第3話 Ocean eyes

 翌日、学校帰りに病院をおとずれた僕を見るやいなや、夏香はベッドから落ちんばかりに跳ね起きた。毛布がふわりと空気を含む。

「彰! やっと来てくれた。寂しかったんだから」きらきらとした瞳が、まっすぐに僕を見ている。「どうしよう、私、昨日の人を彼氏って知らずに突き飛ばしちゃって。謝らなきゃ」

 下駄箱で、教室で、廊下で、ずっと僕の存在を無視してきた夏香。村山と熱いキスを交わしていた夏香。僕に背中を向けた夏香。落差が大きすぎる。こっちがひるんでしまうくらいに。

 思った以上に現状ののみこみが早い夏香に驚きつつ、僕は一瞬ためらい、しかしゆっくりと夏香に近づいた。こんなに自分を求める夏香が逆に不自然に思えてしまった。ベッドに座って、ひかえめに彼女の目をのぞきこむ。

「村山が彼氏だって、聞いたんだ」

「記憶喪失だとも聞いた。彰、私が高校生って、本当? こないだ着てた制服、うちの中学のじゃないもんね。『ボーン・アイデンティティー』の世界みたい。しかも私、いつの間にか茶髪にしてる、髪がめっちゃかわいい」

 夏香は身を乗りだして、さらさらの髪に指をとおしてひろげた。彼女から優しい匂いがして、肩が少し跳ねた。プリントを拾う手伝いをしたときでさえ、こんなに近づくことはなかった。

 話せている。夏香と、会話をしている。そんな些細なことでいちいち身体がこわばってしまっている。

 僕が何も言えずにいると、夏香がすこしずつ、不安げな表情になっていくのがわかった。元気づけてやりたいと思っているのに、うまく言葉にできない。

 夏香はベッドについた僕の手の上に、自分の手を重ねた。一瞬、どきりと指先がはねたが、彼女の手がちいさく震えていることに気づいて、息をのんだ。

「どうしたらいいの、私、デロリアンでタイムスリップしてきた気分。私は中二だよ。確かにそうなんだよ。なのにどうしてみんな急に、私が高校生で、あのイケメンの人が私の彼氏だなんて言うの。分からないよ、分からなすぎるよ」

 彼女の声がかすれて、今にも泣き出しそうに顔をゆがめている。震える手がとまらない。悲しい、つらい、というよりも、どうにかしたいけどどうすればいいのかわからない、という表情だった。

 外傷による健忘で、自然に記憶が戻らない場合、外部から記憶想起をうながすのだとネットの記事で見た。好きな音楽を聴かせたり、よく行く場所へ連れて行ったりといったことだ。患者の多くはこの方法をとっているらしい。だが結果が出るかといえば、そう容易ではないそうだ、

 僕はかなり長い間ためらっていたけれど、やがて夏香の髪に手を伸ばしかけて、やめた。おろした手を、夏香の手に重ねる。彼女のセミロングの髪は、染めたからか少しいたんでいて、だけど艶を失っていなかった。

 以前と同じ匂いがした。その香りで、僕も心臓の深いところに置き忘れてきた記憶が、急激に戻るのを感じた。

 捨てられなかった。僕が愛した女の子との、大切な記憶を。

 不謹慎だけど、捨てなくてよかった、とも思った。

 夏香は涙声で必死に訴える。

「分からないよ。昨日まで彰と一緒にいたのに、目が覚めたら知らない人に抱きつかれてるなんて。何もかも分からないよ。お医者さんはきっと思い出せるって言ってたけど、何も分からないの。写真を見せてもらっても、何やってるの私としか思えないの。私の話を聞いても、そんなことした覚えが何ひとつないの。自分が自分じゃないみたい。怖いよ、彰。他の誰かの身体にのりうつったみたいで怖いよ。これは私の人生なの? ねえ、彰、私はここにいる?」

