第5話 Don't stop believing
僕はその日の晩、深夜まで夏香とLINEのやりとりをしていた。
昼休み、互いにスマホをチェックすると、夏香のLINEの友達リストにはやはり、すでに僕のアカウントはなかった。ブロックリストに入っていたのだ。それを知って落ち込む夏香だったが、ブロックを解除して友達一覧に名前が復活すると、安心したように笑っていた。ブロックされているかどうかを確認するのが怖くて、僕は夏香のアカウントを消さずにそのまま放置していたが、そのことをついに夏香に話せなかった。
内容は、あまりにも他愛のないこと。「学校デビューおめでとう」からはじまり、今やっている授業の内容や、彼女の好きな映画の続編のこと、世間の事件、僕の近況など。三年分、話題があった。彼女はあらゆることを知りたがったし、すべてを覚えようとした。
「私ん家の近所のレンタルDVD屋さんが、いつの間にか潰れててさ。配信サービスがたくさん出てるとはいえ、なんかちょっと寂しかったな。借りて見るのも醍醐味だったのに」
「うん、俺も配信で出てない映画はレンタルしてたから、どんどん潰れて微妙に不便なんだよな。バイトするようになったし、ちょっと高くて本数多いサブスクに変えたわ」
三年という時間は、夏香にとっては町や世界がほんの少し、生活には困らないが戸惑うほどには変わってしまう、長い時間だった。見知った店がなくなったり、知っている有名人が炎上していたり、知らない流行語がネットにあふれていたり。それについていちいち問われてこたえるのは、少し楽しかった。幼い子供が言葉を覚えていくのを見守る気分だった。これをくりかえして、人は誰かに愛着を覚えるのだろう。日に日に、今の夏香への愛おしさが積もってゆく。最初の迷いが、ナイフで優しく削るように減ってゆく。
僕は「そろそろ眠いから寝るわ」と返事を打ってスマホの画面を切った。少し考えてふたたびひらき、シークレットフォルダにある夏香との写真を待ち受け画面に設定した。屈託のない笑顔で笑う彼女と、僕。
しあわせで、何よりしあわせで、恋に夢中になった中学時代。どんな映画も、彼女と一緒に見ると楽しかった。彼女がそばにいてくれたらどんな苦難も乗り越えられると信じていた。悲しいことがあっても、一緒にいればぬくもりをわけあえた。身体がふたつに分かれていることすらもどかしかった。ここにいることだけが真実だと、ただ確信を持てていた。
そんな時代の夏香が、まるでタイムスリップしてきたかのようにふたたび僕の目の前にあらわれた。こんな状況に接して僕はうまくあしらうこともできず、自分でも分からない感情にひたすらにふりまわされてそれをよしとしていた。一時の心地良さに負けていた。
スマホが鳴った。夏香からの返信。僕は思わず頬をゆるませた。
『はーい、おやすみぃ。明日も一緒に学校行こうね!』
翌朝、彼女の家まで迎えに行ったら「おっはよう!」と玄関口で夏香に抱きつかれた。たいして筋トレもしていない貧弱な僕は、そのはずみでうしろにひっくりかえる。なんだこの小動物は。昨日あんなことがあったから多少心配していたが、サヨナラホームランを打ったバッターのように女子たちに歓迎されていたから、元気が出たのかも知れない。杞憂のようだ。
僕は彼女の胸が腹にあたるのを意識すんな意識すんなと自分に言い聞かせてひきはがし、「早く行くぞ」と先に道路へ飛び出した。一年近くつきあっていたのに、夏香の胸を触ったことが一度もないから、気分はほとんど初めてエロ本を友達から借りた中学生だ。しょっぱい。うしろから夏香が腕に飛びついてきたから、今度は二の腕に胸があたる。できることなら二の腕になりたい。
