第6話 Now and then

 夏香が学校へ復帰してから丸一週間がたった。クラスの女子たちの名前も覚えたようで、朝、学校へ来ると元気よく「なっちゃん、おはよう!」と手近な友達にあいさつをしていた。僕よりも女友達を優先することが増えたが、気にならない。今の彼女に必要なものは、できるだけ多い理解者と、安心できる空間だと分かっていたからだ。仲よしの友達がいるなら、それが一番いい。

 最近、「立浪とどうして仲がいいのか」という質問に対して、夏香は同じ答えをかえすようになった。

「階段から落ちたとき、助けようとしてくれたって聞いたの。入院してるあいだもずっとお世話になったから、仲良くなっちゃった」

 いまいち理論がズレているような気がしたが、女子たちはそこに気づかない。僕の脇をこづいて「やるじゃん」なんて言う始末だ。中三のときのトラブルを知らない友人は、しかたないことだが、いろいろと勝手である。

 僕が席についたとき、夏香にひとりの女子が近づいて「松永センセが呼んでたよ」と言った。夏香はみんなに手をふって教室を出ていく。廊下を去ってゆく足音を聞きながら、僕は空をながめた。

 苦みを知らない、今日の蒼天。青くスコンと抜けていて、気が遠くなる。

 ホームルームのとき、先生と一緒に入ってきた夏香を見て驚いた。夏香は少し苦々しい表情で席につき、一時間目の授業の準備をはじめる。その背中を見つめる僕とその他大勢のクラスメイトたちに、先生の残酷なアナウンスがあった。

「何億回も言うように、水曜からテストだから、いつまでもだらだらぐだぐだしてちゃダメよ。気持ちを切りかえて、シャキッとすがすがしい気分で試験にのぞむこと!」

 できるわけねー! 各方面からのブーイングが響く。

 それなりに勉強をしていれば誰でも合格するようなレベルの公立高校なので、試験前の一夜漬けで僕でもなんとかなる。だけど、僕はその場ですぐに夏香のことを考えた。

 その日の放課後、僕はいつも賢一と待ち合わせをしている公園で、夏香に試験のことについて触れてみた。

「そのことについて先生に呼びだされてたんだけどさ」夏香はため息まじりに言う。「結構勉強してきたし、確かに応用はきかないかも知れないけど、大丈夫だと自分で勝手に思ってる。でも、先生の意図が違ってたみたいで」

 夏香はブランコに座って言った。「私の試験だけ高校一年生の問題でやろうと思うけど、どうかって」

 おいおいそれはまずいだろう。僕でもすぐに分かることだった。

 同じクラスの人間なのに、ひとつもふたつもハンデを与えた試験なんて。それでも教師たちは最善の処置だと思ったのだろう。夏香ののみこみが早いことは補習の先生も十分承知しているので、それを考慮しての提案らしい。

 が、問題があまりにも多すぎる。特に、クラスのみんなに知れたら。

「それで内申書がとおるのか。もう二年の冬なのに」

「内申書に反映される試験じゃないってさ。どっちにしても無理あると思うんだけど。もちろん私が拒否したら撤回できる話なんだけど、他にいい方法が見つからない」

「無理ありまくりだろ。それでいいのかよ、夏香」

「いいわけないじゃん。確かに私もまだ授業についていけるほどじゃないし、多分、みんなと同じ試験を受けたらさっぱり分からないと思う。来週まで頑張って勉強したら、ギリギリ追いつくかも知れないけど」

 それって夏香が苦しいじゃないか。授業に追いつくための勉強も、最初はペースがよかったから僕も錯覚していたが、試験が近いとなれば別問題だ。

「夏香、それはちょっと条件を変えてもらったほうがいい。クラスのみんなに知られたらまずい」

「ね、超やっかまれちゃうよね」苦笑する夏香の額に汗が浮いている。

 やっかまれるなんてものじゃないだろう。全員が協調性を持って仲よしのクラスなんてどこにも存在しない。だけど、ひとりを贔屓にしてしまったら、いざクラスメイトたちが知ったとき、妬み嫉みの渦が彼女を襲う。自分ではない誰かが優遇されるという場面は、当然苦しい。クラスのみんなにばれなければいい、という単純な話ではないのだ。

 さすがの夏香でもそれをすぐに予測できているらしく、「どうすればいいのやら」と首をふった。僕はとなりのブランコに座り、うーんと顎に手をあてて唸った。

「妥協案が見つからない」

「だよねえ、どうしたって私が贔屓されてるってなっちゃうもんねえ」

 ブランコをゆるやかにこぎながらあれこれと思案していると、夏香が「あっ」と声をあげた。彼女の視線の先を見ると、公園の入り口に同じ制服の男子生徒が立っていた。あの、すべての人の目をひくイケメン。