 震える彼女を、まっすぐに正面から見つめた。今にも涙がこぼれそうな瞳は、最近の垢ぬけた夏香からは想像できないほど、幼く見えて、まっすぐだった。

 昨日まで彰と一緒にいた、という言葉に違和感を覚えた。だが、少したって理解した。それはきっと、事故の前に廊下で話していたことは含まれない。中学二年生の冬までの記憶しか残っていないなら、おそらく、十四歳だったあのころのいつか、どこかで一緒にいたときのことをさしているのだろう。

 その日から突然、三年後の今日までやってきた。

 僕は軽く混乱していた。彼女は同一人物なのだろうか。いや、今ここにいる夏香は三年前の、十四歳の夏香なんだ。中学三年生のときに別れた、僕の大切な女の子なんだ。にわかには信じがたいけれど、記憶喪失になってしまった女の子なんだ。

 映画の話じゃない。目の前で起きている事実なんだ。

 僕はすうっと息を吸って、「大丈夫」と言った。ただ話しているだけなのに、べらぼうに緊張していた。

「ちゃんとここにいる。大丈夫だから」

 声が震えないようにと思ったが、震えてしまった。夏香は僕の言葉を聞き逃すまいと、身を乗りだして僕を見つめている。

「時間はずいぶんたって、いろんなものが変わったけど、夏香は夏香だし、世界は今も夏香の知っている世界のままだ。俺だってここにいるし、俺は立浪彰のままだ」

 彼女のちいさな震えが少しずつ落ちついてくる。まともに話し合うのは、事故の前をのぞいたら二年ぶりだ。ふつふつと湧きあがってくるなつかしい気持ちが、僕の表情を自然とゆるませる。僕が笑うと、夏香も少しだけ笑った。ひきだしの中にしまって、ときどき取りだしてはなつかしさに浸っていた、この空気。このいとしさ。

 記憶喪失。言葉が現実味をおびないのは、映画の世界でしか知らないからだ。

 愛する男女のどちらかが記憶を失い、自分のことをまったく覚えていない、それでもめげずに愛し続ける、そんな陳腐な恋愛映画は何度も見た。けれど、夏香はそうじゃない。記憶を失い、中学生のころまでの記憶しかなく、僕とつきあっていたときの日々が最新の記憶になっている。

 あまりに現実味のない脚本の数々。これがラブコメ映画なら、映写機を止めてしまいたい気分だ。

 やがて夏香の両親が入ってきて、笑いあっている僕らを見て安心したように肩を落としていた。立ちあがろうとすると夏香が「待って」と叫んで僕の服の端をつかむ。親においていかれそうになっている幼い子供のような無垢な瞳を見て、彼女の片手をとった。

「いったん帰るよ。おばさんたちとちゃんと話をしな。今は何も思い出せなくてもいいよ。マーティ・マクフライのままで大丈夫。少しずつ治していこう」

 笑顔がひきつっていないか不安だったが、僕が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のDVDをあげたことは記憶にあるらしく、彼女は驚いたように目を見ひらいた。そして、小さくうなずいた。覚えていてくれたことがうれしくて、僕は笑顔でうなずきかえした。

 後ろ髪をめいっぱいひかれる思いで、病室のドアをあけたとき。

「彰……」

 夏香の呼びとめる声は、弱々かった。

 そっとふりかえり、「何?」とたずねる。自分でも信じられないほど優しい声だった。

「こないだの人が私の彼氏なんだよね。でも、私と彰はつきあってるはずだよね? 私と彰は、どうなっちゃったの? 別れちゃったの?」

 強い意志をこめた、けれど弱々しい彼女の声にどう返事をすればいいのか分からず、僕はその場に立ち尽くした。夏香の声はしっかりしていたけれど、瞳は怯える少女のように揺れていた。野暮ったい言葉がいくつもいくつも喉元をかけあがり、僕はそのたびいちいち飲みこむ。

