第4話 Live while we're young
「え、『ローマの休日』はハッピーエンドじゃないの!?」
中学二年の三学期が始まったばかりの頃、さすがに寒くて公園に寄るのがつらくなり、夏香の家でテレビを借りて映画を見ていた。彼女は四つん這いになってブルーレイデッキに「ティファニーで朝食を」のディスクを入れようとして、僕の言葉に驚いて、ふりかえった。余命でも知らされたような顔で。僕の方へ向けられた尻は、スカート越しにくっきりとその曲線を主張していて、目のやり場に困った。
オードリー・ヘップバーンの話からふくらんだ話題だったが、さっそく意見が分かれた。だが、ですよね、と思う。というか、そっちのほうが多数派だろう。
「やっぱり夏香もそう思うんだ」
「やっぱりって」
「だって、ネットで見たらハッピーエンド派優勢な感じがしたから。悲しい結末だったと思う俺の感覚は違うんだろうなって」
「うーん、悲しいのはそうだし、違うってことはないかもだけど」夏香はディスクをデッキに吸いこませ、わざとらしく腕を組んで首をかしげた。「私もハッピーエンドだと思ってるから、バッドエンド派の人の記事ってほとんど読んだことないんだよね」
「つらい話だなって思ったよ、俺は」
夏香はその場で居住まいを正し、へえ、と言って僕のほうをまっすぐに見た。話を聞く姿勢と受けとった僕は、自分なりの意見をならべた。
「結局、アン王女とジョーが結ばれることはなかっただろ? 俺的にはその時点で悲恋ものだと思ったな。ジョーの気持ちが痛かったよ、別れを望んでたわけじゃないから。あんなに強くアン王女を愛してたジョーが、身分とか職業とか、自分じゃどうしようもない事情によって引き裂かれたの、めちゃくちゃつらいなって」
「ああ、なるほどなあ。感情移入しながら見ててくっつかなかったら、絶対悲しい気持ちになるもんね。自分の感情を無視しないとハッピーエンドにならないね」
夏香は唇に指を添わせて、深く考えるように床を見つめた。僕の言葉を咀嚼して、うんうんと納得するようにうなずく。
理解してもらえている、という感覚を、当時の十四歳の僕は初めて嬉しいと思った。夏香はいつも、僕と映画の話をするとき、茶化すことなく、真剣に聞いてくれる。たとえ真反対の意見だとしても。
少しあいだをおいて、夏香は顔をあげた。
「私は、それぞれが納得した上でそれぞれの道を行って、ふたりが一緒に過ごした時間がかけがえのない大切なものだってわかってるだろうから、よかったなって思った」
夏香の表情は、笑うでもなく、困惑するでもなく、真剣だった。僕は彼女を真似して、時間をかけてその言葉を飲みこんだ。
「かけがえのない大切なものか」
「ほら、ローマでの日々を一生忘れません的なことをアン王女が言うでしょう? ふたりの思い出は大切にするねって言いたかったんだよ。ジョーも、王女の信念が裏切られることはありませんって言ってたよね。あれは、ローマで過ごした君との時間を記事にして世間にばらすことはない、ふたりだけの大切な秘密にするよっていう意味かなって」
「ああ、あれってそういう意図で言ってたのか! 気づかなかった」
床を叩いて納得する僕。急に映画の理解度が高まった気がして高揚した。夏香は苦笑して、「間違ってるかもしれないけどね」と言った。だが、物語に対する夏香の洞察が僕のそれよりもはるかに深く、自分の浅さが恥ずかしくなった。
「彰、逆に『ラ・ラ・ランド』のラストは幸せだと思わなかった?」
「あ、うん、あれはそうだな。ふたりは別れてしまったけど、そのおかげでふたりとも夢が叶って、叶ってることを確認できて……あっ」
はたと気づいた。僕の反応を見て、夏香が笑った。カーペットの上、ぺそっと座った僕たちふたりは、顔を見あわせて笑った。
「そうか、この感じか。ちょっと似てるな。ふたりが一緒にいたからこその幸福か」
「あの映画の場合、ミアとセブが結ばれた未来の空想が最後に出てくるから、やっぱり寂しい感じは残るけどね」
「でも、そうだね。確かにふたつとも、得られたものや大切にしたい思い出があるから、離れてしまってもしあわせになれた映画だね。この感覚かあ。なるほどね」
「なんか、悲しいハッピーエンド、って言ったほうがしっくりくるかな。どっちともいえないのかな。決して最後に思いが叶うだけがしあわせな恋愛じゃないというか。アン王女とジョーがしあわせって言いきれなくなったな、私も」