枯れ葉が地面を占拠する公園で賢一と合流して、一緒に学校へ向かった。教室に入るなり元気よく「やっほー!」と声をはりあげる夏香に女子たちがいっせいに集まってきた。ほっぽらかされてしまった僕は苦笑しながら賢一と席につき、転校生のような扱いを受ける夏香を見ていた。授業はどうするかとか、お昼を一緒に食べようとか、チャイムが鳴るまで学校を案内してあげるとか、あれこれ話しかけられていた。
「元気そうじゃん、昨日のことがあったのに」
賢一の言葉に、僕は笑って「みたいだ」と答えた。昨日、僕らが一番恐れていたことが起こり、さっそく夏香を登校拒否にしてしまうかと思ったら、夏香本人の力のあるスピーチにより、意志がしっかりしているところはこれまでと何も変わらないことを示した。
ひょっとしたら僕以上に冷静に現状を把握しているかも知れない賢一が、椅子をかたむけて顔をよせ、小さい声で話す。
「村山とは、どうするつもりなんだろうな、夏香」
意図的に避けていたその単語に僕はがっくりとうなだれた。どうするつもりかなんて夏香から聞いていないし、僕も最善の方法が分からない。
夏香は村山に熱っぽく抱きしめられ、いきなり突き飛ばした。愛する彼女への抱擁を思わぬ暴力でかえされた村山もそうだが、夏香だって、彼女の中では彼氏でもなんでもない男にいきなり抱きつかれてそうとうな心理的ダメージを受けているはず。
となりのクラスに村山が在籍している。夏香が学校へ復帰したという話はとっくに耳にはいっているだろう。
「むしろ、他の女子がそのことについて言及しないのが不思議」
机に頬杖をついて、女子たちの台風を見つめながら、ぼそりとつぶやく。賢一はさらに椅子をかたむけて危なっかしく足を机に乗せ、「今はそれどころじゃないのかもな」と言った。椅子の足がギイとおびえた声をあげた。
「夏香が記憶喪失になってるっていうことが一番、女子たちの関心ごとなんだろうよ。でも、覚悟はしとけよ、あいつら絶対に村山のこと触れてくるから。あと、夏香が普段、お前のこと嫌って避けてること。そのときにどうするか、考えとけよ、当座の彼氏」
人差し指をつきつけられて、僕は少し身をひいた。が、すぐに唇を突きだして「分かってるし」と返事をした。賢一は笑う夏香を見やりながら、「だといいけど」とそっけなくかえした。
当座の彼氏。なんだかその言い方がしっくりきた。期間限定、仮の彼氏、しかたなく彼氏、夏香の中での彼氏。彼女を遠まきに見つめて二年、あたえられたこの不思議な身分に僕は首をゆっくりとかしげた。少し伸びた前髪が目にかかって痛い。
僕らへの朝のあいさつもそこそこに夏香のところへ飛びこんでゆく瞳を見て、まあいいか、と勝手に決めた。それでいいんだ、と思えるだけの気持ちの余裕が、今はある。
午前中の授業、夏香はまったくついていけないようすで頭をかかえていた。彼女が幼いころから習っているという数学は、基本さえ覚えればほとんど問題なかったらしいが。彼女は休憩時間中、瞳の席にアクセスし「古いノート貸して」と頼みこんでいた。もちろん瞳は大喜びで、家にある一年生の頃のノートも貸すという。あっというまに放課後の予定をたててしまう夏香を見て、その順応性の高さと人なつっこさに感服してしまった。
彼女が一番苦戦しているのは、やはり英語のようだった。休み時間じゅう、彼女は友達のノートを借りてできる範囲で予習し、女子たちに中学三年と高校一年の基本をあれこれと教えてもらい、授業中もとなりの席の子に何度も話しかけては説明をしてもらっていた。先生も気をつかって、ときどき補足解説をする。
無茶だと最初は思ったが、たった一日で彼女は中三で習う範囲を自前のノートにまとめてしまった。もちろん付け焼き刃なので自宅に戻ってからきちんと自分なりにまとめるつもりらしいが、夏香は「まずはざっと頭に叩きこむのが最初。しっかり応用がきくようにするのはもっとあとでもいい」と真剣な目で語った。「頑張ってるね」と言うと、照れくさそうに笑った。少なくとも、僕にはできない。