 本当は、話したいことはいくつもあった。

 彼女が何か言いだす前に「また来るよ」と言って、病室の外へ出てドアをしめた。泣いてしまいそうだった。



 それから夏香の退院まで、二回ほどお見舞いに行った。同じ学校で面会を許可された生徒は、僕と村山だけだ。記憶喪失が発覚して以来、無用な刺激を避けるために、事情を知っている僕たち以外の面会は両親の意向で断っているらしい。夏香と仲のいいクラスの女子たちが何人も来たらしいが、彼女たちのことをまったく覚えていない、中学二年生の夏香に会えないまま帰ってしまった。

 病院のドアをノックしてあけると、彼女が笑って出迎えてくれる。ちぎれんばかりにふっている尻尾が見えそうだ。いつか夢見ていた、笑顔で僕を受けいれてくれる夏香の姿。その唐突な理想の光景に、僕の頭がまだついていかない。電気のスイッチをぱちんと切り替えるように、リアルがリアルらしからぬ方法で変形していた。

 一度僕が拒否したからか、夏香からの「どうして別れたの」という質問は、二度めはなかった。彼女に気をつかわせてしまったことが悔しくて、僕は唇を噛むしかない。

「ちょうど三年分の記憶がなくなるなんて、まるで『ペイチェック』みたいだね。ああ、でもそっちのほうが面白かったかな。記憶がなくなる代わりにめっちゃお金がもらえるから」

 一億ドルぐらいだっけ? 今のレートでいくらだろ、と笑う夏香。無理に楽しそうにしているようには見えないが、楽しい空気を作ろうとしているのがわかって、僕は曖昧に笑うことしかできなかった。

「すごく不思議な気分なの」夏香はベッドに半身をおこし、僕の持ってきたゼリーを紙スプーンで食べながら言った。「私の中では、私は中学二年生なの。高校生になった覚えはないの。でもね、いちばん新しい記憶がさ、確かに一番新しいはずなのに、感覚としてはずいぶん前のことのような気がする」

 だから記憶喪失って聞いてもどっかで納得してたの、と、夏香は静かにつけたした。病名を知った直後の、混乱していたときと比べると、意志も目の色もはっきりして落ち着いている。

「その、いちばん新しい記憶って」

「たぶん、十二月の真ん中ぐらいかな。ほら、こないだ、彰と一緒にスタバのクリスマスデザインのタンブラーを見に行ったじゃない?」

「こないだって」思わず笑ってしまう。「俺にとっては三年前のことなんだけど」

 あ、そっか、と夏香が困ったように笑うのを見て、しまったと息をのむ。が、彼女は肩をすくめて「気にしないで」と言って笑った。

「私も、ついこないだだったはずのクリスマスが、なんだか何年も前のことだったような気がするの。クリスマスが終わって、それからずっと三年間、眠りつづけていたような気分。だから、頭の中は中学生なんだけど、感覚では三年の歳月が経過している。時間がたっている感覚はあるんだけど、何かをした覚えがないの。不思議な感覚。感覚感覚うるさいな私」

 自嘲気味に笑う夏香を美しいとすら思ってしまった。たった二日で自分の立場を飲み込んでしまったのは、もしかしたら、彼女が映画好きだからかも知れない。

 こんなふうに何度も会って長話をすること自体が二年ぶりで、かつてひきだしの奥にしまったはずの、彼女との淡い初恋の感触がじんわりと震え、熱をおびてくる。

 夏香は村山の持ってきた花がいけられている花瓶を見て、「でも大切な人ができたんだよね、その期間に」と言った。

「実感が湧かないな。謝らなきゃとは思うけど、それ以上の感情が全然出てこない。それもなんだか申し訳ないな……」

 複雑そうな表情で自分の膝の上に頬杖をつき、白いリネンを見つめる夏香。僕は何も言えなかった。思い出してほしいとも、無理して思い出さなくていいとも言えてしまう、そしてどっちを口にしてもなんだか嘘くさいなと思ったからだ。

