見知っていた彼とは別人のようだった。うつ伏せになって四肢を力なく伸ばし、顔だけ横に向けてだらしなく口を半開きにしている。その姿は、哀しいくらいに無力だった。砂漠で行き倒れになった少年が、「水を下さい」とこちらに哀願しているようだった。彼を生かすも殺すもわたし次第。そんな空想がわたしをわくわくさせた。

 つんと上を向いた小さな鼻を、軽くつまんでみる。呼吸を妨げられ、彼は眉根を寄せてひどく困ったような表情を浮かべた。愉快でたまらない。彼が目覚めてしまわぬよう加減しながら、わたしは鼻を摘んだり離したりを繰り返す。ぷっくりと丸みを帯びたその唇から次第に唾液が溢れ出す。

 官能的な一枚の絵を見ているような気分になって、わたしは息を呑んだ。『海の生きもの』という絵本の中にあった、サクラ貝の絵が思い浮かぶ。波で磨かれたピンク色の二枚貝が、音もなく開いて蜜を垂らす。淫らに艶めく少年の唇に、わたしの想像は掻き立てられた。思わず手を伸ばし、滴る唾液を指ですくってそこへのばしてみる。サクラ貝は紅を塗ったようにますます鮮やかに色づいた。

(可愛い……お化粧しているみたい——)

 目覚めた時、自分の顔がお姫さまのように彩られていたらT君はどう思うだろう。なんだかとても愉快で、笑い声が漏れるのを必死に堪えた。

 いつしか起床を知らせるベルが鳴る。先生は手を叩いて周囲へと呼びかけ、目を覚ました園児たちが物憂げな表情で次々と身体を起こす。濃密な時間は跡形もなく消える。

 隣で大きく伸びをしているT君を横目で見ながら、わたしは心の中でつぶやいた。

(これからはもう少しお淑やかにしましょうね、わたしだけのお姫さま——)

 マットレスに染みた唾液の跡だけが、わたしとTくんとの間に起こった密事を知っていた。先ほどまで彼の唇に触れていた指先に鼻先を近づけると、爪の間からほのかにミルクの匂いがした。

 

 T君との一件以降、わたしは眠りと覚醒の間にたたずみ、濃密で魅惑的な世界を堪能する喜びを知った。そしてその中には、未知なる大人たちの艶事もあった。ふだん得意げに良識や道徳を語ってみせる彼らが、それとは真逆の裏の顔をどれほど多く隠し持っていることか。わたしはそれを、眠りという風穴かざあなの隙間から好奇の目を輝かせて覗き見た。

 あらゆる出来事の中でも、A子に関する記憶はとりわけ色濃い。

 A子は幼稚園でわたしのクラスの担任をしていた保育士だった。職員の中で一番年若いA子ではあったが、その顔はお世辞にも美人とは言えず、分厚い脂肪のついた身体をだらだらと動かす姿はいかにも横着者のそれで、実際、杜撰な仕事ぶりが父兄の悪評を買っていた。園側もそのことは悩みの種だったようで、A子が他の先輩職員に注意を受ける姿は、園児の間でもたびたび話題になっていた。ただ当のA子は誰に何を言われようとどこ吹く風で、悪びれもせずにやにやと薄笑いを浮かべているだけ。今日こそはあいつに鉄槌の一言いちげんを浴びせてやると憤る者も数分も経たぬうちに骨抜きにされ、最後は怪奇現象にでも遭遇したような目でA子を見るのだった。

 そんなA子ではあったが、子供たちには不思議と人気があった。他の保育士のようにヒステリックに声をあげたり、高圧的な態度を示したりすることがなく、良く言えばおおらか、悪く言えばいい加減なその調子が、幼い目には心安く映っていたのかもしれない。

 A子はいつもくるぶし近くまで丈のある暗色のフレアスカートをはいていた。子供の一人がそれを指摘すると、「先生、ズボンだとお尻の大きなのが目立っちゃって嫌なの」と珍しく恥じらいを見せた。なるほどそう言われてみると、A子の後ろ姿は、巨大なくす玉でも隠し入れたかのような臀部がその特色を際立たせている。