 夏香はチェーンを強くつかんで固まってしまった。無理もない。病院で突き飛ばしてから一度も会っていないのだ。

 こちらを見ていた村山がやがて視線をそらし、気づかなかったふりをして立ち去ろうとした。僕はブランコから飛び降り「待てよ」と叫んだ。夏香は止めなかった。入り口まで走ってきた僕を見て、村山が眉をひそめる。

「邪魔じゃないのか」

「むしろタイミングよすぎ。相談があるんだ」

 僕は立ったまま事の経緯を説明した。村山はときおりブランコのほうを見ながら、何度もうなずいたり、首をかしげたりして聞いていた。

「それは確かに、まずい」

「なんていうか、その結論もわからなくもないけど、みたいな」

「他にやりようがないってのもあるけど、生徒の情報網を甘く見てるような気がするな。いまどき、スマホひとつでなんでも分かるのに。まあ、撤回できるんだとしたら、こっちから何か別の解決策を用意すべきだよな」

 村山はひとつため息をつき、腕を組み、空を見あげ、考えていた。軽く二分ほどそうしていただろうか。仁王立ちしていた村山がゆっくりと歩きだし、ブランコに近づいた。

 左右のチェーンをよせて驚く夏香を見て、数メートル手前で歩みを止める村山。これまで一度も見たことがない、ふたりの距離。おびえたようすでいる夏香の肩を抱くこともはばかられ、僕は村山の背後で立ち尽くすしかなかった。

 やがて村山が「夏香」と名前を呼んだ。彼女の肩がぴくりと跳ねる。

「病院以来だな、久しぶり」

 ふんわりと笑って優しく言葉をかける村山。ほんの少し警戒心をといた夏香が、チェーンから手を離して立ちあがる。

 彼女はバキンと音がしそうなほど勢いよく頭をさげて、「ごめん」と謝った。

「私、あの、村山くんが彼氏だったなんて何も覚えてなくって」

「村山くんて。なつかしいわ、その響き」村山は肩を震わせて笑う。「つきあう前、そう呼んでくれてた。今はユキって呼んでくれてるんだけどな。あ、ごめん、夏香にとっては三年後の今だけど」

 何週間かぶりに会ったというのに、ややこしい話をすんなり広げる村山。夏香は底知れない罪悪感におびえているような目で、笑っている村山をじっと見つめていた。彼氏になったらしい、見知らぬ男子生徒を。

 僕は、記憶のない夏香と今の状況を否定しない村山とのあいだに、消えない絆があることを知っている。いつも、授業が終わってすぐに教室まで迎えに来ては、夏香と手をつないで下校していた村山。楽しそうな笑顔。心から愛しあっていたふたり。

 あいだに割りこむなんて無粋なことはできず、固唾をのんで見守った。やがて村山がため息をつき、「忘れられちゃったもんはしょうがない」と言った。

「夏香、俺のことは気にするな」村山の瞳はまっすぐに夏香を向いている。「俺がどう思うかとか考えなくていい。どんどん頼れ。今の夏香の立場は苦しいし、つらいと思う。でも、それをひとりで背負いこむ必要はない。夏香には立浪がいるし、他にも友達がいる。で、何もかもの答えを見つけたとき、お前が一番しあわせになれる場所に帰ってきたらいい。そのときの決断を俺は守りたい。立浪だってそうだろう?」

 僕をふりかえり、アイドルのようにさわやかな笑顔で言う村山。僕はかるく唇を引きむすび、そして、しっかりとうなずいた。言われるまでもない、と思ったが、言われるまでその言葉にたどりつけなかった自分を恥じた。「な?」と言って夏香にむきなおった村山を見て、彼女は数秒の逡巡のあと、同じ笑顔で答えた。恋人だけじゃない、すべての人に平等に見せる笑顔で。

「うん、ありがとう」夏香は照れ臭そうに笑いながら言った。「あと、ごめんね、何日も顔見せないで、謝れなくて」

「そういうのいいから。会うの気まずかっただろ」

 お互いに、と言って村山は微笑む。そのひとことで気が楽になったのか、夏香はコメディ映画でも見ているような笑い声をあげた。

 ああ、と僕は思った。やっぱり村山は、夏香のことを大切にしているんだ。

 僕なんてとうてい及ばない。それどころか僕はこの状況に接して――まだ夏香の心境を慮ることが下手くそだ。村山のほうがよっぽど頼りがいがある。僕はふたりに見えないところで、少しだけ唇を噛んだ。

