第7話 Blowin' in the wind

 六時間目の科学は理科室に移動することになった。教科書類をかかえて廊下に流れてゆく人ごみのなか、僕は夏香をつかまえて「行こう」と声をかけた。少し元気がない夏香の笑顔を見て、理由をたずねた。

「なんでもない。勉強しすぎで疲れただけ」

 嫌味かそれ。僕がぼやくと夏香はいつもどおり笑って廊下をかけてゆく。彼女の表情はうかがえない。うかがうこともおそらく許されていない。

 同時に、胡乱な事件その三が勃発する。

 走っていた夏香が急に立ち止まった。女子トイレのほうを見ている。僕が何事かと声をかける前に、トイレから複数の女子たちの会話が聴こえてきた。

「ああそうか、それで先生に呼び出されてたんだ」

「だと思うよ、てか確実にそうだって。いくら夏香が頭いいって言っても、記憶ないんじゃテストとか無理あるしさ」

「だからって、ひとりだけ高一の問題でテストって、状況が状況っつってもさすがにやばくね? ムカつくし」

「え、でも夏香、うちらと一緒にテスト受けてたよ? もしかしてあれ、カモフラージュなのかな」

「カモフラージュ?」

「つまりさ、うちらが文句言わないように先生が配慮して、テストを形だけ受けさして、あとで高一のテスト受けて、そっちをメインにしてたとか」

「うっわ、やっば。それウザすぎ。どんだけ贔屓されてんの、夏香」

「違う!」

 僕の制止もきかずに夏香は女子トイレに飛びこんでいった。鏡の前で噂話に華を咲かせていた四人の女子たちが、いっせいに動きをとめてあとずさる。僕はさすがに女子トイレに入る勇気はなく、外から「やめとけって」と言ったが無駄だった。まさかの本人登場に女子たちも呆然としている。

「違うの、それは撤回されたの」夏香は必死に叫んだ。「確かに先生からそのことについて提案されたよ。でもただの提案だったし、不公平だから、私があとから取り下げたの」

「でも、えっこはほとんど確定っぽい感じで職員室で話してたって言ってるじゃん。取り下げたなんて話、聞いてないよ」

「そりゃ言ってないもん。試験をどうするかって、いちいちみんなに報告することじゃないでしょ?」

「何こいつ、キモいんだけど」

「どっちにしても、提案されたのは合ってるんじゃん。自分の立場優遇されてるってわかってんの? ダルすぎ」

 言葉を失って立ちすくむ夏香に、僕は何も言葉をかけられなかった。こうなることは多少なりとも予測できていたはずなのに、いざその場に接して何も言葉が出てこない。夏香は確かに、人の見えないところで、見えないように配慮されながら、贔屓されていたのだ。

 夏香が授業に追いつこうと毎日補習を受けて勉強していることは誰でも知っているはずなのに。僕が何か言おうと口をひらいた瞬間。

「私だって、好きで記憶喪失になったわけじゃない!」

 夏香が叫んだ。大股ひらいて、髪を乱して、目の端に涙をためて、隠してきたものを一気に放出するように。

「どうしてなの、私、頑張ってるのに。贔屓されたくて記憶をなくしたんじゃないのに。みんなのこと大好きで、前の私もみんなのことが大好きだったはずだから、早く元どおり接してもらえるようにってしてるのに、そのみんなを差し置いて贔屓されたいなんて一度も思ったことない! テストの内容はみんなと同じだし、みんなとフェアでテストが受けられるように、教科書借りて一生懸命勉強したもん。絶対成績が落ちること分かっててあえてそうしたんだから!」

「そんなこと言ったって」女子の中で一番気が強そうな子が反論する。「疑いが晴れるわけないじゃん! 証拠になってねえし。第一、優遇されすぎなんだよ、夏香は。試験のこともそうだけど、そもそも高校二年生が中学の授業内容を先生に教えてもらって復習できてるのに、贔屓されてないとか意味分かんないんですけど」

「もうよせ、落ちつけ、それ以上言ったら」割りこもうとすると、女子たちの死神のような視線で一蹴されてしまった。夏香の小さなうしろ姿がかわいそうで、震えている肩がいたたまれなくて、けれど僕は、余計なことを言ってしまう恐怖に、何も言えなかった。

 夏香は反論の言葉をととのえてふたたび叫んだ。

「テストで優遇されたいから記憶喪失の振りをしてるってこと? 馬鹿すぎない!? 中学生の私でもそんなの馬鹿らしいって分かるのに、高校生のみんなが本気でそれ信じてるの?」

「馬鹿って」単語ひとつに過剰反応した彼女たちの言葉をさえぎって、夏香は叫びつづけた。

「それと、確かに私は高二だけど、実際、三年間の記憶が何もないの! 授業内容ももちろん、全部忘れてるの。そして私は、望んでそんな状況に自分を追いこんだんじゃない、早く記憶を戻したくてしょうがないの!」

「だったら医者にでもさっさと行けよ! こんなところで授業とか受けてる暇があったら、入院でも手術でもなんでもして治してもらえばいいじゃん」

「なくした記憶をなぞれば健忘が治るかもって言われてるからここに戻ってきたんじゃんか、私はまだその途中なの。頑張ってる途中なの!」

「頑張ってまーすでまかりとおるんだったら誰も苦労しないよ、記憶がないからってなんでもしていいわけじゃないんだからね! 立浪のことも、村山のことも!」

 さすがに止めに入ろうと女子トイレに一歩踏み出した僕を、夏香がおしとどめた。名前を呼ぼうとすると、夏香が「それがどうしたの」とつぶやいた。

 魂を撃ち抜くような、真っ黒で、血だまりのような言葉だった。

 黒くねばついた吐息がその場の空気を凍りつかせる。ぽろり、ぽろりと体温が床にころがり落ちてゆく。僕のいる位置から夏香の表情は見えないけれど、それがどれほどの形相か、僕は容易に想像できた。想像できるぶん、背筋を金属質なもので撫でられる。