 神妙な顔つきから、彼女はふと、目線だけで僕のほうを見た。

「彰、あんまり変わってないよね。髪型も、顔立ちも。身長はちょっと伸びてるね」

 夏香はベッドに座ったまま、僕の頭の上に手を伸ばした。確かに、高校二年生の夏休みで急に背が伸びた。逆に夏香はいつまでも小さく、かわいらしいままだ。

「だから彰と一緒にいるときって、三年の経過をあまり感じさせないな。自分のことは、鏡を見たら茶髪だったりして、すぐに分かるんだけどね」

 屈託なく笑う彼女の笑顔は、肉体年齢よりももっと幼く見えた。化粧をしていないせいもあるけれど、一瞬、僕のほうが過去にタイムスリップしたんじゃないかと思ってしまうくらい。



 夏香の退院の日、学校帰りに花束をかかえて病院へ行くと、入り口で医者に見送られる彼女と彼女の父親を見た。駐車場にとめられてある黒い車の後部座席に乗りこむ夏香を呼び止める。

「退院おめでとう」僕はドアに手をかけて花束を彼女に手渡した。

「わざわざありがとう、彰」

「あっさり治るもんなんだな。結構な血、出てたけど」

「しょせんは二針だよ。打撲だって、打撲って言うほどでもなかった。これからは、私がなくした記憶を取り戻すことに専念しなきゃね」

 運転席にいる夏香の父親に「乗らないか」と言われたので、彼女とならんで後部座席に座った。この家の車に乗るのは初めてだった。家族団欒の時間を邪魔するのではないかとちぢこまったが、夏香がとなりで「いい匂い」と花束に鼻先をつっこんで笑っていたのですっかり気が抜けてしまった。

 するするとうしろへ流れてゆく窓の外の景色に、夏香はさほど驚いていないようすだった。三年ごときで街の風景が変わったりはしない。が、ときどき、あんな店あったっけ、とでも言いたげにかしげられる首。僕はそんな彼女の姿を見ないように、前をまっすぐむいて、両腕を組む。何かを言わんと口を半分ひらいては閉じ、ひらいては閉じ、を三回ほどくりかえした。

 最初に静謐をやぶったのは夏香だった。

「彰、私のこと、嫌いになった?」

「そんなこと」慌てて訂正したが、夏香が頬をぷうっと膨らませた。怒ったときの彼女の仕草だ。忘れるわけがない。

「なんていうか、話すのもためらわれてる感じ。私、彰とつきあってるつもりだけど」

 そりゃあ君の記憶ではそうだろうけどさ。僕は言いたいことを全部嚥下して「まあそうだな」とため息まじりに言った。彼女のふくらんだ頬を指で押してぷしゅうと息を吐きださせる。これも、いつもの流れだ。

「でも、気づいてんだろ、俺と夏香はもうつきあっていない」

「うん、分かってる。こないだの村上さんでしょ。三年の空白、大きすぎるよ。何があったの」

「記憶喪失なんて一時的なものだろう。いつかはまた高校生の自分を思い出すだろうし、そのときにちゃんと村山に謝りさえすれば、大丈夫だろ」

「私が話してるのはそんなことじゃない」

 夏香は僕の鼻先に指をつきつけた。指先が鼻の頭を押す。夏香は身をのりだして、きつく眉をひそめていた。また頬の風船がふくらんでいる。子供か、この子は。

 怒られているのに、また彼女とこんなふうに接することができて、その嬉しさも半分混じっていた。矛盾する、僕の本音。

「ごめんね、私はいまだに中二の感覚なの。高校生なこと前提で話されても、全然実感がついてこない」

「悪い、野暮なこと言った」僕は彼女の手にそっと手をおいて言う。「今は一緒にいるよ。仕方ないから、って言ったら聴こえが悪いけど、今の夏香が安心していられるのは、家族と友達と、俺の近くだろ」

 我ながら漫画の受け売りのようなことばかり口にしていると思う。

 何がやりたいのかも分からないまま、僕はこのとき、自分でも間違っているんじゃないかとつねづね思っていたベクトルへ方向転換をしてしまっていたのかも知れない。夏香の幻影をうつしては割れてしまう鏡の破片を拾いあつめて、別れてからの二年間、次から次へと華がそえられてゆく思い出のためだけに生きてきた。