 警戒心をといて笑っている夏香に、「悪い、それで本題だけど」と村山がきりだした。

「立浪からテストの件を聞いた。まだ案を出してる段階だったら、夏香が拒否ればいくらでも撤回できると思う」

「そう、やっぱりそうだよね」夏香はほっとしたように肩を落とした。僕もなんだか安心してしまう。

 村山は腕を組み、右手の人さし指をくるくる回しながら言う。

「夏香、確かにお前は頭がいいけど、試験までに万全の状態で挑むのは難しいだろ。まして同じクラスのやつらと同じ条件でいけば、平均以下になることは目に見えてる」

「そりゃそうだよ、私、まだ高一の基礎だってやっとこさできるかどうかってな段階なんだし」夏香が苦笑した。

 僕は彼らのあいだに割って入った。「逆にさ、一年の内容で試験をやるって話を拒否って、例えば、夏香だけ一週間遅れっていうのは? それだけの時間があれば、夏香だって結構追いつけるんじゃないのか。そりゃ完璧じゃないだろうけど、試験内容は同じだから反感も買わないだろうし」

「それも難しいっぽい」村山がさらりと一蹴する。「余分に勉強する時間を与えたっていうのも平等じゃない。こっちも他の生徒の反感を買うだろうな」

 僕はブランコに座り、頭を両手でかかえた。「あーっもう」と半ばヤケクソで叫ぶ。夏香がしゅんとうつむいて「ごめんなさい」とつぶやいた。頭にたれさがった犬の耳が見えそうだった。

「いいよいいよ、そんなこと。夏香ひとりで考えたってしんどいだけだろ」村山が自然に夏香の肩に大きな手をおいてそう言う。なんだこのイケメン。やることがいちいちモテそうで、凡人の僕は落ちこむしかない。

 村山と僕があれこれと思案していると、夏香が思いきったように立ちあがった。

「ありがとう、ふたりとも」彼女の声が震えている。「私、このままでいい。みんなと同じようにテストを受けるよ」

 僕と村山は同時に「はああ?」と声をはりあげた。犬の散歩をしている近所のおじいさんが何事かとこっちを見ている。

「お前なあ、学校に復帰したいってときも言ったけど、無茶するなって。ていうか最近、無茶しすぎ。先生と話して、うまい方法を考えよう」

「大丈夫だよ、まだ三日もあるし、私の勉強は短期集中型が一番いいから」

「そんな単純な話なのかよ」村山が言った。

「単純だし、わりと軽く見てるよ。もちろん、みんなほど実力はだせないだろうし絶対に低い点になるだろうけど、それはそれでしょうがない。考えてみなよ、期末まであと一ヶ月あるんだよ? それまで頑張れば、きっと普通の高二ぐらいまで追いつける。それなら、一旦この中間は中途半端な状態でもきちんと受けて、低くてもフェアな条件で受けたほうがいい。で、期末で挽回するよ。逆に考えれば、期末までは二ヶ月もある。じゅうぶんすぎるよ」

 確かに、大学入試の内申書に響く試験ではないので、あとの試験で全力を尽くせばとりかえせるかも知れない、が。

 夏香がいつものように僕をにらみつけて主張を崩さない、首元をねこじゃらしでいじられているような感覚。守ってやりたくなるような雰囲気なのに、変なところで意固地だ、いつも。

 僕はついに「分かった、分かった」と観念せざるをえなかった。

「夏香の好きなようにしなよ。でも、ボロボロの成績になるのは目に見えてるぞ。それでもいいのか、プライド的に」

「プライドなんて最初から持ってないよ」夏香は無邪気に笑う。「使いこなすのが難しいから。あるのは自分だけだし」



 試験の日、夏香はギリギリまで教科書とにらめっこして、答案が配られてからおもてにひっくりかえすまでのあいだ、ずっと膝が貧乏ゆすりをしていた。開始の合図と同時に血気迫るいきおいで回答を書きこみはじめる。僕は、そうだ、すごいと思う。

 中間テストなので実施されない単元もあり、二日で終わってしまったが、最終日、一緒に帰ろうと声をかけたときの夏香の表情がいつもの溌剌さを失っていたので、僕はなんとも言えず困った。「失敗したことは挑戦したこと」夏香は笑って言った。