 夏香が、キレた。その怖さは二年前から、誰よりも僕が知っている。

「私は彰が好き。それの何がおかしいっていうの」

 歯をくいしばって顔をあげた夏香に、女子たちが息をのんで身を引きかけた。僕と夏香の顔を交互に見る。女子トイレの周辺にはすでに大勢の野次馬が集まっていて、もの珍しそうに事態を見物している。夏香は彼らに見むきもしない。僕にすら、見むきもしない。

 ちいさな、無意味ではない悲鳴が、響く。声が空をぬけて、宇宙へ飛んでゆく。

「だろうね」ひとりの女子がひきつった笑顔を浮かべた。打開策を見つけた笑みだった。

「だって、立浪と夏香、中学んときにつきあってたんでしょ? んで、理由は知らないけど、別れたんだって? あんたらと同中の子に聞いた。何があったか知らないけどさ、あんたにとって立浪はもう元カレじゃん。忘れたなんて理由で、村山をほったらかしにしていいと思ってんの」

「よせ」僕は彼女を止めようとしたが、女子たちはさらにヒートアップしていった。

「うちらにとって村山がどんだけ高嶺の花か、あんたには分からないだろうね。顔がいいってだけで自動的に好感フィルターかかるんだし」「それ以上言うな、夏香はそんな」「村山とつきあってるって聞いたとき、こんな可愛い子じゃしかたないって思ったよ。それが恵まれた立場だってこと、自覚してんの? 努力して手に入れた顔でもないくせに」「もうやめてやれ、でないと」「みんなの憧れの村山を彼氏にしてる身分の女が、記憶がないからってその村山をあっさりポイして、元カレと一緒にいてもいいって思ってんの? 何様誰様?」「違う、俺は」「元カレにすがっといたら、学校に復帰しても大丈夫かーぐらいの気持ちでいたんじゃないの。記憶ないって言えばあるていどは優遇されるかなーって思ってたんじゃないの。あんたさあ、それで許されると思ってんの。ひとりで勝手に事故っといて勝手に記憶なくして」「それ以上言ったら殴るぞ」「記憶喪失ってのも、実は演技なんじゃね?」「てめえ、いい加減にしろ」

「性悪! 偽善者! 村山のこと捨てたくせに調子のんな! 死ねよ!!」


 僕が胸倉をつかむ前に、彼女たちに夏香の平手が飛んだ。

 強烈なデジャ・ヴュが僕の顔面を切り裂いていった。古いフィルムが、ケースをやぶってさらされゆく。

 頬にくっきりと真っ赤な手のひらの跡を残して、好き勝手にしゃべっていた女子は、何が起こったのか分からないような表情でぽかんとしていた。

 夏香は張った手をぎゅっとにぎりしめ、その場に膝をつき、ゆっくりと座りこんだ。そして、泣いた。廊下にも響くほど大きな声で、子供のように泣いた。唇を震わせ、ぽろぽろと涙をこぼして、顔を真っ赤にして。

 誰も動かなかった。僕も、一歩も動けなかった。その肩を抱いてやればよかったと後悔した。だけど僕は、頬を叩かれた女子が痛みにじわりと涙をにじませているのを見て、自分の右手を強くにぎりこんだ。何かをすることすら罪悪だと思った。だから僕は呼吸を止めたかった。ここでもまた傍観者なんだと、逃げだしてしまいたかった。

 夏香の声をきいた先生がとんできて間に入った。野次馬を帰らせ、へたりこんで泣いている夏香と女子たちをひきはがした。僕も夏香からひきはがされた。そうされてよかったと今は思う。

 夏香に平手打ちを食らった女子は、半泣きになりながら「きしょいって、うざすぎ、マジ死んで欲しい」とさんざんに悪態をついて先生たちに連行されていった。夏香と僕も同様だった。状況判断で、夏香が一方的に女子たちにいびられていたという結果に終わってしまった。女子たちの言うことは、正しかったのだ。

 夏香はそれ以来、学校に来なくなった。

 彼女が学校に復帰していたのは、たった十三日間だけだった。




 僕が二年前に何をしたのか、ほんの少しだけ話したい。

 中学三年に進級したばかりのころ、夏香に新しい友達ができた。和久井千夏という、物静かで本を読むのが好きな子だった。制服もほとんどアレンジしない、真面目だけどとても素直でかわいらしい女の子。女子が女子を真面目と言うと悪口に聞こえやすいが、僕にとっては褒め言葉と同じで、遊び慣れている女の子より好きだ。何より夏香が真面目だから、僕が和久井と親しくなるにも抵抗がなかった。

 新しいクラスで僕と夏香が最初に見たのは、和久井が女子からプリントをわざと落とされたり、触れるまいと大げさによけたり、目の前で教室のドアを閉められたりといった、小学生かと思うほど幼稚ないじめの光景だった。目に見えるいじめだけでなく、LINEの裏グループに悪口や証拠のない噂話を流されるといった嫌がらせも受けていた。彼女は一瞥して分かるいじめられっ子で、クラスでひときわ浮いていた。