 いったい、何が入ってるんだろう?——自分も含めた家族全員が痩せ型のわたしにとって、A子のそこは身体の一部というよりも、それ自体が単体の、未知なる生物の擬態や蛹であるかのように見えた。弾んだり、撓んだり、張りつめたり、緩んだり……それはA子の動きに同調するかと思いきや、宿主を無視した独自のリズムを持っていたりもする。いかにも愚鈍そうな道化師が思いのほか高度な技を披露して聴衆を魅了する時のように、A子の尻はわたしの目をそこへ釘付けにした。スカートの覆いを剥ぎ取り、露わになったそこを確かめてみたい。好奇心は湿り気を帯び、しだいに生々しい欲望にすり替わっていった。

 欲望は想像を肥やしにして策略へと育ち、策略は繰り返し温められることで決行に向かう。その日、いつものように他の園児たちと寝床についたわたしは、かつてないほどに緊張していた。大丈夫、きっとうまくいく。相手はあのA子だ、欺くことなど容易い。ばれたら無垢な瞳で一言、「ごめんなさい」で済ませればいい。たったそれだけのことなのだ——そうやって繰り返し心細さを補う言葉を探すのは、自分の試みが子供の悪戯などではないことを自覚していたから。わたしは自分を突き動かすものの中に、邪な性愛的欲求が含まれているのを承知していた。まだ就学前の幼女だというのに。しかも相手はあのA子だ。

 あちこちで伸縮する小さな寝息の中に溶け込んで、自分もそれらしく振る舞いながら、わたしの聴覚はただ一点に集中する。A子の気配を暗室の隅に感じた。相変わらずもたもたしていて、忍び足がまるで様になっていない。たかだか十メートル四方を行き来するのになぜこうも時間がかかるのか。わたしは苛立つ自分の心を必死になだめた。計画がどう転ぶかは、タイミングの良し悪しにかかっている。焦りは禁物なのだ。

 A子の鼻息と衣擦れ音が至近距離を通過した。とうとう待ち望んでいた瞬間が訪れたのだ。激しく脈打つ心臓のせいで、顔が上気しているのがわかる。もう迷ってる暇はない。わたしはにわかに半身を起こし、A子の背後から揺蕩うスカートの裾をそっと摘み上げた。

 ……そこに顕れたのは、無駄に育ち過ぎた巨大なカボチャのような尻と、苦しげにそれを支える丸太形の二本の脚。剥がれかけた皮膚のようなストッキングがそれらに張り付き、全体が下品に張りきっている。何より目を奪われたのは、尻の割れ目に食い込むT字状の深紅の布だった。上下左右に引き伸ばされ、今にも千切れそうになるのを耐えている様は、喘ぎながら燃えさかる炎のようだった。パンツ、パンティー、ショーツ、アンダーウェア……どんな総称もそれにふさわしくない。ごく少数の選ばれた女性だけに許される、一つの力の象徴のようなもの。

 以来、A子のを覗き見ることは、昼寝の時間におけるわたしの最大の楽しみとなった。白、黒、ピンク、ブルー、紫、ベージュ、水玉、花柄、小さなイチゴ柄のもの、リボンやフリルの付いたもの——A子はいつも地味なゴムで後ろ髪を束ねているのに、人目に触れないそこは実に変化に富み、艶やかだった。しかも、そんなA子の秘密を知るのはわたしだけ。えも言われぬ高揚感が、わたしをますます大胆にさせた。

 A子が身に着けてくるものの中には、見ているこちらをひどく狼狽させるものもあった。それらは単に、美しいとか個性的だとかではなく、形や色味が独特過ぎて、およそ下着としての体裁を保っていないもの。どちらかと言えば革細工や飾り紐に近い代物で、本来隠されるべき部分が薄らと透けていたり、あえてそこを強調しようとする淫らな底意が見てとれるものだった。そして、そんな日のA子は、まとう香りまでもが特別になるのだった。