中学の頃、こうして何度か映画の解釈で意見がぶつかることがあったが、夏香は決して僕の意見を真っ向から否定しなかった。一度は受け入れ、自分の中で咀嚼し、自分の意見を混ぜて考えなおす。だから僕たちはお互いの大切な映画を守れたし、そのために喧嘩をすることもほとんどなかった。僕ばかりが未熟で、夏香ばかりが大人びていただけだろうけど、その夏香にひっぱられて僕もいろんなことを学んだ。
彼女の隣にいて、僕の中にゆっくりと積もる雪のように、大切なものが日々集められていった。感情も、気持ちも、考えかたも、価値観も、すべてが新鮮だった。一緒に映画を見て、その感想を話して、笑って次に見る映画を決めて。
だけど、と僕は思った。
もし僕がアン王女やジョーのような立場で、ふたりの関係性を終わらせなければいけない状況になったとき、その思い出や得たものだけで涙をぬぐえるだろうか。
そのときになってみないとわからない。そして、それを恐れてしまうくらいには、僕は自分のことを信じきれていない。
求めてもない事柄ほど、自分のほうへ引き寄せてしまう体質なのかもしれない。何せ、僕が村山禎雪に偶然でくわすのは三度目なのだ。僕が有害だと分かってて意図的に近づいてくるのだろうか。いや、もしかしたら、助けが必要だとお互いにわかっているから、神様か誰かがそうしているのかもしれない。
教科書類をかかえ、移動教室で音楽室へ向かう途中、二号館と三号館をつなぐ四階の、屋根のない連絡通路のまんなかで、村山がフェンスにもたれかかってスマホをいじっているのを見た。確かにここ、ほとんど人は通らないけれど。基本的に学校へのスマホの持ち込みは許されているが、授業中以外でも大っぴらにさわっていると先生の注意を受ける、平成中期の曖昧な校則がそのまま残っている。あまりに堂々としているので、僕は声をかけた。
今さっき僕の存在に気づいたようにけだるげに頭をあげた村山は、僕の姿を見るなり子供のように笑った。
「ゲームとかじゃなかったら怒られないだろ」
「やるなとは言わないけど、絶対に見つからないところでやったほうがいいんじゃ」
やっぱそうかな、とぼやいて村山はスマホの電源を切り、制服のポケットに入れた。何を見ていたのか、最後までわからなかった。
村山は僕にむきなおり、「夏香は元気そうだったか」ときりだした。
「よくも悪くも、変わらずだよ。記憶も戻ってない。中学二年生のままだよ」
「やっぱり、立浪のことは当時のままで覚えてるのか」
「覚えてるよ。というか、同中の連中はたぶんみんなそう。そいつらの手紙や色紙は、普通に読んでたから」
「普通にって」
「いや、なんでもない」
それよりお前はこれからどうする。その質問に村山はため息で答えた。だよなあ、聞いた僕が不粋でした。
「問題が多すぎるんだ」村山は眉をひそめて腕を組む。「俺がどうしたいかってことばかり考えちまうんだ。本当に考えるべきはそこじゃないのに」
意外だった。僕と話してるときの村山はいつも、夏香のため、夏香が苦しまないことを、と常に彼女を中心に置いているように見えたから。
村山は空の遠くのほうを見て、真っ白な息を細く吐いた。どこかを見ようとして失敗した人の目をしていた。
「もちろん先の話を優先してるんだけど、うまくいかないもんだなあ。結局、夏香の記憶がどうにかなるまで、俺にできることってほとんどない気がする。何かしら動かなきゃって思ってるんだけど、それも傲慢だよな」
僕は自分を庇うように言った。「悪いな、現彼氏のお前のことほっといて、夏香としょっちゅう会ったりして。卑怯だと自分でも思うよ」
「しかたないんじゃないか」立浪は僕をまっすぐに見て言う。「今の夏香にしてみれば、立浪が自分の彼氏ってことになってるんだろう? で、俺は見知らぬ高校生。いきなり、俺が三年後のあなたの彼氏ですよって言っても立浪がいる限り、本人も納得いかないだろうさ。フリーならまだしも」
「村山さ、うぬぼれないわけ。自分だったら今の夏香をあらためてイチから落とすこともできるだろうとか、そんな考えは皆無かよ」
「自信がないからうぬぼれようにも無理だし。俺、顔がいいって人から言われても、全然ピンとこない。自分の欠点を自覚しまくってるから。第一、夏香は顔で男を選ぶような子じゃないだろ」
イケメンマウントすんな、とは思ったが、後半は正論である気がした。でなかったら普通以下の僕とつきあったりしない。
「なんか、俺、村山に申しわけない感が増した気がする」
「気にすんなって。俺がおしかけていったって、夏香がつらいだけだろうし」フェンスから背中を浮かせて村山が苦笑する。「俺自身どうすればいいかわかってないから免罪符だけど、今はとりあえず、見守る立場かな。お前とか、夏香が知っている友達とか家族とか、そういう人たちのそばにいたほうがいいだろ。だから、申しわけないとか思うな。俺の一方的な気持ちだけで、夏香への負担を増やすわけにはいかない。それに」