 和久井は中学一年の時に彼氏がいて、それは同年代の女子たちの反感をおおいに買った。彼女がおとなしい子だったことも余計に油を注いだのだろう。女子たちからねたまれ、いびられ、「十二歳で非処女」とののしられていた。その彼氏とは二年生の後半で別れてしまったらしいが、彼女を女子たちが露骨に見下す文化は、三年生になってもつづいていた。

「それ、春休みに映画化してたやつだよね? 映画のほうは見たけど、原作って小説だったんだね!」

 夏香はそう言って、教室の隅で目だないように本を読んでいる和久井にアクセスした。そのとき彼女が読んでいたのは、春休みに夏香と僕が一緒に見に行った映画の、原作の文庫本だった。そこから少しずつ会話が広がり、共通点も見つかったらしい。いつもひとりでいる和久井と机をつなげて弁当を食べていた。僕と賢一もくわわって四人で食べたこともあった。夏香は彼女を「ちーちゃん」と呼んでしたっていた。

 いじめられてる子かわいそう、一緒にいてあげよう、という正義心ではなく、夏香は単純に彼女と友達になりたいと思ったのだろう。明るくて元気で、美しい外見が目立つ夏香が、和久井のように静かな子と仲良くするとは思わなかったのか、夏香の本来の友人たちの半分近くが彼女と距離をおいた。夏香を嫌いになったわけではなく、むしろ派手ないじめっ子グループの女子から目をつけられやしないかと思っての、保身を第一にした行動だったのだろう。

 和久井はそれを何度も心配していたが、夏香は「まあ、学年も変わったし、人間関係も変わるもんだしさ」と笑っていた。

 その気丈さが逆に、和久井をいびっている生徒たちの反感を買ったのだろう。夏香もいじめの主犯の女子からは無視されるようになったが、もとより彼女たちと一切かかわることがなかった夏香は気にもとめていないようだった。やがていじめはエスカレートしていった。受験の年だというのに、靴箱や机に何かを入れられたり、移動教室の時に後ろから押されて倒れたり、LINEの裏グループには和久井と並んで悪口を書き連ねられたり。他の女子たちも話しかけることを許されず、結果として和久井と夏香は孤立した。

 慣れているようで「大丈夫」と連呼する和久井を、それでも夏香はかばっていた。

「ちーちゃんはいい子なんだよ。優しいし頭いいし、かわいいじゃん。どうしてみんなが彼氏いるとかつまらないことでいじめてんのか、分かんないし。嫉妬してるんならそう言えばまだ素直でいいのに、醜態さらしてる自覚ないとかって、ありえない」

 そう怒る夏香に、和久井はいつもくっついていた。僕と賢一もくわわって、四人一緒にいることが多くなった。他の友達は僕らと和久井が仲がいいことを不思議がったが、それでも僕らは仲良しだった。夏香がいうように、和久井は優しくて品があり、気遣いもできる子だった。夏香といい勝負の映画好きで、授業で分からなかったところはていねいに教えてくれた。本が苦手だった僕に、読みやすい小説を貸してくれた。僕が風邪で休むとプリントを家に持ってきて、差し入れまでくれた。とてもいじめられるような子に見えなかった。

 夏香は徹底して、無視することを選んだ。反応せず、泣かず、やりかえさず、何も起きなかったかのようにふるまった。それが彼女の流儀だったのだろう。反応しなければやがて飽きられると思っていたのかも知れない。LINEの裏グループやネットに何が書かれているのか気にならないのか、とたずねたとき、夏香は「気にならなくはないけど、私が見なかったらあいつらが書いてることからは一切ダメージ受けないから。空中に向かってずっとギャーギャー言わせてればいいんだよ。本人が勝手に疲れるだけだから」と、けろっとした顔でこたえていた。

 高校生になった今は、その姿勢が強さなのだとわかる。だが、中学生だった僕には、その夏香の態度がもどかしかった。もっと怒ってもいいのに、文句言ってもいいのに、しかるべき手段でやりかえせばいいのに。そう思っていた僕は、くだらない嫌がらせに落ちこむことなく、すぐに立ち上がって前に進む夏香を、少しだけ、まどろっこしいと思っていた。

 だからこそ、二年前の事件は夏香と和久井の心に一生消えない傷を残してしまった。

 僕は和久井をいじめている主犯格の女子たちが、「明日の朝」「和久井の机」などと話しているのを女子トイレの前で聞いた。さすがに中に入ることはしなかったが、ただならぬ予感がして、翌朝、僕は早起きをして学校に向かった。

 今思えばそれが一番の失点だったのだ。僕があそこまで怒り狂わなければ、いじめが過熱しても和久井を守るぐらいの力を見せていれば、僕らの平和はここまで転落しなかったはずだ。

 三人の友情なんてそのていどだったのだ、と言われれば、僕は胸をはって反論できる。――それは違う、と。

 そうでなければ、夏香が僕を全力で殴ったりしなかった。

 だから、僕の記憶の中では、夏香の暴力はいつも優しい。




 まさに腫れものに触るような扱いだった。腫れものどころかケロイドのような。翌日になってもそれは変わらない。

 モーゼの十戒のごとく、僕のまわりの人々が半径三メートル以内に入るまいと、見えない垣根を作っているのはなんだろう。別に噛まないぞ、と言いたいのだが言うチャンスを永久に失って今にいたる。元々仲のいい男友達は変わらない態度で接してくれるが、主に女子たちを中心に伝言ゲーム方式で噂が膨れあがっているのか、事実も脚色もごちゃ混ぜになって広がっている。内容は大方予想できるが、確かめるためにたずねるほど仲のいい女子が瞳しかいない上に、彼女は今、透明なビニール越しに関わっているように僕と距離を置いている。話せばかえしてはくれるが、話しかけられることがない。そんな中、彼女に聞くのははばかられた。