 テストが終わった疲れもそのままに、放課後、賢一と夏香と瞳と僕の四人で駅前のゲームセンターに行き、マックで延々と駄弁り、アパレルフロアで服を買った。高校デビューしてからきれいめの服を着ることが増えていた夏香は、それに抗うように白いニットを買っていた。肩の出る大人っぽいものではなく、タートルネックで袖口の広い、ボリュームの出る服だ。それはむしろ、中学時代の夏香の好きなファッションだった。

 不変のものは何ひとつない。だけど、忘れはしない。

 テンションが下がる傾向がまったくなく、僕ら四人はそれぞれの家に連絡をいれて、夕食のためにファミレスへとなだれこんだ。僕は腹が減っていたので焼肉とハンバーグとから揚げの甘酢かけを食べた。正面に座る夏香はスープに和風ドリアというあっさりしたとりあわせだった。僕らは学生らしくただひたすらにしゃべりながら次々と料理を口へと運び、ドリンクバーでねばりながらそれでもまだしゃべっていた。

 夏香と賢一が映画の話で盛りあがっているとき、「ショーン・コネリーの命日にはずっと007見てたもんねえ」と瞳が口をすべらせたものだから、夏香が驚いて身を乗りだした。

「ショーン・コネリーって、死んじゃったの?」夏香が叫ぶと、瞳がばつの悪そうな顔をした。「嘘、今まで何回007シリーズ見たことか」

「俺にとってはインディ・ジョーンズの父親役が一番思い出せるけど」

「あれは結構変わった役だったよ。ジェームズ・ボンドみたいな渋い役が多かったから」

 ときどき、会話のはしばしに、夏香の時間が巻き戻されていることを思い知る言葉があらわれて、僕は動揺を隠せない。

 誰も夏香のテストのことには触れない。僕だってそこであれこれ言えるほど理屈っぽくはない。夏香の中では今でもなお、世界は新幹線の車内に閉じこめられているようなものだろうから。人間の足ではとうてい追いつけない速さで走り、有無を言わせない。

 時間は、流れるものじゃない。常に全力疾走で一目散にどこかへむかっている。わきめもふらず、何も考えず。

 帰る直前になって、僕らは最初に立ちよったゲームセンターに再び入った。瞳が「四人でプリ撮ろう」と言いだしたのだ。手近なプリクラ機に入り、それぞれ百円ずつ出す。「機種がすごい近未来になってる」と夏香は興奮気味で、瞳と一緒に画面を操作していた。僕と賢一はふたりで呆然と見ているしかない。言われるがまま六枚ぶん撮影する。並んだりひっついたり、アップになったり、変顔を作ったり。撮影したものは実物よりも目が大きく、顔が小さく勝手に加工されていて、少女漫画みたいで笑ってしまった。

 落書きコーナーで画面をスイスイいじる夏香と瞳を、また僕らは背後で見ているだけだった。女ってどうしてプリクラの機械をここまで使いこなしているのだろう。ついていけない、女子の文化。

「ねえねえ、ここに名前書こうよ。直筆で」

 瞳が僕にペンを手渡して言う。僕はふたりのあいだに割りこんで、自分の胸元に「あきら」とひらがなで書いた。賢一もそれに続く。そして瞳、最後に夏香。それぞれの名前を書き終わり、瞳はすでにあるスタンプから日付のものをひっぱってきて、一番下に据えた。

 西暦の数字の残酷さは尋常じゃない。だけど、夏香は自分のらくがきしているプリクラにも貼りつけた。

 プリントされたプリクラは、半透明のシールになっていた。QRコードを入れて、スマホに画像データをダウンロードする。夏香と、瞳と、賢一と、僕。思い出をそのまま切り抜いたような、ちいさな写真。

 僕はシールをゲームセンターの電灯にかざした。すこしだけ透けた四人の姿。僕は夏香にDVDをあげた『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の、手が透けて存在が消えかかっていた主人公を思い出した。過去の世界で父親と母親の運命の恋を台無しにしてしまった代償として、息子である主人公が消えてしまいそうになる話だった。

 ほんの些細な、一瞬の出来事がなかったことにされただけで、存在ごと消えてしまう人間。

 僕は半透明のシールを、反射的に光から避けた。そして、スマホの背面とケースの間にしまいこんだ。


 八時過ぎに駅前で解散したあと、僕は夏香を家まで送っていった。街灯のあかりがぼんやりと足元を照らすだけの暗い住宅街を、他愛もない話で時間をつぶして歩いていった。暗い海の底にのまれてしまったような街。活気はあるけれど、夜になれば万物が静かに眠りにつく街。