村山は、決して僕への悪意でもなんでもない、優しい、けれど少し悲しそうな目で僕を見て、言った。――もし夏香が本当に心から俺を愛してくれているなら、記憶が戻ったとき、俺の元に帰ってくるだろうから。
背をむけて三号館へと歩いてゆく村山の背中を、僕はじっと見ていた。いろんな文句を喉元で飲みこんでしまう。
喧嘩をふっかけられているわけじゃない、と思う。村山は女のことでそこまで子供っぽく怒ったりしないだろう。ただ夏香に真剣なだけだ。そして僕も夏香に真剣なだけだ。だから、反語的な意味で都合よく、僕は彼の言葉をとらえてみた。
もし夏香が本当に僕を愛してくれていたなら、記憶が戻ったとき、どうするのか。
そんな疑問を払拭するために、そもそも記憶が戻るのか、と関係ないことを考えた。汚いものを風呂敷で隠してしまっているようで、余計に気分が悪くなった。自己嫌悪に潰れそうになる。それをごまかすために、フェンスの端に頭をあずけて、「あーもー!」と叫んだ。
「いや、キモいキモい頭どうした」
背中から瞳にどつかれて「ぐっは」と変な声が出てしまった。全然気づかなかった。三号館のドアを後ろ手に閉めた村山を見て、彼女が露骨に嫌そうな顔をする。
「なに元カノの新カレに喧嘩売ってんの」
「売ってねえよ。むしろテコ入れされた。プライドまるつぶれだ」
瞳は教科書を胸にかかえて、ふうんとつぶやく。嫌そうな顔は止まらない。
「よく村山に話しかけれるよねえ」
「別にいいだろ、俺は村山とは敵対関係にない。なんなら協力プレイ中だ」
「そう思ってるの、彰だけじゃない? 私だったら絶対嫌なんだけど」
ぐ、と言葉につまった。それもまた、僕が極力考えないようにしていることだ。彼女の考えから防御するように、でも、と反論する。
「最初に協力しようって言い出したのは村山だぞ。この緊急時に、俺たちが普段どの立場にいるかなんて関係ないだろ」
「そりゃそうだけど、理屈と感情って別だから。それはふたりだけじゃなくて、クラスのみんなもそう。あとあとめんどくさいことになるよ、多分」
瞳は僕の横をとおって三号館にむかってかけだした。それ以上何も言わず、いちどもふりかえらず。そのうしろ姿をじっと見やる。毛先だけ軽く巻いた髪がふわふわと左右に揺れていた。
未来を見透かされている。気がする。僕はその邪悪な予感に震えた。そして、その未来をすべては予見できていない自分に、一抹の不安を感じた。瞳の言うことに何も反論できなかった。
胡乱な予言におびえている。僕だけじゃなく、誰しもが。
僕は音楽室で瞳に謝ったが、「私も言いすぎたと思う、ごめん」と言われた。眉をひそめる彼女の口の中で、飴か何かがカロンと音をたてる。
放課後、二日ぶりに夏香の家に行くと、リヴィングに両親と彼女の三人が集まっていた。
「あ、彰、ちょうどいいところに」
夏香は椅子から立ちあがって僕の手をひき、そのまま自分の部屋に入った。
そして叫ぶ。「私ね、学校行くことにしたんだ」
僕は思わず「へっ」と素っ頓狂な声をあげてしまった。そのことについて両親と話をしていたのか、もしかして。彼女の母親が持ってきたお茶にも手をつけず、まくしたてる。
「何言ってるんだ、まだ記憶も戻ってないのに。退院して二週間ぐらいしかたってないじゃないか。大丈夫なのか」
「でも、二週間もたってるのに記憶が戻らないっておかしいよ。私、ずっとこのままかも知れないって考えたら怖くて。でも、学校に行って先生や友達に会えば、少しは何か思い出すかも知れないと思って」
「無理に止めないけど、無茶はするな。このあいだ、クラスの女子からの手紙を見て怖がってただろ」
「無茶じゃないよ、お医者さんだって少しずつなら無理しないていどにって言ってたし」
僕は額に手をあてて首をふった。昔から頑固な子だった。一度決めたら数秒後には実行にうつさないと気がすまない、猪突猛進タイプ。ジュースが欲しいと思った瞬間に目がコンビニを探している。けれど、そうした性格が災いして後先考えずつっぱしり、ブレーキがきかずに壁に真正面から突撃することもよくある。助走が長ければジャンプも可能だろうがジャンプ台を用意する誰かが必要になる。それが僕だった。
僕は外国人のように手でジェスチャーしながら言った。
「知らない先輩の女子が大量にいるところにつっこんでいくんだぞ。耐えられるのか」
「中学からの友達だっているでしょ。その子たちと仲良くしてるだけっていうのもアリだから大丈夫」