 誤解をとくために「あのう、今出まわってる噂のことなんですが」なんて言ってまわる勇気はない。ほとんど話したことがない女子たちの、訊きたいことがあるけど訊く雰囲気じゃないしとりあえず空気読んどこう、みたいなノリが居心地悪い。

 賢一は昨日、女子トイレでの事件のあと、僕をペンケースでひっぱたいた。布ではなく缶のあれで。

「おっまえなあ」普段クールなだけに半分キレた賢一は怖い。「どうするか考えとけよって俺、先に釘さしといただろうが。絶対にこうなること予測できてたんだから。一番しんどいのは夏香なんだぞ、お前じゃなくて」

「わーかってる、今回は俺もたいへん反省してますって。こっちこそ悔しいし」

 夏香は事件のすぐあとに早退してしまった。二日たった現在もクラスメイトのよそよそしさは変わらず、賢一はいつもどおり変わらない。

 夏香と口論していた女子生徒は、夏香が登校拒否になったことで一方的に悪者扱いされてしまい、先生から厳重注意を受けていた。それで元々やさぐれていたのがさらにやさぐれ、ないことないこと吹聴してまわっているらしい。いわく、僕の知っている限り、夏香が村山を簡単にポイしたところを元カレの僕がつけこんだだの、夏香のフリ文句が「あたしみたいなかわいい女の彼氏ならもっとイケメンでなきゃ嫌なの」だの、夏香が別れるときのあて馬に自分が利用されただの、自分を悲劇のヒロインにしたてあげるための設定数多。どうしたらドラマの意地悪女の設定がそんなにたくさん思い浮かぶんだ。くだらない少女漫画の読みすぎだ。

 結局誤解がとけたのは一部の友達だけだった。他の生徒は夏香が村山を捨て記憶喪失を盾にしているなどという筋のとおらない噂を鵜呑みにし、当人の僕や村山をほったらかして好き勝手にストーリーを展開されてしまった。

 学校で一二を争う美女である夏香が、最大のライバルたる村山と離れたことはこの悪質な噂とともに広まり、「記憶がないのは本当らしい」「彼女の記憶は八時間からもたないからレイプして大丈夫」「犯したあと殴ったらまた記憶が飛ぶ」という映画の影響丸出しなポストがSNSに連投され、彼女がいないとはいえ学校はすっかり危険区域になってしまった。さいわい、名前を伏せていてもすぐに夏香のこととわかるポストを賢一が見つけていたので、僕は彼女にメールアドレスを変え、僕、賢一、瞳、村山にだけ教えるよう言った。付け焼刃な緊急措置だ。

 しかし事態が悪化を極めていることは変わらない。どうしてこんなことに、と机につっぷして頭をかかえる僕の前に、パックのコーヒーをすすっている賢一がしゃがみこんだ。

「やっぱさ」僕はぽつりとつぶやく。「俺って、夏香のこと、守ってやれねえのかな」

「そんなこと言ってるうちは無理だわな」

 あっさりかわされて言葉につまる。賢一は「腹筋ねえし生っちろい肌してるし背も普通丈だし、ルフィやゾロじゃなくてウソップ系」と追いうちをかけた。ぐさぐさと矢がつきささる。

「いや、物理的に守るにしたって、今回にしたって」

「分かってる。だから言ってんだよ、なんで夏香の前に立って女子たちに対抗しなかったのかって。中学の時みたいに拳じゃなくて、言葉でな」

 その言葉に肩を震わせた。一瞬だけ思い出した、指の関節に受けた衝撃。人のぬくもりを潰す感触。

「まあ、男が口で女に勝つとは思えないけど。あんだけ弁の立つ夏香だって人間なんだから精神的にくればやられるし、泣きたくもなるだろうし。そのとき代わりに戦ってやるのがお前の役割だろ」

 おっしゃるとおりで。賢一は鼻をふんと鳴らした。馬鹿にされてる気がした。

 僕のチキンさが悲しくもよく出た結果だった。夏香が学校に来なくなったことを考えれば、焼き鳥になる覚悟で彼女たちと対峙していればよかったはずなのに。後悔ばかりが僕の身体に根をはやす。縦横無尽に這って、神経ごとからめとる。

「ほんと情けないよなあ、お前」空から矢がふってくる。「あんなに優しい子がボロクソに言われてるのに反論できないなんて。彰、意外と小心者なんだな」

「俺、なんも変わっちゃいねえなあ。あの時からなんも。夏香は強いままなのに」

「まさにそのとおり」

 一拍おいて賢一はつづけた。「彰、もしお前があの日の誤解をとくために夏香に未練を持ちつづけているんだとしたら、もうそれは執着だ。そんなことしても、変わらないものは変わらないままだぞ」

 彼の目に軽く圧迫され、息を吸いこみづらくなる。頬杖をついてリラックスしているように見えて、賢一の目がそれ以上の多くを語っていた。

 今でも覚えている、夏香が僕を殴った痛み。熱。記憶。忘れたりしない。

 僕はその痛みで何度でも夢から目を覚ます。……何度でも。

 一度たりとも僕を裏切らないたったひとりの親友を前にして、僕は顔を伏せた。その頭を、賢一がコーヒーのパックで何度もこづいた。

「そう落ちこむなって」彼が笑う。「前も言ったけど、俺はお前を理解してやりたいよ。でも、俺に理解されるために行動するな。馬鹿で裏表がないのが唯一の取り柄だろ」

 顔をあげると賢一はいなくて、彼が飲み残したコーヒーのパックが机の上に置かれていた。パッケージの表面に浮いた水の粒が、まわりのちいさな粒をまきこみながら、少しずつ重たくなってたどたどしく落ちてゆく。机にキスをし、広がってゆく。