この子のそばにいたいと願った。この子が成長するのを、一番近くで見たいと思った。
うれしそうに僕らのいる机に走ってきて、「井端さん、あー間違えた、瞳ちゃんに古い教科書貸してもらえることになったんだ! これで結構早くに授業に追いつけるかも知れない」と黄色い声で叫んだ。僕ら男には理解できない女特有のハイテンション。箸が転げば抱腹絶倒。僕は金切り声に目を細めながら、「よかったじゃん」と笑った。夏香が笑いかえしてくれた。
放課後、僕と賢一に「ごめん、瞳ちゃんの家に寄るから、先に帰ってて」と嬉しそうな笑顔で報告してくれたときは、子供の結婚式が終わったあとの父親の気分をぞんぶんに味わえた。あるいは子供のはじめてのおつかいを見守る母親。
そういうことならば帰るしかあるまいと、僕は賢一の背中を蹴とばして教室を出た。窓ごしに、夏香が瞳と話をしているのが見えた。もともと友達だったとはいえ、あっという間に仲良しになってしまったようだ。僕は少しだけ笑って、長い廊下をかけぬける。背後で賢一が「こけんじゃねえぞ」と叫んだ瞬間、靴底のゴムが床にひっかかって前のめりに転んだ。いてえ。
すりむいた手の甲を指さして馬鹿みたいに笑う僕を見て、賢一があきれたように肩をすくめて苦笑していた。
夜、風呂あがりで濡れたままの髪を乾かしもせずに部屋でジャンプを読んでいると、窓をコンコンとノックする硬質の音がひびいた。一瞬ひるんだが、ガラスの向こうから聞きなれた声がして、僕はあわててカーテンをひらいて音の主を確認した。
雪でも降るんじゃないかと冗談抜きに言えるほど寒い外界で、夏香が出窓の隅によりかかって「やっほう」と手をあげた。僕は窓を急いであけた。
「なんで来てんだ、寒いのに」
「なんて冷たいんだ、寒い中彼女が遊びに来たのに」
夜の十時に何を言うか。玄関から突撃せずに出窓をノックするあたりが昔の夏香らしく、突飛というか、変わってるというか。別に今まさに読んでいるジャンプが実はエロ本とか、そんなわけじゃないからかまわないのだけれど。
夏香は窓から身を乗りだして、マフラーからちょこんと出た口をめいっぱいひらいて、楽しそうに報告した。
「瞳ちゃんのアカウントがあった!」
情報量が少なく困惑するしかない僕に、彼女は説明してみせた。つまり、自分にとっては初対面であるところの瞳と仲良くなり、LINEを交換しようと思ったら、すでに井端瞳が友達登録されていた、と。クラスのみんなとのつながりが残っていたことが、夏香にとってはよほどうれしかったらしい。
僕は、それをわざわざ直接報告しにきた夏香の行動がどうしようもなくかわいくて、笑ってしまった。肩を震わせる僕を見て、夏香がいつものように「笑いごとじゃないよ」とふくれる。
かわいいな、と思った。こんなかわいいところを僕は好きになったのだ。
僕はこみあげる笑いをなんとかおさえつけながら、「わざわざご足労かたじけない」と手をふった。
「LINEも連絡先も、ものすごい登録数で。ていうか、スマホが変わっててびっくりした。私、七十件も登録したことないよ。そんなに友達増えたのかって自分にびびったし、驚いた」
「びびったと驚いたは同じ意味です」僕はとうとう声をあげて笑った。「よくやり取りしてるやつに、明日から話しかけるといいよ。その子は夏香と特に仲良くしてくれてるってことだから、手助けしてくれるかも」
「そのつもり。二日目だからね、まだまだ転校生の気分だよ。それに、授業に追いつくために勉強もしなきゃだし」
どこからそんなバイタリティが湧いてくるのだろう。僕は今の環境に必死になじもうとしている夏香の努力に感服してしまった。僕なんて、試験前の晩に一夜漬けで勉強しているだけなのに。
僕は「あがって、あたたかいものでも飲まない?」と夏香にたずねたが、彼女は首をふった。