「そんなつけ焼き刃でいいのかよ。隣のクラスには、今の彼氏の村山もいるんだ」
「彰が同じクラスだから大丈夫だもん」
あのなあ、と言葉がつづかずに腰に手をやってうなだれる。記憶喪失という、当人にとっては混乱が混乱を呼ぶ状況の中、夏香が能動的に動くのはむしろいいことなのかも知れない。僕も糾弾したくない。記憶が戻るまで家に閉じこめておくよりいいだろう。
それでも、手紙を読んで泣き崩れた夏香を見て、震える肩を抱いた手は、今でもその感触を覚えている。
夏香が僕の目をまっすぐに見て訴えた。
「私、学校に行きたいの。今の私がどんな生活をしているのか、知りたいの。だから止めないで。やりたいことをやらせて」
そして最後につぶやいた。――探しに行きたいの、私を。
うるんだ瞳で求められ、僕は黙りこんでしまった。明るくて元気で、けれど一度走りだした彼女を止めるには、その鋼鉄のタイヤをパンクさせるしかない。
僕はかけるべき言葉を選んで、選んで、選びかねて、何も言えなかった。ずっと両の手を握っていた夏香は、その指から力を抜く。伏せられた目のまつげが震えている。僕はただ、そんな彼女を見おろすばかりだった。
ため息をつき、彼女の頭をぽんぽんと叩いて「分かった分かった」と言った。このさい、過保護はやめておこうと思った。
夏香がぱっと笑顔になるのを見て、またため息が漏れる。
「まったく、どんだけお転婆なんだよ」
「何か問題でも?」夏香が拳で僕の胸を軽く叩く。「いいじゃん。元々私自身は高校生なんだから、きっとなんとかなるよ。ならなくても、なんとかする」
「あいかわらず」
僕はため息をついた。「変わらないのな」
彼女は笑って胸を張った。変わったこともあるよと誇るように。
からになったコップを持って下の階に行くと、夏香の父親に廊下で呼びとめられた。彼は少しやせてしまっているようだった。
「彰くんが心配してくれているのは嬉しいけれど、でも、大丈夫なのか」
「前例がないのでわかりませんけど」僕は精一杯、動揺が悟られないようにこたえた。「ひとまず、俺がフォローするのでどうにか」
「けれど、ふたりでどうにかできることなのか心配なんだよ」
「まあ、三年分俺のほうが年上なんで、そこはうまく」
そうじゃなくて、と彼が言葉をさえぎる。――彰くんがいるから、学校に行くとなってもこっちは安心できるんだけど、気をつかう場面がたくさんあると思うんだ。そんなとき、夏香もろとも、頑張っている彰くんまで共倒れになったら……。
そう言っている彼こそ苦しげだった。それは、ふたつ目の胡乱な予言だった。顔を伏せる彼に、僕は何も言えず、けれどしばらくしてしぼりだすように「多分」と言った。
「大丈夫です。誰も知り合いがいない学校よりはいいし、夏香も人と仲良くなるのは得意だろうから」
「私たちが一緒に学校に行けたらいいんだけど、仕事もあって難しいし、彰くんや賢一くんにまかせきりになってしまうなんて」
「いいですよ、そんなの」僕は笑った。「今のままじゃ、何も変わらないです。多少の負担ぐらい苦になりませんよ。共倒れでも、片方だけむなしく倒れるよりマシです。子供の意見で説得力ないでしょうけど」
それは確かに本音だった。だけど、僕は嘘をついていたことに、あとで気づいた。
夏香の父親は少し心配そうな顔をしたが、やがて「夏香は本当にいい子を選んでたんだな」と寂しそうに笑った。僕は何も言えなかった。洗っておくと言われてコップを渡し、軽く会釈した。ふたたび夏香の部屋のドアをあける。床にあぐらをかいてふてくされている彼女を見て、つい笑ってしまった。殺気だって「戻ってくるの遅い」と言う夏香の頭を、子供をあやすように撫でた。毛を逆立てて警戒している子猫ほど、抱きしめて甘やかしてやりたくなる。
僕は鞄から出した瞳の手紙を夏香に渡した。彼女は手紙を読むと、みるみるうちに笑顔になった。メモを両手で持って、口元に当てて嬉しそうに笑う。その手紙の中身を、僕は知らない。
夏香が、学校に復帰しようとしている。
僕は彼女の家からの帰り道、中学の近くにある空き地に行った。何もない、ドラえもんに出てくるような空き地。それでも少し広くて、たまに小学生が野球をしたり犬の散歩仲間が立ち話をしていたりする。遊びに来る子供は意外と少なく、僕と夏香はここでよく映画をタブレットで見ていた。
中三の春、終業式の日の帰りにここに来た。近くのコンビニで肉まんを買い、地面に座り、食べた。何も言わず、たまに言葉をかわすていどで、ただ黙って、風に揺れる草木をながめながら。
肉まんをひとつたいらげたあと、夏香が唐突に言ったのを覚えている。
「映画を作りたいな」