 夏香がいなくなってからあまり話しかけてくれなくなった瞳が、僕のふたつ前の机の間をぬけていった。連絡通路での短い会話と、一緒にとったプリクラを思い出す。その短いスカートを挑発ぎみにひらつかせて、瞳は僕の前からいなくなった。

 情けないのは前からか、と思いながら僕はコーヒーのパックに浮いた水滴をじっと眺めていた。ほかの水滴を巻き込むことができなかった粒が、たったひとりでパッケージの表面を滑ろうとして、途中で力尽きていた。


 その日の晩、僕はずいぶん久しぶりに二年前の夢を見た。

 コンドームまみれの和久井の机。僕は女の子たちの胸倉をつかんで机に叩きつける。夏香が僕に平手打ちをする。和久井が教室の床に座りこんで静かに涙を流す。腹をおさえて半泣きのいじめっこたち。

 夏香が震える声で言う。

 ――そういうやつだったんだね、彰。

 僕は汗びっしょりで飛び起きた。真っ暗な自室で、自分の心臓と目覚まし時計の秒針の音だけが響いていて、まるで時間が止まったようだった。午前三時半。キンという耳鳴りを感じる、海の底のような暗さと寂莫。息ができなくなるほどの圧迫感。意識がとろりと現実に密着してゆく。

 僕は心臓がエイトビートを刻むのを数秒間、目をとじてじっくりと感じていた。そして落ちつくのを待ち、ふたたび布団に入る。淡いブルーのカーテンの向こうで、新聞配達のスクーターの音が聴こえた。

 夏香に殴られた箇所が、ヤケドをしたように熱い。その熱を僕はまだ覚えている。忘れるわけがない。だけど、できれば忘れたかった。箱に入れて鍵をかけ、その鍵を海に投げ捨ててしまいたかった。

 布団の中で頬に手を当て、そのままその箇所を隠すように布団を目元まで引きあげた。頭をかかえたかった。

 ここ最近、二年前の事件を夢に見ることがなかった。それは多分、夏香とのしあわせな日々を再放送したような日常に、すっかり慣れてしまっていたからかも知れない。

 都合のいい記憶喪失。

 思い出せ、思い出せ、ゆめゆめ忘れるなと、悪夢が無言で叱咤している気がした。

 和久井が泣いている顔が瞼の裏に焼きついて離れない。

 一度僕の手で傷つけた夏香を、二度目も守れなかった。

 どうして僕らはしあわせな夢を見つづけるのだろう。やがて激しい警告のベルの音や誰かの拳で目を覚まし、現実のあまりの空虚っぷりに立ち尽くすのだろう。誰もいない、僕らのよく知った街で。

 からっぽの道路を走ってゆけば、嫌でも気づく。それは確かに真実なのだと。そして真実はいつだって直球なのだと。

 もう、目をそむけつづけることはできない。

 僕はその晩、ほとんど寝つけずにいた。



 決心がつくには週末まで時間を要した。夏香の両親に会った瞬間、手ひどくののしられることを深夜に想像してしまうくらいには、僕はどこまでも腰抜けだ。僕は日曜日、片岡家の前に立ちつくす。そこからインターフォンを鳴らすまでに二分かかってしまった。玄関の奥から夏香の母親がみえたとき、僕は反射的に頭をさげた。

「すみません、俺、あんなえらそうなこと言っておきながら」

「いいのよ」彼女は優しく笑ってくれた。「私たちも夏香を止めようとしたくらいだし。それに夏香が自分で決めたことなら、後悔するような子じゃない。間違ったことはしていなかったって自分で言ってたわ。だとしたら、彰くんが謝ることはない」

 僕はここまで来るのに数日かかったことを恥じる。寂しそうに笑って「頭をあげて」と言う彼女の言葉に、さらに頭があがらなくなった。僕は再度「すみません」と言った。

 お茶の誘いを断って会釈し、夏香の部屋へむかった。ニット姿の夏香が笑顔でむかえた。

「来てくれたんだ、彰。ありがとう」

 女子たちと真っ向から対峙し、激しい論争をくりひろげ、登校拒否になった子とはとうてい思えなかった。夏香の母親が言うように、彼女は自分のしたことに間違いはなかったと言う。ただひとつ、自分の手のひらを見て「でも叩いたのは駄目だったな、痛いに決まってるのに」とつぶやいたが。

「私の言ったことに嘘や脚色はいっさいなかったよ。それを信じてもらえなかっただけ」

 彼女はいったんため息をついた。「でも、こんなくだらないことでみんなに迷惑かけられないよ。だから、やっぱりしばらく学校はお休みするよ」

 彼女は僕が来るまで「キャリー」のリメイク版を見ていたらしいタブレットの画面を閉じた。確か、学校でいじめられている女の子が超能力に目覚め復讐を始める、という映画だったはずだ。赤いペンキをかけられて泣き叫んでいる主人公の顔のアップで一時停止されていた。

「ごめんな、夏香」僕はつぶやくように言った。「あの場にいながら、守ってあげられなくて」

「いいよ、そんなの。お姫様みたいに守られっぱなしなんて嫌だし、むこうの言い分だって間違っちゃいない。あんなふうに言われたっておかしくない状況だったもん。現実って残酷だよね」