「もう帰るよ。私が言いたかったのはそれだけなんだ。瞳ちゃんの家に寄った帰りでね。あの子、中学のときの教科書をちゃんと持ってて、ごっそり貸してくれたんだ」夏香は地面に置きっぱなしだった紙袋をかかげて見せる。
「家に帰って、一年生の基本を勉強しておかないと。目標、一週間で一教科」
「強いよね、女子って」僕はため息まじりに言う。「逆境に強いというか、打たれ強いというか。男は逆だからさ、逃げ腰になるんだよ。普通、中二が急に高二の授業に追いつけるようになれって言われたら、拒否るか逃げるかのどっちかだろ。まあ夏香の場合、そうせざるを得ない状況だけどさ。それを受けいれて努力するのは素直にすごいと思う」
夏香は窓を閉めながら小首をかしげた。「どうして?」純粋な疑問が口からこぼれる。
「クラスのみんな、そもそもは私の友達なんだもん。最初のあれはびっくりしたけど、今はノートを貸してくれたり、学校を案内したりしてくれる。だから私も、みんなが知ってる片岡夏香になれるようにって思ったら、楽しくてしょうがない」
夏香は本当に、心からうれしそうに笑った。「早くみんなと仲良くなりたい」
外から窓をぴたんととじて、夏香は笑顔で手をふった。僕は窓の鍵をしめながら手をふりかえす。冷たい空気の中、走って帰路につく夏香を、僕はずっと見ていた。
彼女の願いはかなうのだろうか。あまりにも小さくて、ささやかで、けれど尋常ならざる願い。「みんなと仲良くなりたい」と言う夏香を見て、思わず唇を噛んだ。
そんなに簡単なことじゃない。だけど、甘い夢でもそれを現実に覚醒させる努力さえおこたらなければ、前向きでいれば、人の願いは確かにそこに昇華されるのだ。
僕はカーテンをしめ、しばらくその模様をじっと見つめた。次々と暗転をくりかえす現在。持ち前の明るさでクレバスをつぎつぎ飛びこえてゆく夏香が危なっかしくて、僕は転ばないようその手をしっかりとにぎっていなければならないのだとほぞを固めた。
現実味を全く帯びていなかったものが、僕の中で確かな質量を持つと同時に、表面張力でふらふらしているコップの水の中に溶けこんだ。透きとおって、あまりにも美しい水。
学校の門の前で夏香と一緒に賢一を待っていると、彼から寝坊をした旨のメールが届いた。ケータイを閉じ、ぶすくれる夏香の頭をぽんぽんと叩く。
「残念でした。とりあえず行こう。俺たちまで遅刻しちまう」
「世界はそれでも動いてるんだね」夏香は門をワンステップでくぐって言った。「たった一人の男子高校生の寝坊なんておかまいなし」
僕は彼女の手をとって笑い、「そうでなくちゃ面白くないだろ」と言う。
教室に入って夏香がいきなり大勢の女子に囲まれる、といった事態は少なくなってきた。彼女が学校に復帰してから四日、早いものだ。
夏香がいつものように席に座ると、僕は彼女のとなりにしゃがんで雑談をはじめる。僕らの朝はこんな調子だ。彼女が学校に戻ってきてからというものの、僕の勉強に対するモチベーションもぐんと上がった。もちろん、夏香に勉強を教えるためだ。
ひとりの女子がやってきて、夏香に「貸してくれてありがとう」と言ってブルーレイのケースを渡した。
「めっちゃよかったよ、ラストでちょっと泣いたね」
彼女は夏香にいくつか感想を語って去っていった。その背中を見送る夏香の笑顔がふわふわのメレンゲのようで、僕はしばらく見入ってしまった。なんだ、仲良くやってんじゃん。そう思うと力が抜けた。
夏香はブルーレイを僕に見せて「見てみる?」と笑った。ジャケットでは自由の女神が雪の中に埋もれていて、大きく「デイ・アフター・トゥモロー」と書かれていた。
「何、えぐい災害系?」
「そうそう、北半球がぜんぶ氷河期になる話」
「やば」僕は短く言って吹き出した。「そういうタイプの映画って、あんま見たことないんだけど」
「好みが分かれそうだから確信しておすすめできないけど、食わず嫌いよりいいんじゃないかな?」