 今更ながら、下手な神の采配だと思う。

 笑って夏香の頭をそっと撫でた。やわらかい、高校デビューと同時に染めた髪。夏香は一瞬きょとんとしていたが、やがてその真っ白な肌をめいっぱいピンク色に染めて、「そうだね」と笑った。

「一緒にいたいよ、彰と」

 純粋で、純朴で、何ものにも染められていない笑顔だった。僕の記憶の甘い部分だけを切りとってきたようだった。

 ずっと、三年間、近くにいることさえできなかった。そんな彼女が、手を伸ばせばすぐに触れられる距離に座っている。

 僕は同じように笑った。今日まで考えるまい、考えたくない、こっち来んな、と何度も足蹴にして遠ざけてきた言葉が、ここにきてようやく僕の脳裏を最大瞬間風速的にかすめる。禁断の願い。神の采配。

 ――戻ってきた。

 彼女の隣にいられる時間が、戻ってきたんだ。



 夏香の家の前に立つことすら数年ぶりだった。

 別れてすぐのころは、この家の前を通るたびに夏香の部屋の窓を見あげたりしてすっぱい未練を噛みしめていたのだけれど、避けられるようになってからは逆に迂回するようになった。僕と彼女の両親はすっかり顔なじみで、中学時代、何度も何度も遊びにきては夏香と一緒に音楽を聞いたり、映画を見たり、食事をごちそうになったりした。

 今、あらためてこの家の前に立ち、ざあっと一気に心の中へなだれこんでくる乾燥した思い出に、車から降りるのをとまどってしまう。

「さあさあ、あがってちょうだい。退院祝いに、ケーキを買ってきてあるの。彰くんも食べていって」

 夏香の母親に連れられて、別れて以来二年ぶりに居間へ入り、二年ぶりに僕は夏香と並んでケーキと紅茶をいただいた。三年ごときで変わらないのは家も同じで、夏香は全く動揺せずに食器を出したり紅茶をいれたりした。四人であれこれと話し、医者の言いつけをまじえて、夏香の療養のためにしばらく学校を休ませることと、僕が週に何度か夏香のようすを見に来ることで今後の方針は決まった。病院にはこれからも通うことになっているし、まずは経過観察というところなのだろう。

 昔からおだやかで優しい両親で、ひとり娘の夏香にめいっぱい愛情をそそいできたのがよく分かる、仲よし親子だった。夏香が記憶喪失になったと分かったときも、一時は動揺を隠せなかったようだが今はもう落ちつき、冷静に状況を把握しようとしている。夏香はよく笑い、よく食べた。ただならぬ感情におびえているのは僕だけだ。

 流し台で夏香と並んで食器を洗っているとき、洗剤のグレープフルーツの香りに交じる夏香の匂いにいちいち傷ついた。記憶喪失と聞き、ほんの一瞬「また彼女と恋人同士に戻れた」「あのしあわせな日々が戻ってきたんだ」と喜んだが、ケーキを食べながら夏香の治療について話している間に、そんな自分の情けなさと女々しさに穴を掘って埋まりたい気分になった。調子に乗るんじゃない、と自分を叱咤する。

 僕は首を横にふり、過去が戻ってきたわけじゃない、夏香が事故で記憶を一時的に失っているだけなんだと何度も自分に言い聞かせた。しかし、一生記憶が戻らないこともあるという可能性が、僕のわき腹をつまようじか何かでしつこくつついている。頭がぐちゃぐちゃだった。

 自分がどうしたいのか、ぜんぜんわからない。

 夏香と一緒に彼女の部屋へあがった。こういう状況に接して男子は遠慮するのが定石なのだろうが、夏香が僕の拒否を聞かない。彼女は今までと変わらない調子でドアをあけ、しかし数歩進んだところで歩みをとめた。