 夏香は悲しそうに笑って、ベッドに座りパンダの大きなぬいぐるみを抱きしめた。

「駄目だったんだね、学校に復帰するなんてさ。記憶喪失ってだけで問題がたくさん出てくること、最初から予測していたのに、いろいろ急ぎすぎたのかな」

 素直に「そんなことはない」と言えないだけにはがゆい。僕は夏香のとなりに座って、彼女の抱いているパンダの頬をこづいた。

 うぬぼれていたのは僕のほうだ。きっとうまくやっていけるんじゃないかと思った。初日はヒヤリとしたが、翌日からみんなの名前も覚えて、授業にもついていけるように勉強をはじめて、友達と弁当を食べたりして。

 僕は過去のゆがみのひとつひとつを覚えているし、それをくりかえさないようにと思っている。だけど、それがかなわないのはむしろ当然で、かなえようとすることのほうがおかしくて。

 別れた原因をいつまでもはぐらかして、周囲の目は冷たくなってきて、そのたび僕は自問自答をくりかえした。悪い記憶をすべてなくしてしまった、僕だけに都合のよすぎる状況。それを利用して甘い蜜をなめてやろうと、一瞬でも思った。本来、やり直してはいけない状況だったはずなのに。夏香が笑ってくれることで満たされて、それでよかったはずなのに。

 僕はパンダの頭をぽんと叩いて、「夏香」と呼びかけた。

「なんとかして、記憶、戻そう」

 夏香が僕をじっと見つめる。僕も彼女を見つめる。彼女の胸に抱かれているパンダだけがそっぽを向いている。

 僕はすうっと息を吸って、もう一度「記憶をとり戻そう」と言った。

「何もいいことはないって、よくわかった。確かに、逆行性健忘って一生治らないケースもあるし、難しいかも知れない。だけど、ちゃんと病院には行ってるんだろう?」

 夏香はこくんと小さくうなずいた。

「たまにだけど」つづいて、弱々しくつぶやく。「思い出しかけているときがあるの。彰には言ってないけど、クラスのみんなと一緒にいるとき、たまにね、ああその話聞いたことあるなって思うときがあった。なんとなく聞いたことあるような感覚ってだけで、はっきりと思いだしたわけじゃないんだけどね。だから、それは記憶というより、身体が覚えてるんじゃないかと思うの。まあ、これは記憶が戻ったって言わないか」

 夏香は自分の手を電灯に透かした。血潮が見えて、赤く染まる。

「私はまだ十四歳。だけど世界は、私が十七歳だと断言してやまない。この身体が本当に私のものなのかって、私の知っている私としてこの世界に今いるのかって、今でもたまに不思議な気持ちになる。他人になったような気分。心だけ他の人の身体に移植したような気分。気分だけね。だけど、学校に通ってあらためてわかった。私は確かに片岡夏香で、あのクラスで過ごしてて、新しい友達がたくさんいたっていうこと」

 僕は夏香の腕からパンダのぬいぐるみをそっとどけて、身体を寄せた。彼女の右手を左手でとり、強くにぎる。驚いたようすで僕を見やる夏香の目は、少しだけうるんでいた。

 僕はまばたきすらもためらわれるほど、彼女の瞳を真剣に見つめた。

「大丈夫、俺がいるから」

 確証のない言葉。あきるほど使われた言葉。

「もう、俺のわがままで誰かが傷つくのを見ているのは嫌なんだ」

 夏香が「どういう意味」と首をかしげたが、僕はかまわず彼女の手を強くにぎった。

「たぶん、うまくできないんだ。俺はこのままだと、夏香をしあわせにしてやれない。だから、記憶を戻そう。君がなくしてしまった日々をとり戻そう。そうしたら、きっと」

 きっと、僕も、つぶれてしまわずにすむ。

 賢一も、瞳も、村山も、夏香の両親も。

 僕は自分のしあわせを望んではいけないのかも知れない。夏香が忘れても、思い出しても、僕は悪夢をくりかえすだろう。凍った記憶を抱きしめて、土の中でじっとしているほうが賢明だ。彼女を本当に心から愛しているなら、記憶が戻って欲しくないなんて、一瞬でも思ってはいけないことだったのだ。

 夏香が悲しそうな顔をしたので、僕はあいている右手の指の背で夏香の頬をそっと撫でた。化粧をしていない素肌はなめらかで、陶器のように白い。手の甲をそっと当てると、夏香のあたたかさがじかに伝わってくる。あまりにも、あまりにも美しい、あまりにも純粋で、あまりにも無垢で。

 この頬が二度と涙で濡れてしまわないように。

 夏香が蚊の鳴くような声でつぶやいた。

「でも、怖いの」

 一度だけ、鼻をすする。「もし記憶が戻ったら、私は彰を」

 目尻がうっすらと赤くなっている。彼女の身体をひきよせて、壊れものを扱うように優しく抱きしめた。ふわり、とシャンプーの匂いが鼻をくすぐる。夏香はぴくりとも動かず、僕の胸に額をあずけていた。

 彼女ひとりを苦しませているのかも知れない。悔しくて、情けなくて、こんなときにかぎって何もできない自分に憤って、僕は夏香を抱く手が震えはしないかと、怖かった。

 そのとき、突然外からインターフォンの音が響いて、僕ら二人は反射的に離れた。顔を真っ赤にして両腕をかきだく夏香を見て我にかえり、「ごめん」と叫んだ。夏香は狂ったようにかぶりをふった。