僕が手を出すと、夏香はその上にブルーレイを置いた。「彰、ヒューマンドラマ系好きでしょ。こういう人類滅亡映画にありがちだけど、家族の愛とか人との協力関係とか、そういうのがあるから」
夏香が僕の映画の好みを覚えてくれていることに、僕は少し驚いた。彼女にとってはつい先週まで僕と一緒にいたことになっているのだから、むしろ覚えていて当然なのだが、ずっと存在を無視されてきた僕にとって、そんな些細なことでも笑いだしそうになるほど嬉しかった。
僕は受けとったブルーレイを鞄にしまって、「まずはつまみぐい」と言った。夏香は笑って「二時間半ぐらいあるよ」と言いながら手をふった。自分の席についても、まだ僕は彼女の背中を見ていた。
とても、とてもかわいいと思った。好きだったんだから当然と言えばそうだが、見かけは大人なのに、中学時代の夏香と変わらない。それは僕が変わらなかったからなのか、彼女が今、中学時代の時を生きているからなのか。
くりかえされる、同じ空。僕の中だけにあった記憶。
こうしていられるのもまるで幻のようで。
すべて夢だったとしたら、いったいどこで悪夢に変わってしまうのか。そのとき僕は、素直に救いを求められるだろうか。
一時間目がはじまる少し前、賢一が「おそよう」と言って背中を叩かなかったら、僕はこのまま夢の世界に堕ちていたかも知れない。
胡乱な事件が起こったのは、お昼休みのときだった。
クラスに早くなじめるようにと夏香はこの四日間、女子たちと一緒に机をつけてお弁当を食べていた。僕はいつものように賢一と一緒に食堂で昼食をとり、さらに購買のパンを三個かかえて、教室に戻る道中だった。
「お前これ全部食う気かよ」「元野球部の胃袋は四次元なので」「一瞬しか入ってねえだろ万年セカンドゴロ」「うるせえファーストゴロのほうが多いわ」「胸をはるな大して変わらねえし」「ホームランバッターは走らなくていいから腹も減らねえだろ」そんな戯言をかわしてどつきあいながら教室のドアをあけようとすると、廊下にいても分かるほどすぐ近くで、夏香とその他大勢の女子の声が聞こえた。ドアをあけることをためらったのは、彼女たちが村山のことについて話題にしていたからだった。つい、ドアに額を寄せて盗み聞きをしてしまう。
「えー、それじゃあ、禎雪くんにはぜんぜん会ってないの?」
「うん、別に引け目感じてるわけじゃないんだけど、私が彼の記憶を全部なくしちゃってる以上、失礼なことしないかなって」
「禎雪くんは夏香のこと、彼女と思ってるだろうし実際そうなんだからさあ。遠慮せずにどんどん話しかけたらいいじゃん」
ああまたミーハー女子につかまって。僕は内心冷や汗をかいたが、なおも夏香たちの会話はつづく。
「記憶ないってめんどいよねえ。さっさと戻ればいいのに」
「そうそう、禎雪がかわいそうになってきた」
「大丈夫だよ、病院にはちゃんと行ってるし、私もみんなに迷惑かけてられないから」
「迷惑だなんて思ってないのに。昔も今も真面目だね」
「いやいや、ほんとごめんね、みんなの名前もまだ覚えてないのに」
「あ、そういえば、同中の子たちは覚えてるんだよね。立浪も?」
僕はドアにくっつきかけていた額をふっとあげた。窓から夏香が困ったような笑顔で弁当をつついているのが見える。僕は壁に背をつけて彼女から見えないようにしながら、耳をそばだてた。僕に興味がなさそうな廊下の床をじっと見つめる。心臓がうるさい。無駄に緊張する。
「うん、彰とか賢一とかは中学で仲良しなんだよ」
「現在進行形になってるし。しかも夏香、立浪のこと彰って」
「だって、中学んときの夏香と立浪って、つきあってたっていうし」
夏香は「あ、うん、まあね」と小さい声で言った。僕の心臓が浜に打ちあげられた魚のように跳ねたのは、別の女子が決定的な一言をはなったとき。
「えー、でもさあ、今の夏香と立浪って、口もきかないじゃん。夏香がずっとシカトしてるって感じでさ。それって、やっぱ別れたから?」