そう話したのはきっと、終業式の日なのに突然、三年生からは進路について考えろと先生に言われたからだろう。
彼女は筋金入りの映画ファンだが、はっきりと映画にかかわる仕事がしたいと話したことは一度もなかった。だけど、納得いかなかった映画のストーリーにダメ出しをしたり、出てもいない続編の話を考えたりしていたから、いささか納得してしまった。
「監督とか?」
「うーん、むしろ脚本家か演出家になりたい」
「あー、脚本家はむいてそう」僕は肉まんにかぶりつきながら言った。「夏香、映画のスピンオフとか続編とか、勝手に考えるの好きだもんな。見てみたい」
「勝手にって。褒められてる感じがしないんだけど」
「めちゃめちゃ褒めてるよ。普通、映画を見たあとに脇役キャラのバックストーリーなんか考えないし」
彰は、と夏香にたずねられた。そうふられるとは思ってなくて驚いた。だけど、すぐに否定はしなかった。有名どころの映画しか知らなかった僕が、一瞬でも映画関係の仕事の可能性を考えたぐらいには、僕は彼女の影響を受けつづけている。
「映画音楽とか作らないの? ジョン・ウィリアムズみたいな」
「いや、確かに音楽は好きだけど、音楽大学なんか親が絶対許さないって」
「そうだよねえ。有名な劇伴音楽家って、ジュリアードとかすごいとこばっか出てるもんね」
「まあ、でも、映画につながる仕事はしてみたいな。英語が得意だから、字幕や吹替の翻訳作業とか、来日した俳優やスタッフの通訳とか?」
「いいね、それもむいてそう。彰の名前がエンドロールの一番最後に出てくるの、絶対テンション上がる」
夏香は楽しそうに笑ってそう言った。その笑顔に誘われて、夕日に照らされて、肉まんの匂いにつられて、本当にそれはむいてるのかもしれないと思えてきた。彼女が見る映画の最後に僕の名前がつらなるのは、おもしろいことかもしれない、と。
そんな会話をしていた場所に、今、あらためて立ってみると、あらゆる記憶が僕の脳裏をかけめぐって止まらない。当時よりも少し草が伸び放題になってしまっている地面。ときどき目につくタンポポや名前の知らない花。もう寒いというのに、彼らは必死で花びらを天にむけてひらいている。肉まんを買ったコンビニはつぶれて、ケータイショップに変わっていた。
あの日から漠然と、翻訳や通訳の仕事を進路として考えつづけている。ネットでいろいろと調べているうちに、自分の手の届く場所にそれがあるような気がしてきた。漠然と職業名を知っていただけだった僕が、どう頑張ればそれがつかめるのか理解できるようになり、明確な進路、将来の目標になって僕の目の前で朝の太陽のようにかがやくようになった。
きっかけは夏香だった。その仕事は今も、僕の書く進路希望調査票の常連になっている。
賢一と瞳と村山と僕、四人で作ったLINEグループにメッセージを送る。
『夏香が学校に復帰することになった。フォローよろしく』
返事は僕が風呂に入っている間に来た。既読がふたつ。
『了解っす。暫定じゃないんだよな。当日は迎えに行くのか?』賢一から。
僕は左手で雑に髪を拭きながら右手で返事を打つ。『俺は行くけど、賢一は通学路が同じだからどっかで待ちあわせしよう』
賢一への返事を打っているそばから、スポッ、スポッ、と新しいメッセージが連続で割りこんだ。瞳は返信をこまぎれにして送ってくる癖がある。『マジでー!?』『どうしよう何か用意したほうがいいのかな?』『お祝い会的なものやるべき?』『めっちゃ嬉しい』しかじか以下略。
三人でやりとりをしていると、みっつ目の既読がついた。ややあって「了解」と文字が入ったポケモンのスタンプが、村山から送られた。
『なんかあったら隣のクラスまでいつでもどうぞ』
その一言はいかにも村山らしく、そしてわかりやすかった。僕は少しだけ笑って、お礼のスタンプを送る。ほかのふたりも同様だった。あれこれと否定や心配を並べる仲間じゃなくてよかった、と思う。いや、それぞれ不安に思っていることはあるのだろうが、今は大丈夫、という共通の認識がうっすらと見えて、否定からはじまらないことが今は救いだった。
やりたいと思ったならそれでいい。夏香が自分で決めたことだから。
僕はドライヤーで髪を乾かしながら、明日をどうすごすか考えつづけていた。
夏香が登校する当日、僕はいつもより一時間も早く起きた。YouTubeの解説動画を見ながら髪をワックスで整え、髭を隅々まで剃り、顔を洗ったあとに化粧水をつけた。鞄の中のゴミを掃除した。ネクタイをしっかり首元まであげて正確に結んだ。全身鏡で隙なく整備した自分の身なりを見て、「よし」とつぶやき、右手をグー、左手をパーにして打ち合わせた。パンと小気味よい音が響く。普段地味でめだたない僕が、ちょっとだけかっこよくなれた気がした。