 ドアのむこうから聴こえる声で、僕は来訪者が瞳だと分かった。慌ててベッドから立ちあがると、それとほぼ同時にノックの音が部屋全体に響く。ドアをあけると、案の定、瞳がお菓子か何かが入ったビニール袋をかかえて入ってきた。

「やっぱり」

 瞳は僕を見て、開口一番に言った。「もう一人お友達が来てるっておばさんが言ってたから、賢一かあんただろうと思ってた」

 肩を落とした。寒いのにミニスカートをはいている瞳は、むしろ沸騰せんばかりの目線を僕にむける。僕は空気を読んで夏香の部屋を出る。

 一旦トイレを借り、ふたたび夏香のドアの前に立った。入ろうかと思ったが、数秒逡巡してやめる。ノブにかかりかけた手をおろすと、ドアの向こうから声が聞こえてきた。

「彰のこと、今でも彼氏だと思ってるの?」

 防音設備がととのっていない家だから、瞳の声がつつぬけだった。

「私さ、正直、今でも夏香と彰が中学のときにつきあってたっていうのが信じられない。月とナメクジじゃん。あいつ、そんなにかっこよくないし、むしろ頼りなくて貧弱で」

「つきあいはじめのころは友達にもさんざん言われたよ。もっといい男選べよって。でもね、まあ、自分でもよく分からないんだけど、それでも彰が一番いいって思ったんだよね。頼りなくても、勉強できなくてもさ」

「夏香とのつきあいも一年半だけどさ、そのへんがよく分かんないなあ。どう考えたって村山がすべてにおいて完璧じゃん。超イケメンで頭いいし、優しいし。女子トイレでの事件で日名子たちが言ってたように、王子様じゃん」

「うん、村山くんはいい人だよ。三年後の私が好きになるのも分かる。でも、十四歳の私にとってはやっぱり彰が王子様だなあ。ごめんね、わがままで」

「ううん、そんなことない。ただ、意外すぎるんだよ。だって、今の彰さ、明らかに夏香に未練タラタラで鬱陶しいのなんの。気持ち悪いぐらいだったから、好きの形がおかしいって思ってね」

 どこまでぶっちゃけてるんだあの子は。僕は中に入ることができず、こっぱずかしい思いに駆られながらドアの前に座りこんだ。冷気がじっくりと身体の芯まで冷やそうと襲いかかってきていたが、気にならなかった。一階からテレビの音がかすかに聴こえる。外で大きなトラックが通過したらしく、タイヤの音と共に床が少し震えた。

「どうかな、中学生の恋愛なんて、高校生の瞳ちゃんにしたらくだらなくてつまらないのかも知れないけど」

「くだらなくはないよ。私も中学のときに彼氏いたことあるもん。ただねえ、私じゃどうころんでも彰を彼氏にしようとは思わない。村山のが百億倍いい」

 悪かったな。僕はがっくりとうなだれて体育座りをし、膝のあいだに顔をうずめた。どうせ僕はナメクジですよ。夏香以外の女子に男として見られたことがない根暗だし。

 でも、僕は夏香とつきあっていた。長い夢を見ているのではないとしたら。

 数秒の空白のあと、夏香が扉の向こうで小さく「それでも」と言った。

「それでも彰が一番なんだよ。私にとって、彰は誰にもかえられない。あとにも先にも同じ人はいない、たった一人の、立浪彰を私は好きになったんだよ。三年後になれば私は村山くんを愛してるのかも知れない。だけど今このときは、間違いなく彰を愛してる」

 僕は瞳のあきれる声を聴きながら、ゆっくりと立ちあがった。ドアをノックし、「ご歓談中失礼」と中に入る。床に置いたままの自分の鞄とコートをとった。

「先に帰るわ。夏香が元気そうならそれでよかった。ゆっくり休め。瞳、夏香と一緒にいてやってくれな」

 夏香に余計なことを言わせないために早々に身支度をととのえ、部屋を出ていった。「あっ」と夏香が何かを言いたそうだった。

 夏香の両親に挨拶をし、玄関から足早に出ていく。粉雪が降っていた。昼から少し降るという予報を見て傘を持ってきていたが、このていどの雪なら必要ない。

 僕はマフラーを首に巻きながら、空をあおいだ。吸いがら色の空から無数に降ってくる小さな白い粒たち。はかなくて、一瞬で消えてしまうような存在。次から次へと降ってきては、地面にたどりついた瞬間にその白さを失ってしまう。

 僕はマフラーを口元までひきあげ、門の鍵をあけた。が、同時に背後から玄関のドアをあける音が響いたので反射的にふりかえる。そこにいたのは夏香ではなく、荷物とコートを持った瞳だった。

「どうしたんだ」僕はマフラーをひきさげて言った。「俺のことなんか気にしないで、夏香といればいいのに」

「誰があんたなんか気にするか、うぬぼれ屋」

 そうでしたごめんなさい。彼女は僕の近くまでゆっくりと歩みよる。僕はハイエナの晩御飯にえらばれたライオンの子供のように固まってしまった。

 僕は平均と比べてそんなに身長が高くないけれど、瞳と並ぶと彼女も夏香と同じぐらいの背だということが分かった。彼女は少し下から僕を睨み、そして言った。

「夏香、本当に彰のことが好きなんだね」

 粉雪が、彼女の鼻先にまいおりる。空がこなごなにくだけて、その破片がおっこちてきているような粒。風にゆれ、踊り、何も語らない。無音の夢。

 僕は何も言えず、瞳の目を見つめかえすしかできなかった。一瞬でも目を離したらきっと噛みつかれる。そんな気迫とオーラをただよわせていた瞳が先に視線をそらしたときは、心底ほっとした。