僕は思わずガラリとドアを勢いよくあけて、教室内をずけずけ横断していった。廊下側の壁に机をくっつけて弁当を食べていた夏香たち一同が肩を震わせる。そして、おびえたように顔を寄せ合い、限界までちいさな声で言った。「聴こえてた?」「あたし今めっちゃ無神経なこと言った」「ごめん、夏香」
夏香は僕を見ず、彼女たちも見ず、気にしてないよ、と言った。僕はふりかえらなかった。
自分の席にどっかりと座って、手にかかえていたパンの袋をひっぱりちぎり、かぶりつく。ただひたすら、無心にカレーパンを追った。前の席に勝手に座った賢一が、「つっかえるぞ」と言って僕の鞄からペットボトルをとってさしだしてくれた。それでも僕は、パンを食べ続けた。口の中の水分が全部もっていかれてしまう。
夏香のほうを少しだけ見た。一瞬だけ目があって、僕はペットボトルの水をラッパ飲みしたその姿勢のまま、じっと見つめてしまった。
彼女の瞳は今にも泣きだしそうだった。僕は不覚にも、何も言えなかった。
放課後、誰かがむらがる前に僕は鞄をかかえ、夏香の席へ走ってゆく。
「補習、終わったら会おう。一緒に帰ろう」
呆然としている夏香を見て付言する。「ふたりで寄り道しよう」
寄り道しようと言うわりに僕の表情に笑顔や高揚感がないのは、夏香の戸惑いを隠せていない顔で分かる。昼休みにうっかり現実をばらした女子たちが、机ひとつをはさんで見つめあっている僕らを一瞥して逃げるように教室を出てゆく。「やばい、あの剣呑な雰囲気」「えっこのせいだよ、あんなこと言うから」「だって」好き勝手に言い散らかす女子たちの声に耳もかたむけず、夏香は僕をじっと見つめかえした。いつものあどけない、きょとんとした顔に少しだけ悲しみをトッピングしたような、大きな瞳。僕は「図書室で待ってる」と言い残して教室をとびだした。賢一に、今日は一緒に帰れないという旨をLINEで伝えながら。
うぬぼれていたのかも知れない。そして、僕がうぬぼれる以上に、現実はうまくいかない。勘違いをしているのは僕だったのだ。都合がよすぎる。独占欲にかまけて僕は卑怯なことをしようとしていた。陶酔していた。
ほとんど誰もいない図書室で延々と本を読む。ゲーテの格言集。記憶をなくす直前、夏香がゲーテの言葉を引用していたことを思い出したからだ。僕は黄ばんだページを何気なく適当な箇所でめくった。
『だれでも、人々が自分を救世主として待望しているなどと思わないでくれ』
ごめんなさい。机につっぷして、でも人々じゃないんだよなあ、と反論を並べる。むしろたったひとりでもいいから僕を救世主だと信じてくれればそれでいいんだと自分勝手なことを思っていた。そう、例えば夏香とか。
離れていってしまう原因は、強く強く願うことだった。
文章が長くて途中で読む気がうせそうだったが、言葉を一字一句のがさず噛みしめてみる。バニラエッセンスのような味がした。甘い香りで誘われて、けれどなめてみるとこれがとてつもなく苦い。そんな言葉。
「お待たせ、彰」
五時半をまわるころ、夏香が息せききって突撃してきた。終わってからすぐに走ってきてくれたのだろうか。夏香は照れたように顔をそらして「別に、急いだわけじゃないんだけど」と唇をとがらせる。僕は笑って彼女の頭をぐいぐいと撫でつけ、「行こう」とうながした。
学校をあとにして、いつもの下校ルートからはずれた。高校の校区から少し北に行くと、僕らがいた中学校に近い住宅街にはいる。僕のうしろについてくる夏香も少しずつ気づいたようだ。「どこに行くの」とたずねる夏香の上目づかいが、妙に淫靡だった。僕は何も言わずにどんどん先をゆく。