 部屋の隅に置かれた二段ベッド、その一段目の勉強机。大きなクローゼットに、メイク道具やヘアアイロンがならぶ化粧台。二つの本棚には本と、彼女の好きな映画のDVDやBlu-rayがたくさんつまっている。大して変わらないはずなのに、僕が見ても分かるほど、変わっていた。

 夏香がひらいたクローゼットの中には、これまで彼女が好んでいた服よりも多く、少し大人びた服がならんでいた。バッグやアクセサリーもあちこちにある。

 素朴で、ある意味垢ぬけなかった夏香も、高校デビューと同時にいまどきの女子高生らしくなった。見知らぬものが増えた自室を見て、夏香はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと振りかえり、困ったように笑った。

「なんか、かなり物の場所とか変わってるね」

 肩をすくめる彼女の上半身を、僕は思わず抱きしめた。

 僕から彼女に触れるのも、三年ぶりだった。

 一瞬こわばった彼女の身体は、そっと背中を撫でると徐々に力が抜けてきた。立ったまま彼女を抱くと、本当に僕は背が伸びたんだなと思う。つきあっていたときは数センチしか変わらなかったのに、今は彼女の頭頂部に鼻を寄せて、シャンプーの香りを嗅ぐことができる。

 夏香は僕のシャツをつかみ、胸元に顔を伏せて黙っていた。泣いているのかも知れないが、なら泣き顔を見られたくないだろうと思い、彼女のブラウンの髪に頬を寄せた。中学時代、彼女の髪は漆黒のミディアムヘアだった。小さい子をあやすように頭を撫でてやる。

 いつか、彼女の記憶は戻ってしまうのだろうか。すべてを取り戻して、元いた場所に帰ってしまうのだろうか。そしてまた僕を嫌い、このあたたかさを分けてくれなくなるのだろうか。けれど、きっとそれが、彼女にとっての平和で。髪の匂いをかぎながら、僕はぎゅっと唇をひきむすぶ。

 いつか離れてしまうなら、この時間が一秒でも長く続いてほしい。そう思いながら、さらに強く彼女を抱きしめた。だが、やがて彼女は優しく僕の胸を押して離れた。

「何年経ったんだっけ」

 窓際に歩みよりながら夏香がつぶやく。僕はとっさに「三年だよ」と答えた。

 窓には霜がついていて、カーテンが少し濡れていた。これから冬がやってくる。僕らはこんな季節につきあいはじめた。三年前。中学二年生。僕は学校が終わったあと、彼女をひと気のない廊下にに呼びだして、告白した。

 ――君と一緒に映画が見たい。いや、そうじゃなくて、つまり、君と一緒にいたい。好きなんだ。夏香のことしか考えられない。

 最初の言葉は何なの、と吹きだした夏香はそのままオーケーしてくれた。そのときの、照れ混じりの夏香の笑顔を、僕は二度と忘れない。人生最高の瞬間だった。死んでもよかった。

 霜をなぞって何か絵を描こうとする夏香。その指はゆっくりと窓をすべり、重力にしたがって窓枠に落ちた。彼女は「『バニラ・スカイ』のラストシーンみたいだね」と言った。

「夢を見ているみたい。そして目覚めたら、私は何年も先を歩いているの」

 高層ビルから地上へまっすぐ堕ちてゆく主人公を、僕は覚えている。



 三年前、中二の秋前、彼女に告白した直後、僕は友達の男どもにもみくちゃにされからかわれた。それもそうだ。夏香は学年でも上位に入るほどの美人で、頭がよくて、明るくて人なつっこい。女子からも人気で、男子にとっては高嶺の花も同然だったからだ。

「君と一緒に映画が見たい。いや、そうじゃなくて、つまり、君と一緒にいたい。好きなんだ。夏香のことしか考えられない」

 下手くそすぎる告白だった。事前に準備していた言葉よりも長く、余計なこともつけくわえて、震える声で。ひとえに緊張していたからで、これまで彼女がいたことのない僕が、トップクラスの美人で人気者の女子に告白するなんて、前代未聞の珍事態だった。