「私ね」普段の瞳らしからぬ、弱々しい声。「彰や賢一みたいに、中学のころの夏香を知らない。それが歯がゆい。でもね、これだけは絶対に言えるの。私はみんなが大事。みんな、大事な友達なんだよ。たとえ夏香が彰を嫌ってても、私はずっとみんなの味方だった」

 過去形。

 最近の瞳の態度を見ていて、ある程度覚悟はしていた。うっすらとラップを隔てているような関係のまま、進級できるはずがないと思っていた。夏香のことに気をとられすぎて、厳しいが的確な話をくれた瞳に対して、僕は何かしてあげただろうか。

 何も言えずにいる僕の胸元に、瞳がため息を吐いた。白くなった息がコートにあたって、溶ける。

「女子トイレの話、聞いたよ」彼女は目を伏せながら言った。「全部信じてるわけじゃないけど、まわってきた噂、くだらなすぎて飽きてきた。だって、あんたたちふたりとも、そんなにうまく立ち回るほどずるくないでしょ。村山を捨てるために記憶喪失を利用するとか、なんかそういう」

「さすがに嘘だよ、それは」僕は慌てて否定した。

「だからわかってるって。少なくとも夏香の記憶喪失がガチだってことはわかってるし、村山のこと全然覚えてないあの子が、赤の他人の彼をそんなふうに扱うような性格じゃないのもわかってる。そんな中であんなこと言われたら、そりゃ叩きもするよね」

 ほっとして、少しだけ息をついた。呼気が白くなったことで、僕が露骨に安心したのが瞳にもばれたのか、逆ににらまれてしまった。話はそれだけじゃない、ということは、聞かずともわかっていた。

「根も葉も茎も枝もない噂が九割ってわかってる。でも、逆にさ、夏香の記憶喪失を利用してるのは立浪のほうだっていう、変な話も流れてくるんだよ。ネットとかLINEとかで」

 どこまで。

 噂はどこまで真実に触れるのだろう。下手に事実が混ざっているから、そばにいる人間でさえ迷わせてしまう。

「夏香があんたのことを好きっていうのを大前提にするけど」瞳の声が一段階低くなる。「だからこそ、疑問に思うことがある。彰が、本当に、純粋な親切心だけで、下心なく、過去のことを全部脇に置いて、夏香のそばにいるのかっていうこと」

 瞳の吐く白い息が、彼女の顔を見えにくくする。

「元カノがもう一度自分を好きになったこと、そんな簡単に捨て置けるはずがないよね」

 僕は何も言えず、まばたきもできず、唇が冬の空気に冷えていくのを黙って感じていた。自分の体をめぐっているはずの血が、こんなにも冷たくなることがあるのかと思った。僕はひょっとしたら、はじめから、それらしい体温なんて持っていなかったのかもしれない、と思った。

 見抜かれた、気がした。賢一が先に気づいて諫めてくれたことを、瞳は違う意味で受け取ったのだと知った。それは僕よりも夏香の立場に共感しやすいだろう瞳が、いつかはたどりつくと予測できたこたえだった。

 僕は、夏香の「元恋人」だ。

 少なくとも、瞳にはずっとそう見えていたはずだ。

 きっと、今も。

「彰は、本当は、今のままがいいと思ってる?」

 違う、とは、即答できなかった。それさえも見抜かれたのだろう。次の瞬間、瞳の拳が僕の腹にくいこんだ。

 当然、鍛えてなんかいるはずもない僕の貧弱な腹筋は一瞬で崩壊し、呼吸が止まる。よろめいて腹をおさえた。軽く咳をすると、胃のあたりに縄で締めつけられるような痛みが走った。ぎちぎちとひびいてくる鈍痛に歯をくいしばる。

 瞳が、その目にいっぱいの涙をためて僕を見ていた。

「夏香がどれだけつらいか、どれだけ頑張ってるか、あんたが一番わかってると思ってた」

 それは信頼の言葉だった。

 瞳はいつも、僕がそばにいれば夏香が笑顔でいることを、ちゃんと見ていたのだ。

 心臓ごと、血が凍りついた。

 瞳を裏切ったのは、僕だった。

「女はね」彼女は子供に話しかけるような声でつぶやいた。「男の都合いいように利用されるのが一番嫌いなんだよ」

 最後はほとんど叫んでいるようだった。瞳は顔を伏せたまま僕のとなりを走ってすりぬけ、道路をかけだしていった。一度もふりかえらずに、ひたすらに。

 ガラスがくだける音が、聴こえる。なつかしい痛み。逆回転をはじめる秒針。

 自分への嫌悪感が、果てしない憎しみのようになって、頭の中に溜まって腐りゆく。

 ふたたび夏香の家に入る勇気は僕にはなく、何度か腹をおさえて咳をしたあと、コートのポケットに両手を入れて歩きだした。雪は夜にかけて激しくなるらしい。僕はもう一度空を見あげた。紺と白が絶妙なコントラストをもってまじりあっているその色は、僕の中で消化不良になっている感情を全部まぜてしまいそうな、そんな空気をまとっていた。瓦礫のような白い粒。壊れざるをえなかった空の、かけら。

 三年前から、僕はずっと誰かを踏みつけているんだ。

 泣きたかったけど、泣く資格なんてないと思った。

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傷口にハチミツ 真朝 一 @marthamydear

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