 夏香の家の前で「じゃあ」と帰ろうとすると、うしろから呼びとめられた。夏香がふっきれたような表情で笑っている。

「本当に、いろいろとありがとう」

「いや、俺、何かしたっけ」

「したよ。私、彰に相談しなかったら先生の案にのってたかも知れない。ノーと言えない日本人だから」

 なんだよそれ、と笑いあう。よく似ている笑顔だった。

「俺は素直にすごいと思うけど。俺が手を貸さなくても、結局夏香はひとりできちんと解決しちゃうところがあるから」

「あんまり褒められてる気がしない」夏香が腹をかかえて笑った。

 風が少し冷たい。冬本番はもうすぐそこまで来ている。僕は「家に入りなよ」と言ったが、夏香は首をふった。

「話したいことがあるの」

「何、どうしたの」

 僕は門にもたれかかって、彼女の返答を待った。夏香は門の取っ手に手をかけ、そのまま硬直した。彼女の笑顔が鉄板の上に乗せられた氷のように、じんわりと溶けてなくなっていく。消滅して吸いこまれてゆく。

 夏香の顔をのぞきこんでいると、彼女は「分からないの」とつぶやいた。

「まだ、ちゃんとのみこめてないの。私と彰が別れたこと」

 前髪を指先で耳にかける仕草が美しかった。僕は何も言えない。

「そりゃ、現実なんだからって何度も言われてるし、分かってるつもり。でもね、確かに私と彰はつきあっていたし、恋人同士だった。それが私の中で今でも生きているから、消化不良感がいなめないの。ずっとこのまま一緒にいるんだって誓いあったのに、どうして三年後には私が彰を避けるようになって、言葉もかわさないような仲になってるんだろうって」

 夜空を見あげた夏香は、気丈に笑ってみせた。

「不思議だよね。本当に、何度も言うけど、タイムスリップしてきた気分」

 ふたたびうつむいてつづける。「記憶が戻らなかったら、きっと彰とこのまま一緒にいられるんじゃないかと思うんだ。でも、もしそうなったらね、誰もしあわせにならないんだよ。必ず誰かが傷つくんだよ」

 空をあおいで涙をこらえる夏香の言葉を聴いて、僕はようやく自覚した。

 ――夏香と、関係を戻したいと思っているのかも知れない。

 ここまで来てもなお「かも知れない」と付随することが嫌になった。

 あまりにも卑怯で、情けなくて、幼稚。僕の中で何度も警告の鐘が鳴っていることにはとっくに気づいていたが、夏香の優しさで耳をふさいでいた。きっと大丈夫、なんとかなるんだと甘い言葉でつられるままに。

 戻りたい。夏香とつきあっていた、しあわせなあの頃に。

 手をつなぐほど、言葉を交わすほど、笑顔を見せてくれるごと、そう思っていたはずだ。いつも、思いながら隠していた。自分からも、過去の自分からも。

 それは、幼稚な僕でさえ、誰かを傷つけてしまう結果を予感していたからかも知れない。未来のために現在を変えられても、現在のために過去を変えることはできない。記憶から消してしまいたくなるほどの出来事でも。

 夏香は肩をすくめ、困ったように笑った。

「こんなこと、今考えてもしょうがないね」

 いや、むしろ今考えなきゃだめなことだろう。そう思ったが口にしなかった。門をひらいて敷地内に入った夏香は、一度だけふりかえって叫んだ。

「なんとかなる! しあわせになろうね、彰。きっと私たち、なんとかなるよ」

 そう言ったきり、扉の向こうへ消えてしまった。夏香の部屋に明かりがつくのを見届けて、僕は自宅のほうへ足を向けた。

 しあわせ。ただ僕はそれを望んでいた。誰に向けるでもなく、誰にむけられたものかも分からないまま、一途に。優しいかおりに誘われて誰もがその色にキスをする。人は誰もが、ただしあわせになるために生きているのに。

 バニラ色の空の向こうには、確かに、僕が望んだ色があるはずなのに。

 僕は住宅街を一目散にかけぬけた。



 試験が終わった翌日はのんびりしていたが、こちらの都合など考えずにやってくる冬将軍に誰もが死にもの狂いで応戦し、しかし桜のように散り、暖房のない教室でカイロなどを頼りに暖をとる日々が続いた。そんなふうに比喩すると夏香が「『ラスト・サムライ』の最後のシーンみたい」と笑った。空は手をのばせば届きそうなほどひくく、ずっしりと重い灰色をしていた。