 夏香から笑ってオーケーをもらったとき、気分が一気にエンパイア・ステート・ビルを階段でかけのぼってかけおりてきたばかりのように高揚しきり、もはや返事で何を言っていたのか覚えていない。どう考えても平凡以下のルックスで、成績も大したことがない、地味な僕が夏香のような二年のお姫様とつきあえるわけがない、とすべてをはなから諦めていた。玉砕前提の告白だった。だから、遠くから夏香に憧れるだけの周囲の男友達をかたっぱしからぶっとばし、自分がピラミッドの頂点に立てたのだという高揚感もプラスされ、夏香の彼氏になれた絶頂は東京スカイツリーのてっぺん以上の標高で愛を叫ぶ気分だった。

 しかし、ただそれを報告しただけなのに賢一から、

「夏香が鯛だとしたら、お前は海老どころかアオミドロだ。しょせん水槽の壁にへばりついて気持ち悪い糸状の藻みたいになって、人間さまから嫌われる存在。心して不純異種交遊をおこなうように」

 とさんざんにもてあそばれてしまった。誰がアオミドロだ。僕と夏香じゃもはや種族さえ違うのか。

 友人たちからは「俺狙ってたのに」「ヤリチン」「爆発しろ」「思春期の探究心だけで勃ってるくせに」「いつか奪う」「絶対ゴムつけろよ」とボコボコに殴られた。ふざけているとわかっていたから、楽しかった。彼らは最終的に、僕と夏香を見守ってくれる最高の友達でいてくれた。

 つきあいはじめてすぐ、夏香が重度の映画好きだと知った。彼女はいつもタブレットを持ち歩いていて、配信サービスからダウンロードした映画を手当たり次第に見ているらしい。僕は彼女に連れられて、放課後、空き教室をひとつ使って一緒に映画を見た。タブレットにイヤホンをつなげてシェアし、吹奏楽部の演奏をシャットアウトして。初めて一緒に見たのは「オデッセイ」だった。夕焼けに染まる教室で見る火星の映画は、没入感がすごかった。

 僕が夏香の顔をのぞきこんだのと彼女がふりむいたのはほぼ同時で、数秒見つめあい、先に目を閉じた夏香と唇を重ねた。ただ触れるだけの優しい口づけ。手元からぴちゃんと水がはねて、波紋が広がるような。ふわりと身体が浮いて無重力をたゆたうような。あたたかくて、しあわせで。

 それが僕と夏香のファースト・キスで、あとにも先にもその一度きりだった。僕らは夢見心地のまま唇を離し、見つめあって、それから僕は彼女の頬に自分の頬をすりよせた。すべての国の言葉をもってしても形容しがたい、甘くて、けれどやさしい時間だった。


 僕は今、不思議でしょうがない。なかったものが今はある事実。禁断の領域に踏みこんでいるような背徳感。恐怖。僕は何もかもが怖いから、目と耳と口をふさいで、真っ暗な部屋でうずくまっているだけな気がする。



 担任の先生は医者から夏香の記憶喪失のことをすでに知らされていて、しかしそれがクラスメイトたちに知られることはなかった。事情を知っている村山も、周囲には口をつぐんでいるらしい。学校への復帰の予定がないので、今はそっとしておこうという算段だった。

 夏香にとってこの高校は入学していない近所の学校で、ここで知りあった友人たちは見知らぬ先輩だ。夏香と普段仲のいい女子たちが質問攻めにすることは想像にかたくなく、過敏になっている当人を刺激しかねない。記憶喪失は立派な脳の損傷だから、過度な刺激を与えると病状を悪化させる、と担当医が話していた。突然赤の他人が大勢家におしかけ「夏香、大丈夫?」「記憶喪失なんだってね」「私は夏香の友達だよ」とまくしたててしまっては、学校への復帰なんて一生不可能になってしまう。

 僕はその日のすべての授業が終わって帰る前、賢一と瞳を呼びだした。一号館と学校のフェンスの間にある鯉の池まで連れてゆき、手入れもされていない雑草と木々の間にぽつんと放置されているベンチにふたりを座らせる。僕は立って鯉の池を見つめた。赤白黒のぼんやりとした影が、にごった水の中でからまりあっている。