かなり早めに夏香の家に行くと、夏香の両親に、外は寒いからと家の中に招き入れられた。リヴィングで朝食までごちそうになってしまう。起きたばかりの夏香が寝ぼけまなこで一階におりてきたとき、「よっ」と手をあげる余裕があった。
自分がパジャマ姿であることに気づいた夏香が悲鳴をあげる。
「朝早すぎ! 私、まだ髪も寝起きのままなんだけど」
「気にすんなって。顔洗って、寝グセなおして、着替えてこい」
「お母さんみたい。彰、私と別れてどうなっちゃったの」
べー、と舌を出してふざける夏香の背中を見送って、僕はピーナッツバターを塗ったトーストにあらためてかぶりついた。どたばたと階段をかけあがる夏香を見て「何やってんだ、あの子は、男の子がいるっていうのにはしたない」と夏香の父親があきれる。母親が「まあまあ、彰くんは見知った仲だから」と笑う。その言葉に僕はまた、くすぐったさでにやけてしまう。
僕が朝食を食べきって、食器を洗い終わっても夏香が降りてこないので、部屋にあがってみた。ドアをあけると、夏香は全身鏡の前で高校の制服を着て立っていた。髪をストレートに整え、前髪の右端をかわいいピンでとめている。ネクタイをくるくるとてぎわよく結ぶので、僕は少し驚いた。
「あ、ねえ彰、きいて」夏香がふりかえりながら言う。「中学って、セーラー服でしょ。ネクタイなんて結んだことないはずなのに、何も考えなくても勝手に結べた。すごいね、人間って、記憶をなくしても色んなことを手が覚えてるんだね」
ネクタイの結び目を襟元まであげると、事故の前の夏香となんら変わらなくなった。僕はそのときの空虚な記憶を思い出して一瞬、ひるんだ。だが、ふりかえった夏香が笑顔で、僕のことを名前で呼んで、そらされることなく目を見てくれて。ここ数日で急激に与えられた幸福をすぐに思い出し、とまどい、そして笑った。
夏香は嬉しそうにくるりとまわって、「北高の制服だね」と言った。ふくらむスカートの裾と、そこから伸びる太股。僕はもっと困惑するんじゃないかと思っていたので、その元気そうな姿に安心した。
「なあ、夏香」僕は壁にもたれて腕をくんだ。「本当に行くのか。今なら、学校に電話してやめることも」
「やめるわけないじゃん、何言ってんの。楽しみだよ、新しい学校に行くのが」
新しい、と付随するあたりにむしろ夏香の動揺が見えて、僕は眉をひそめた。鏡の前でモデルのようにポーズをとってふざける夏香はすっかり新入生気分だが、高校の入学式は一年以上前に終わってしまった。
僕は彼女に学校指定の鞄を手わたしながら、「同じクラスだし」と言った。
「俺が近くにいるからあるていどは大丈夫だと思う。友達も、最初は困惑したり、変な目を向けてくるかも知れないけど、自己紹介からしてもらったらいい。勉強も、多分、ぜんぜんついていけないだろうけど、そこは先生に話がいってるから、補習がある」
「補習ってやだなあ。遊ぶ時間、なくなるじゃん」
「でも、近いうちに記憶が戻るならまだしも、ずっとこのままの可能性だって十分あるんだ。少しずつ追いついていく必要がある」
夏香は鞄の中身を確認し、しぶしぶ「ひとの二倍は勉強しなきゃなあ」と言った。そうは言いつつも、楽しそうだった。もしかしたら、僕が危惧する必要なんてまったくないほど、彼女は順応できるのかも知れない。そんなバイタリティーを持ちあわせている。
高校の制服を着ている夏香はいつも綺麗に化粧をしているので、すっぴんのまま、スカートが長いままの姿は少し新鮮だった。僕は彼女の頭を撫でて笑いかけ「朝ごはん食べな」と言った。未来と過去が入り混じっている感覚で、だけどそれは不快なものではなかった。
ローファーをはいて中庭をつっきってゆく夏香のうしろ姿は、おびえ半分、楽しさ半分で小さく見えた。猫のしっぽのように揺れるマフラーの裾。僕は夏香の両親に挨拶をして、彼女のあとを追いかけた。
「お前、高校への道、分かるのかよ」
「北高でしょ? 全部の記憶がなくなったわけじゃないんだから、大丈夫だって」
その天真爛漫さが危なっかしい。ちょこまかと走り回り、家電や家具のうしろに隠れて遊んで飼い主を撹乱する小動物のよう。僕は彼女の手をつかみ、「あんまりふらふらすんな」と叱った。夏香は僕の手を死ぬほど強くにぎりかえして「おせっかい」と言った。指の関節が痛い。痛い。
十分ほど歩いて、高校と夏香の家の中間地点にあるコンビニにたどりついた。店前の駐車エリアにブレザーを着た男子学生の姿を見とめたとき、夏香の表情がぱっとはなやいだ。