学校から二十分ほど歩いたところで、住宅地のどまんなかに突然あらわれたような大きな公園にたどり着いた。秘密基地レベルの大きな滑り台に豊かな芝生、並木道をぬける散歩コース、ネットに囲まれた小さな野球グラウンド。学校の校庭ほどの広さのあるそこは、しかし犬の散歩をする飼い主が数人、立ち話をしているだけだった。いっそさびれている。
「ここ、中学のときによく来たよな」
つい過去形で話してしまい、慌てて「夏香にとっては今だけど」と訂正した。夏香は僕のとなりに立って公園をぐるっと見わたし、そして僕を見あげた。
「覚えてたんだ」
「何を」
「ここによく来てたこと」
そりゃあ覚えてるさ、と肩をおとした。つきあいはじめのころ、夏香が「放課後会うなら近場がいい」と言い、かといってこの近くにレジャー施設があまりないので、仕方なくこの広い公園に来て、並木道を散歩し、ベンチで雑談をしてすごしたのだった。それ以来、ここは僕と夏香がタブレットで映画を見るための場所になった。今思い出せば甘酸っぱい記憶だ。
夏香に手を差しだすと、思いのほかためらいなくにぎりかえしてくれた。僕はその手をひいて歩きだした。枯れ葉さえもない冬の並木道を、ふたりで。
手に汗をかかないかと心配してしまうほど緊張していた。中学三年の夏からつないでいない、夏香の手。男の僕よりやわらかかくて、あたたかくて、小さな手。確かに僕は二年前まで、この手を絶対に離すまいと毎日のようにこうしていたのだ。デートのときも、登下校のときも、何かにつけて僕らは手をつないでいた。周囲は冷やかしたが、僕にとってはこれが限界だ。手をつないで、抱きしめて、キスをして。
夏香の手が冬先にしてはあたたかい気がして、けれど僕は彼女の顔を見ることができなかった。夏香も何も言わなかった。ドキドキして、けれど夏香と一緒にまたここを歩ける嬉しさで溶けそうだった。
――またここに来ようね、彰。
甘い記憶。なつかしい香り。
僕は半歩うしろを歩く彼女を肩越しにふりかえった。「寒くない?」
夏香はうつむいていた顔をあげてぶんぶんと勢いよく首をふった。
「大丈夫、大丈夫」早口で、頬を赤く染めて言う。「彰が手をつないでてくれてるから、あったかいよ」
僕は「うん」と答えて、道の端においてあるベンチを指さした。このまま歩いていたら、恥ずかしさのあまり地面に穴を掘ってしまいそうだった。
ベンチに夏香を座らせ、僕は彼女のとなりに座った。鞄を地面においてしまうと、急に会話がなくなってしまい、しばらく無言が続いた。
記憶喪失の夏香と話すことにも慣れ、もうここまで緊張することはないのに。だけど意思に反して、ポケットにつっこんだ手はじんわりと汗をかいていた。空の向こうを飛行機が飛び去る。高く細い音が地上へ落下し、地面で跳ねかえって、僕らの耳に届く。風がそれらをさらおうとして、空振りする。
ひらり、と目の前に落ちてきた何かの羽を合図に、僕は「あのさ」と話を切りだした。
「こんな状況下で悪いんだけど、その、あえて気まずいこと訊いてもいいかな。昼休みに女子たちと話してたこと」
うつむいて話していると、夏香が「聴こえてたの」と声をあげた。
「ごめん、なんか私、見当違いのことばっかり言ってたよね」
「いや別に見当違いとかじゃないけど、ていうか、盗み聞きしててごめん」
「しょうがないよ、あんだけ大きい声でしゃべってたんだから」
今の夏香だったら間違いなく睨まれてただろうな。僕はぼんやりとそう思いながら、単刀直入に結論を告げる。
「夏香が、高校生の夏香が俺を避けてるってのは、事実だ」
彼女は息を吸って、そのまま吐かなかった。
「でもさ、同じなんだよ」僕は空を見あげた。「俺も夏香のことを避けてる」
夏香は膝を閉じて、その上で拳を強くにぎっていた。そして、止めていた息をゆっくりと、時間をかけて静かに吐いた。表情は怖くてうかがえない。
空はほとんど昼間の明るさを失って、バニラ色の夕焼けもはるか遠くのほうに消えてしまっている。深い紺色の空。すうっと僕らの前をかけぬけてゆく風。地面を滑る砂。