 朝、教室で鞄からノートやペンケースを出していると、賢一が僕を廊下に呼びだした。寒いのに。ズボンのポケットに両手をつっこみながら「なんだよ」と文句をたれると、賢一はさらにひと気の少ない渡り廊下近くまで僕をひきずっていった。本気で寒い。風がドアの隙間から吹きこんでくる。

 賢一はポケットに手をいれながら、いらついたようすで「お前さ」ときりだした。

「夏香とよりを戻したいと本気で思ってんの」

 寒さが四割増しになる。

 僕は貧乏ゆすりをやめて、棒立ちになって賢一から視線をそらす。たっぷり数十秒は時間をおいて、「分からない」と答えた。

「自分でもどうしたいのか、分からねえんだよ」

「分からないのか」

「分からないままのほうがよかったんじゃないかって今一瞬でも思った自分が嫌んなった」

 ため息をついたのは同時だった。賢一はあきれたように腕を組んで目を伏せている。

「俺はさ、彰のこと、理解してやりたいと思ってるよ、基本」

 ひらかれた目はけわしかった。「だけどさ、お前が分からないことを俺が分かるわけがない。だから何も言えない。でもお前のこと、はたから見てると情けなさマックスでこっ恥ずかしくなるわ。どうすりゃいいんだよ、俺」

「悪い、心配かけて」

「心配してない」賢一が眉をひそめる。「見ててムカつくだけ」

 だろうなあ、と僕は肩をすくめた。自分の女々しさや情けなさはよく分かっているつもりだ。同じ男からすれば少年漫画じみた情熱や根拠のない思いこみだけがつっぱしって、思いきりの悪さが嫌というほど露呈しているだけに見えるのかも知れない。分かっているのにやめられない。足元がふらついて、手に持っているものがこぼれそうになる。

「なんとか決断しなきゃ、って思うんだけどさ」僕はついと視線をそらした。「今、ぐちゃぐちゃなんだよ。俺だって元彼だし、より戻せるなら戻したいって本心では思ってるはずなのに、夏香を大事にする方法が見えてなくて、そのくせいっちょまえに自己弁護だけはできて。何をやっても夏香を傷つけちまいそうで、怖くて何もできねえし、言えねえんだよ。情けない」

 僕は繰りかえした。「情けないんだよ」

 そんな状況下で、好意とはいえ誰かの手を借りたら、それは急に自分の意志とは違うものになってしまうんじゃないかと思った。それは無責任ではないのかと僕は、恐れた。

 賢一は中学から今までずっとつるんでいる腐れ縁だが、互いのことは言葉にせずとも自然と理解しあえる仲だし、雑多につるんでいる男友達や女友達と違って唯一の関係である。

 だからこそ、僕は。

 ここは僕が道を決めなくてはいけない。賢一に決めてもらうことではない。

「でさ」僕は思ったことをそのまま口にした。「まずは自分がやりたいこととか決めて、気持ちに整理つけようかと。時間をかけてでも、ちゃんと。それで進むべき方向が決まったら、オールをこぎだすのにお前の力を借りるかも知れない」

 そういうわけでよろしく、親友。

 普段あまり口にしない単語のせいで、最後の言葉はこっぱずかしくて喉の奥でひっこめられてしまう。が、賢一は鼻で笑って「わかってるよ」と言った。いつもと寸分たがわぬ笑顔。それを見て、ようやくほっとした自分に気づいた。自分ひとりでこの状況と戦っているわけじゃないとわかって、夏香と同じく、彼も手放してはいけない存在なのだと思った。

「それでなのか、彰」

「何が」ふたりで教室のほうへ戻りながらたずねかえした。

「お前と夏香が別れた原因を、彼女に話さない理由だよ」

 賢一はおおげさに肩をすくめた。彼は知っている。世界中でほんの数人しか知らない、僕らが別れた本当の理由。

「忘れられるわけないだろ、和久井のこと」

「あいつ、何してんだろうなあ」

「年賀状とか見てるかぎりは元気してるみたいだけど。問題は、今の夏香が和久井のことを知らないってことだ。もしかしないとは思うが彰、話さないままずっとこのままでいようとか思ってるんじゃないだろうな」

 ちょっと思ってた。

 だけど、そう考えると底浅い胸の隅がチクリと痛むので、毎度毎度、撤回をくりかえしている。

 賢一はややあって僕の肩を叩き、「彼女を大事にしろよ」と言った。

 教室に戻ると、夏香がまっさきに僕の手を触ってきた。「超冷たい」そう言ってカイロを押しあててくる。冷えきった手のひらにそれはほとんど無意味だったけれど、僕は笑って「ありがとう」とかえした。