「賢一、久しぶり!」
「おう、夏香、ぜんぜん見舞いに行けなくて悪いな」賢一は笑いながら夏香の肩をばしばしと叩く。友達の彼女というより、親戚の子を扱うようだった。
「悪くなんかないよ、賢一がLINEしてくれるの嬉しいし」
「しかしどうしたんだ、高校行くなんて決めて」
「やっぱり家で閉じこもってるのって、悲劇のヒロインごっこしてるみたいでカッコ悪いでしょ?」
「そうだろうけどさ、まあ、夏香が決めたことだし、」
僕らは公園を離れ、雑談をかわしながら登校ルートをたどっていった。途中、同じ高校の制服を着た生徒が同じ方角へ向かっているのを見て、夏香が「飛び級した気分」とふざけた。笑っていたが、彼女の目が迷うように泳いでいる。道を、すれ違う生徒たちを、見慣れない制服を着た僕と賢一の足元を、視線がふわふわと飛ぶ。
学校が見えてくると、目に見えて夏香がおびえたようすを見せた。未踏の世界を前にして歩みをゆるめる。僕と賢一はそろって「ひきかえすか」とたずねたが、彼女は必死で首をふる。長いこと校門の前で立ち止まり、身をちぢめてうつむいている夏香の肩を、僕は片腕でしっかり抱いて「大丈夫」と言い聞かせつづけた。チャイムが鳴る寸前になって、彼女はようやく、自分から門をくぐった。僕たちのほうを見ずに。
職員室に寄って、担任の先生と会う。医者から事情を聞いているらしい彼女は、夏香を見て「家に行ったときぶりね」と言い、つづいて「あらためて、担任の松永です。よろしくね」と言って握手した。夏香は先生のそんな笑顔にようやく安心したらしく、ほっとしたようすで話をしていた。僕らも肩の力を抜く。
「復帰するって決まったから、希望どおり、クラスのみんなに片岡さんの病気のことをちゃんと話してあるよ。一応、変な嫌がらせとか警戒はするけど、誰も偏見持ってないみたいだし。むしろ心配してたから」
「なんとかなじめるように努力しますけど、勉強が追いつくかどうか」
「そのへんは補習を用意してるから、少しずつ追いかけていけば大丈夫。片岡さん、元から頭いい子だし、大丈夫じゃないかな。早く記憶が戻ることを祈りましょう。それまで、病院にはちゃんと行くこと。あと、学校生活がつらくなったら、いつでも言ってね。無理したら何もならないから」
先生は笑って「先に教室に行ってて」と言った。にわかに夏香の身体がこわばる。僕と賢一は彼女の肩を抱いて職員室から出た。賢一が「いい先生だろ」と夏香に言うと、かろうじてうなずくが華奢な身体はそれでも震えている。
うるさい笑い声が漏れる三階の教室の前で、彼女は僕の制服の裾をつかみ「彰がドアあけて」と言った。すがりつく子猫のような瞳だった。
「ここまで来たらブレイクスルーだろ。虎の檻じゃないんだから」
「似たようなもんだよ、みんなが白い目で見てきたらどうするの」
「みんないいやつばかりだから、大丈夫だって」
賢一が夏香の背中を叩き、ドアの取っ手に手をかけさせる。いきおいよくひらいたドアに、教室にいた四十人弱の目が一斉にこちらにそそがれる。僕たち三人以外の全員が一瞬にして静まりかえった。先に入って「ほら」とうながす僕と賢一、そしてドアの陰からちょこんと顔をだす夏香。
「あ、夏香」真ん中の席にいた瞳が黄色い声をあげた。
それを合図にしたように夏香はゆっくりと教室に入り、身体の前で鞄を両手でつかみ、こわばった顔で言った。
「お、おはよう」
必死さが突き刺さるように伝わってくる、震えた声。
騒いだのは主に女子だった。いっせいにつめかけてくる先輩女子の集団に、夏香は予想どおり目を見ひらいて逃げ腰になった。僕と賢一はそんな彼女の前に立って「落ちつけ」と女子たちをさとす。
「聞いてるだろうけど、彼女は記憶喪失なんだ。彼女はみんなのことを覚えてないんだ」
「分かってるよ。立浪よりうちらのほうが夏香のこと、知ってるもん」
「あのなあ、ドラマで見るような生やさしいもんじゃねえんだぞ」
あきれる僕の横を素通りして、女子たちは夏香に次々つめよった。
「夏香、もう怪我は大丈夫?」「記憶喪失とかって、かなり頭打ってんじゃん」「ねえねえ、あたしのことは覚えてる?」「りなだよ、夏香、あたしだよ」
放りこまれたエサに食らいつく動物園の虎。これだから女子は。騒ぎの中心にいる夏香は、鞄を胸の前で抱いたまま、集まった顔を見て困惑している。小柄なせいで本当に襲われているようだ。
決して全員が分からないというわけではないはずなのだが、それ以上に夏香は複数の好奇の目にさらされて混乱している。瞳は集団の中に入りこそしなかったが、外側で夏香に声をかけたそうにうろうろしていた。男子たちは驚きながらも、何事かを話し合うだけで直接声をかけようとはしない。