(今日の先生、いつもとは違う、すごくいい匂いがする——)

 ある日わたしは、A子の耳元にそう囁いてみた。声の響きにあからさまな悪意を込めて。わたし、先生の秘密を知ってるんだから、と。

 A子は腹話術の人形を膝に置き、他の園児たちと談笑している最中だった。人形には『タケシくん』と名前がつけられていた。彼は週に一度、A子に連れられてやってくる園の人気者だったが、わたしは蓋のようにパカパカ開くその口や、性別も年齢も不明なその声が苦手だった。恐れていたと言ってもいい。だからその時も、なるべく彼と目が合わないよう背後からそっとA子の耳元に近づいたのだった。

 ところが次の瞬間、わたしの言葉に反応したのは他の誰でもない、タケシくんだった。彼は、わざとらしく沈黙を守るA子の肩越しからにょっきりと後頭部を出すと、フクロウのようにくるりとそれを回転させ、居竦いすくまるわたしに向かって拳を振り上げた。

「覗き見はだめだぁ! 悪い子にはお仕置きが待ってるぞぉ!」

 それ以降、わたしがA子に近づくことは二度となかった。


 わたしは自分の気持ちを表すのが下手な子供だった。嬉しいのか、悲しいのか、興奮しているのか、怯えているのか、腹を立てているのか——自分で自分が何をどう感じているのかわからないことがよくあった。他人に何か尋ねられても、大抵の場合、頷くか、首を振るか、ただ黙って相手を見つめかえすかするだけだった。そんなわたしを一部の大人達は不気味がったり、知能に欠陥があるのではないかと噂したりもした。

 一度病院で診てもらった方がいい。そんな周囲の声に促されたのか、ある日母はわたしを連れ、隣町にある総合病院の脳神経外科を訪れた。脳に先天的な欠陥や発育不全がないか調べるためだった。

 視力、聴力、脳波、CT、反射、運動機能チェック、神経伝達速度チェック、知能・認知能力チェックなど、一通りの検査の後、わたしは廊下の一番奥にある個室へと案内された。部屋の中は一面空色の壁紙で、ところどころ雲や虹も描かれていた。「子供はこういうものを喜ぶものだ」という作り手の思い込みや奢りがひしひしと伝わってきて、こんな場所に閉じ込められる羽目になった自分が、ひどくみじめでやり切れなかった。

 担当医の初老の男は優しく丁寧に接してくれたが、それでも彼に何か質問されると、わたしの舌は痺れたように上手く回らなかった。色、音、臭気、感触——様々な事象を前にどう反応すればいいかわからず、ただ戸惑うだけのわたしは、さながら壊れた鳩時計の鳩だった。喉を鳴らして時報を告げるという、自分に与えられた唯一の役割さえ果たせなくなった、哀しい鳥……。

 そんなわたしにとって、眠れぬ夜は、気づきと慰めをもたらしてくれる時間だった。家族が寝静まった頃にそっとベッドを抜け出し、窓辺からガラス越しに外を眺める。暗がりに一人でいても怖くない。青い月の光や、風に揺れる木々の陰翳や、肌にしっとりと纏わりつく墨色の大気が、心の中の混沌を静かに中和してくれる。昼間はどう向き合ったらよいかわからない自分の感情や想いが、そこでは同一の沈黙の中に溶けていた。このままでいいのだと思えた。無理に自分を表現する必要などない。わたしと、目の前の闇。ただ、それだけでいいのだと——。


 ——鳥の鳴き声がした。

 ふと我にかえり、辺りを見回す。窓の向こうで朝露を含んだ落葉が光っていた。斜めに差し込む薄い日差しが、手入れの行き届いていない足の爪を露わにしていた。

(幼い頃、わたしに寄り添い慰さめてくれた、あの優しい夜は、いったい何処へ行ってしまったのだろう?)

 眠れずに迎えた朝は、色々なことが頭をよぎる。ティーカップに口をつけると、紅茶はすでに冷め切っていた。わたしは乾いた水跡がマーブル模様を描いているシンクに、それを捨てた。


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