「私、彰に嫌われるようなことしたのかな」
消えいりそうなその声に、僕は慌てて彼女の手をつかんだ。
「そんなことはない、むしろ逆だよ。俺が夏香に嫌われてるんだ」
「どうして?」夏香は顔をあげて、悲しそうな瞳で僕を見た。「ごめんね、また訊いちゃうけど、どうして私と彰は別れちゃったの。何があったの。私が彰を嫌いになるなんて、ありえない。今もずっと好きなのに」
今も、ずっと。その言葉が命を失っていなければ。
僕が何も言えずに黙っていると、夏香はうつむいて「ごめん」と言った。
「自分で禁句にしてたんだけどな、別れた理由を訊くの」
「する必要はないだろ。いつかは分かることだろうし」
「それでもさ、難しいよ。彰がどことなく、私に言えないことをたくさん黙ったままにしてるのがわかる。実は私は映画の中の登場人物で、監督や演出家や自分を演じてる女優がカメラの向こう側にいるんじゃないかっていう、そんな感じの違和感があるの」
夏香の眉がぐっとひそめられる。秋風にあおられる前髪がそれを隠した。
僕はじっと彼女の目を見つめた。色んな種類の悲しさが狭い場所に同居していて、まつ毛が震えている。薄いピンク色の唇からちらりとのぞく歯がやけに白かった。泣かないほうが不思議なのに、彼女は強い意志を持って僕を真正面から見ていた。僕のほうが泣いてしまいそうだった。
僕は彼女から目をそらし、軽く首をふった。
「君の大切なものを、俺が傷つけてしまったんだ」
ささやくような、懺悔。
声はちいさくても、僕はすでに全力だった。もう何も言えなかった。これ以上を語ることは、意図的な破壊と同じだ。犯してしまえば情状酌量の余地はない。
今でも覚えている。憤怒の形相で歯を食いしばって泣く夏香と、となりで床にぺたんと座りこんで放心状態だった、和久井。
――そういう人だったんだね、彰。
火のように熱い、呪縛。
幼かった十四歳のころの自分を責めながら、僕は今ここにあると夢見たはずの、あの教室に忘れてきた甘い幻惑を探してる。ふとしたときに卒業アルバムをめくるように。
夏香は僕の言葉を何度か頭の中で反芻していたらしい、しばらく硬直していた。そしてゆっくりと氷が解けるようにまばたきをして、そっと僕から視線をそらす。気まずい沈黙が空間を支配した。
僕らが望んだことは、こんな結果じゃなかったはずなのに。
階段から落ちたときの夏香の表情が何度も追いうちをかける。あの表情、あの瞳、届かなかった手。
失ってしまったものの取り戻し方がわからない。何も変わっていない僕。大切なものを傷つけたことを、昔の自分の幼稚さのせいにしてしまう今の幼稚さ。
葉をすっかり落とした木々に囲まれ、夏香が顔をあげた。泣いているようにも見えた。
「今の私は、彰が大好きだよ」
彼女はつづけた。「今も、これからも、ずっと大好きでいると思ってる。だけど、中学を卒業して、高校生になってしまえば、現実が変わってしまうのかも知れない。そんなことが考えられない」
夏香は吹きだすように笑った。夏香の息がふわりと顔の前で白く濁る。
僕はいっそ嫌味だろうと思いながら、それでも彼女の少し近くに寄る。太ももが密着する。彼女の髪を耳にかけてやると、とたんに悲しそうに細められた目が僕をじっと見あげる。
彼女を優しく抱きしめ、髪に顔をうずめた。
「ごめん」
そっと呟く。「ごめん、夏香」
夏香はそれにこたえず、僕の肩に顔をふせた。
――君は何も悪くない。
あのとき、しあわせにしてやれないと分かった。
けれど、僕はふたたび自分に問いかける。
彼女の頭を両手で抱いた。そんな僕を邪魔するように風が吹いて、彼女の髪を踊らせる。僕は何も言えない夏香を離さなかった。耳元で「大丈夫」とくりかえす。怖い夢を見た子供をあやすように。
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