半泣き状態になっている夏香を見て、僕が女子の大群をちらそうと思ったとき、夏香が「あの」と声をはりあげた。そして、やおら身体を折り曲げて、大きく頭をさげた。
「ごめんなさい、私、誰も覚えてないんです。中学が一緒の子は分かるかも知れないけど、私が覚えてるのは中二までで、ここにいるほとんどのみなさんのこと、顔も名前も分からないんです」
静かな教室に響く夏香の声。涙を流さないことが不思議だった。何か言おうとしたが、賢一に肩をつかんで止められた。どこからか「じゃあ私も忘れられてんのかな」というささやき声が聞こえたが、夏香は唇を噛んでつづけた。
「でも、それでも私はこの学校に戻ってきました。みんなと早くなじみたいし、早く記憶をもとに戻したい。私は大丈夫です。まだ少し怖いけれど、少しずつ、クラスの一員になりたいと思ってる。だから」
夏香の目には、強い意志の色が戻ってきていた。「仲良くしてください。それと、いろいろ教えてください」
めいっぱいひらいたひまわりのように笑う夏香。
僕は彼女のとなりで、呆然とその演説を聞いていた。発症以来、大勢の人の前に出たことがない夏香が、いきなりこうして強く自分の意見を主張するとは思わなかった。
長いこと静まりかえっていた教室だったが、少しずつ女子たちが夏香の周りに集まりなおし、「ごめんね、驚かせちゃったね」「休み時間にみんなで自己紹介しあおうよ」「大変だったでしょ」「分からないことがあったら訊いてね」と笑いあっている。夏香はほっとしたようすで鞄を床におろし、けれど楽しげな笑顔でみんなの輪の中に入っていった。
思った以上にあっけなく融和してしまった彼女の姿を見て、僕も胸をなでおろした。賢一が僕の背中を叩いて「よかった」と言った。
「ほらな、あの子は大丈夫って言っただろ。ていうか、俺よりお前のほうが夏香については詳しいはずなのに、過保護なやつめ」
とりつくろえない気がして、僕はごまかすように笑った。女子の集団の中から瞳が出てきて僕の机に手をつき、「夏香ぜんぜん元気じゃん! 安心したあ」と目に涙をにじませて笑っていた。やっぱりこの子も夏香の大切な友達のひとりなんだな、と思い、僕は彼女を見あげて笑った。「落ち着いたら、四人で飯でも食いに行こう」と言った。
中学時代から僕のことを知っている男友達から「片岡って立浪の元カノなんだろ」「中学までしか記憶がないってことは、ふたりの関係はどうなってんの?」などと詰問されたが、どう答えたらいいのか分からずに軽くはぐらかした。僕たちがかつてつきあっていたことは、同じ中学だった生徒のほとんどが知っている。だけど自分の質問が不粋だと感じた友達は、すぐに僕と夏香の関係をたずねることをやめてくれた。それがありがたい。
先生が来て、「もう打ちとけたみたいだね」と笑った。打ちとけたというより、最初の関門を突破したという疲労感がわずかにある。ひとまずは安心していいのだろうか。
席につくと、となりの席の賢一が耳打ちした。
「今の夏香はさ、なりゆき上は彰とつきあってることになってる。彼女の中でな。だけど、実際にそういう状態じゃないだろ、現実では二年前に別れたんだから」
そして続ける。「お前、どさくさに紛れて夏香とどうするつもりなんだよ」
身震いし、シャーペンを持った右の拳をにぎる。確かに、ただ夏香の中で僕が彼氏だというだけだ。実際は彼氏ではない。最近、一緒にいる時間が長くて、ふたりで過ごしていることが楽しくて、つい忘れそうになる。過去と現在が混ざりそうになる。
今の夏香が「どうして別れてしまったのか」という疑問で頭がいっぱいなのかもと思うと、いたたまれない。僕がそれに答えてあげたらいいのだろうけれど、言って彼女が傷つくことが怖かった。言わなくても傷つくことが分かっているのに。
僕と彼女が別れた原因の、つきあった一年間をすべて否定できるほどの崩壊劇。結末。彼女の笑顔が罪悪感でにじむ。水彩絵の具のように。このまま永遠に隠しとおせるとは思えないし、その過去がある以上、やりなおせるわけがない。きっと僕も、夏香も受けいれられない。
僕は少しだけ笑って、「なわけないだろ」と言った。「前から、別に元サヤ狙ってるわけじゃなかったし」
一時間目の授業の準備をする僕のとなりで、賢一はしばらく僕をじっと見つめたあと、「ふーん」と興味なさげに言った。夏香は女子たちにかこまれて、楽しそうに笑っていた。
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