 胡乱な事件その二が起こったのは、その直後だった。

 となりの教室から一瞬、にぶい破壊音と女子の槍のような悲鳴が聴こえた。何事かと腰をあげつつも見に行こうとはしないクラスメイトたちと同様に、僕も賢一も夏香も、ただ耳をすませてようすをうかがっていた。

 次に聴こえたのは男子の怒鳴り声だ。何を言っているのかまでは分からない。だが、発生源は声ですぐに分かった。――村山だ。

 僕と賢一ははじかれたように立ちあがって、廊下に飛び出した。肩越しにふりかえって、夏香に「ちょっと待ってて」と叫ぶ。となりの教室のドアをあけるとすぐ目の前で女子のかたまりが数人分、そのまわりには野次馬。何人かの視線が一瞬僕らにむいたが、すぐに渦の中心に戻る。

 女子に囲まれている村山は、椅子をたおして立ちあがり、机の真ん中に手をついている。その手のひらの下で細身のシャーペンにヒビが入っているのを見て、さっきのごつい音がこれだとすぐに分かった。

 村山は僕らに一瞥もくれず、普段の彼からは想像もつかない憤怒の表情で顔をあげる。彼の視線をもろにくらった女子たちが「きゃっ」と短く叫んだ。

「言ってくれんじゃねえかよ」村山が、その甘いマスクに似合わない、ドスをきかせた声で叫んだ。「夏香に滅ぼされるなら願ったりだ、何か文句あんのか!」

 僕と賢一は教室に押しいり、今にも目の前の女子に噛みつかんばかりの形相の村山を押さえつけた。腕をひっぱって「何やってんだよ」と叫ぶ。周囲の好奇の視線にさらされながら、僕は怒りがおさまらない村山を廊下にひきずりだした。

 もつれあいながらほうほうのていで渡り廊下まで来る。チャイムが鳴った。「サボりになるぞ」と賢一が言ったが、僕はため息をつきながら「ホームルームぐらいどうでもいいよ」と一蹴した。

 いまだ熱冷めやらぬ村山が顔を真っ赤にして、強く地団太を踏みながら、校庭に向かって叫んだ。

「ああもうムカつくムカつく、久々にすっげえキレた!」

「うん、村山があんなにキレるキャラだと思わなかった」賢一がおっかなびっくり彼の肩をおさえて地団太をやめさせた。

「どうしたん、クールなユキくんが珍しい。女子が原因なのは状況で分かったけど」

 村山がキレると迫力があって怖い。まったく話しかけられずにいるチキンの僕をさしおいて話をすすめる賢一。村山はほてりが少しおさまってきた顔を片手でおおい、あきれたようにため息をついて話しはじめた。

 ことの発端は単純。

 村山が夏香とつきあっていることは公認だが、これまで諦めていた女子たち数人が急に村山に色気を使うようになってきたのだという。夏香を気づかって距離をおいている村山だが、事情を詳しく知らない女子にとっては夏香にふられたとしか見えなかったらしい。というより、そう都合よく解釈されてしまった。

「夏香が立浪になびくなんて、ひどい。夏香のことはもう忘れなよ。私は村山のこと、夏香より大好きだもん。一緒にいてあげる。だから大丈夫だよ」

 日本語に訳すと「夏香をあきらめて自分を選べ」としか聴こえない言葉をかけ、使い古された話術をさんざんに駆使してくるスナイパーたちが鬱陶しくなり、かたっぱしから断ってきた。が、先刻の女子の反論はこうだ。

「どうして記憶がなくて、自分のことを全然愛してくれない子を、そんなにずっと待っていられるの? そんな恋、つらいじゃない。村山って優しいけど、ずっとそんなんじゃ村山が身を滅ぼしちゃうよ。もっと自分を優先して。しあわせになろうよ」

 少女漫画から丸パクリしてきたような紋切り型のセリフに「うええ」と賢一が吐く真似をした。僕もさすがに気分が悪い。けなげな女の子を演じているつもりなのだろうが、下心がつつぬけで興ざめだ。男は単純な生物だけど、盲目ではない。

