ロンドン。ここはいつから、こんなに人が多くなったのだろう。

 人々は古い何かを手放すことで、常に新しい何かを手に入れようとしている。

 そうすることでしか、自分を正しいと思えないのだ。


「失礼。街一番の靴下工場はここですか?」


 私が声を掛けると、Mr.Leeの弟は、怪訝そうな表情を浮かべた。


「はぁ……。靴下工場というのは、間違っておりませんが……」


 彼は平静を装っているが、「おかしな連中が来たものだ」と言いたげだ。私には彼が何者であるか、そして何を考えているのか、そんなことなど筒抜けなので、芝居をしても無駄である。


 だがしかし、私は感心した。やはりあの男、約束はちゃんと守ったらしい。

 それと同時に、自分で抱えられる以上の約束をしてしまったようだった。


「ひょっとして、工場の見学ですか?」

「いえ。靴下を一足、買いたいと思いまして」


 私がそう言うと、彼はひくりと眉を動かした。


「本来、工場が直接売ることはないんですがね」


 彼の話が本当かどうか、それは分からない。機械が特許を取った途端、このように「おこぼれ」を貰おうとする輩が増えたから、適当なことを言っているのかもしれない。


「ただ、ちょうど売りに出せない物がありましたんで、それならいいですよ。通常の三割引きで」

「ありがとうございます。感謝します」


 私は彼を見た。彼の瞳は、かつての発明家と同じだった。


「お兄さんのことは、お気の毒でしたね」


 ウィリアム・リーは消えた。濃い朝霧の中、誰にも気づかれずに消えた。

 今頃、異国の地に馴染んでいるのかもしれない。あるいは、戦火に巻き込まれて死んだのかもしれない。

 しかしきっと、ようやく彼は、自分の生きる意味でも見つけたのだろう。


 彼は一瞬、「何でそんなことを知っている」と言いたげな表情を浮かべた。しかし、私の顔を見るや否や、それ以上深入りしないことを決めたようだ。


「兄の発明に、時代が追いついていなかった。そう思いたいですね」


 彼はそれだけ言って、私を工場から追い出した。


「機械の時代をつくるのに、早いも遅いもないさ。ただ、人間の方が、機械に追いついていないだけだ」


 自動編み機で精緻に編まれた、メリヤス生地の素朴な靴下。

 ふぅっと息を吹きかけると、それは青白い炎をあげ、やがて暁の空に消えた。

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