 怒る気持ちはおおいに分かる。モテ自慢ムカつく、とはならなかった。それはひとえに村山の人柄か、その堂々たる態度ゆえんか、そもそも到底かなわないせいか。

「えげつねえなあ、女子。獲物の男の前では擬態した昆虫か。絶妙に心動かされそうになるのが余計怖い」

「あああなんかもうまた腹立ってきた」

「落ち着けよ。女子に暴力ふるわなかっただけ賞賛に値するんじゃねえの。俺が村山の立場だったら絶対殴ってる」

 当然、賢一から「万万が一でもそんな立場はありえねえから安心しろ」とつっこまれるれる。そりゃそうだ、僕が夏香と別れたとき、チャンスとばかりに夏香に言いよる男子はいても、僕を狙う女子は誰もいなかった。

「なんかさあ」村山が肩をすくめた。「情けないってずっと思ってたけど、下手なかけひきとか使わない立浪のほうが恋愛に真面目じゃないかって思えてきた」

 いやいや、むしろ不真面目ですよ、チキンなだけです。

「そんなに夏香、嫌われものだっけ」

「いや、そんなことないだろ、友達いっぱいいるし。ただ、それと男女の云々は別物なんだろ。友達の彼氏だから諦めてたけど、今記憶喪失で半分別れてるようなもんだしラッキー、奪っても今の夏香なら恨まれないしチャンス! みたいな」賢一が残酷なことをさっくりと口にする。

「ああ、夏香がそう思われてんのかって考えたら、そっちのほうがうぜえ」村山が再度地団太を踏む。「俺、どうすりゃいいんだよ。夏香が怖がったらだめだから近づかないようにしてるけど、このままだと夏香だって女子にいびられんの、確定じゃん。へたしたら俺どころか立浪まで詰問の嵐だし。うぜえことの連鎖だな、今回のこと」

 ――でも、もしそうなったらね、誰もしあわせになれないんだよ。

 僕は「やばい」と思った。何がどうやばくて、どういう経緯で「やばい」のか、そういったことを理解するにはあと数分必要だったが、単純に、このときの脊髄反射で本能的に「この状況はやばい」と判断していた。村山は僕をいっさい責めなかったのに、心臓をナイフでメッタ刺しにされている気分だった。

「村山さ」

 僕はふりかえらずに声をかけた。彼も僕を見ず「何」と言った。

「夏香のこと、好きなのか」

「好きだよ」

 間髪いれずかえってきた答えは、予想していたとはいえ首筋にぶすりとつきささる。

「どれぐらい好きなんだ」

 僕のその野暮ったい質問に、村山はふむと顎に手をあてて考えていた。

「バイロンじゃないけど」彼の笑顔は優しくて、父親のようだった。「夏香のためにすべてを失うことがあっても、他の何かのために夏香を失いたくないってぐらい」

 連絡通路のドアをあける村山は、ライフルのレーザーポインターのようなするどい目で僕を見た。何も言えなかった。

 はじめて、彼から牽制された気がした。もし本当に夏香を失いそうになったとき、彼は今まで耐えていたぶん、睨む先を変えるつもりでいるのだろう。普段の笑顔からは想像もつかない、真剣な目で。

 教室に戻るとホームルームは終わっていて、僕たちは一時間目の授業がはじまるまでのわずかな時間を楽しむ空気にふらふらと足を踏みいれる。夏香が自分の席で僕たちのほうを見ていたが、心配こそすれ、僕たちが教室を飛び出していった事情は聞かなかった。

 どうやって説明しよう、と考えていると、夏香のほうから席ふたつぶんの距離を飛び越えて、カイロがひとつ投げこまれた。僕はそれを受けとって笑った。夏香も笑いかえした。

 自分の席に座ってカイロで手をあたためているとき、「そうだ」とつぶやいた。何が「やばい」のか、そのときになってようやく気がついた。

 記憶喪失になった夏香と一緒にいる僕の存在が、今の学校に弊害をもたらしていることは重々承知だったが、村山にここまでひどく飛び火するのは初めてだった。と思っていたのは僕だけで、実際はもっと以前から村山の方角へ火の粉が飛んでいた。隣のクラスだから、それに僕が気づかなかっただけか、あるいは村山が必死で隠していた――夏香をサポートする僕の邪魔にならないように?

 僕は机に顔を伏せた。自分に腹が立った。冷たい机を拳で叩きたくて、我慢して、その代わりに奥歯をつよく噛みしめた。どんどん目の前の崖をのぼってゆく村山を、僕は地上から呆然と見あげるどころか木の枝でつついていたのだ。

 朝見たとき「落っこちてきそう」と思ったほどひくい、タール色の空から、よく耳になじんだ雷の音が落っこちてきた。雨の匂いは、しない。

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