 僕はここ数日、何度もはぐらかしていたふたりの質問に答えた。

「夏香は、逆行性健忘症だ」

 賢一は目を見ひらいて「そんな」と絶句した。「ぎゃっこうせい、何?」と瞳が首をかしげると、賢一が簡潔に「記憶喪失だ」とひろく世間に膾炙している単語で捕捉してくれた。物騒な四字熟語に瞳が息をのむ。

「幸いにも全健忘じゃないから、自分が誰かとかはわかってる。部分的な損失で、彼女が覚えてるのは中学二年までだ」

「記憶喪失って、現実にあるんだ。私、ドラマでしか見たことないかも」

「よくあるだろ」賢一が腕を組みながら言う。「F1レーサーとかが事故って大怪我を負っても、完治したらまたレースに復帰するっての。あれさ、俺、事故前後の記憶がないからすぐに復帰できるんだと思ってた」

「そんなのよくあったら困るでしょ。怖すぎだって」

 瞳は自分の両腕をかかえて首を横にふる。だが、事実、目の前で起きていることだ。僕でさえやっと飲みこんだところなのに、まだ夏香に会っていないふたりにとって、納得するまでまだ少し時間がかかることかもしれない。

 自宅で療養するという話をすると、案の定瞳が立ちあがった。

「あたし、お見舞いに行く」

「言うと思った」僕は肩を落とした。「よく考えろ。中学二年までの記憶しかないっていうことは、高校から夏香の友達になった瞳のことは覚えていない」

「それでも、あたしが顔を見せたら思い出すかも知れないじゃん。記憶喪失って、なくした部分にかかわるものを見たり聞いたりしたら思い出すって」

「でも夏香は退院したばかりなんだ。昨日だって、自分の部屋のレイアウトや服装の好みの変化で動揺してたし。そんな中、慌ててあれこれと失った記憶の断片をかきあつめようとしたら、一番苦しむのは本人だろ」

「彰の言うとおりだ」考えこむように黙っていた賢一が瞳を止める。「今はゆっくり休ませておこうぜ。受験もからんでくる今の時期に、彼女に負担をかけたら余計ダメージになるだろ。少なくとも、三人以上でぞろぞろ見舞いなんていうのはやめておけ。俺と彰はともかく」

 賢一は中学から夏香と顔見知りだ。僕と別れたと聞いたあとは、彼も僕同様、立ち回りかたが分からず彼女と言葉を交わしていないらしいが。しかし瞳は高校の一年で夏香と知りあっている。今のふたりは赤の他人に近い。

 瞳はしばらく傷ついたような目をしていたが、やがて「分かった」と肩を落とした。友人に自分のことを覚えていてもらえないというのは、どんな気持ちなのだろう。そこで無理におしかけたりせずに、夏香のことを考えてぐっとこらえるあたり、あまりふたりでいるところを見たことはないが、いい友達関係なのだろうと分かる。

 僕はほっとしてベンチに座った。賢一が「どうするんだよ」と訊いた。

「両親との話し合いに同席したけど、学校への復帰はまだ先になりそう」僕はこちらを気にせず泳いでいる鯉を眺めながら言った。「とりあえず、時間があれば彼女の家に行く。長い治療になりそうだから、今の彼女に必要なのは忘れてしまった三年間の記憶を取り戻すきっかけを与えることじゃなくて、落ちつかせていくことだろうと思う。だから同中だった賢一には、あとで一緒に来てほしい」

「分かった」

「あ、賢一だけずっるいの」

 瞳がぶーすか文句をならべたが、僕らは無視して立ちあがった。「じゃあせめてこれだけでも」と言って瞳は女の子らしいかわいいメモ帳を取りだし、茶色のペンで何事かをさらさらと書きつづった。それを複雑におりたたむと、表に「夏香へ」とハートマークつきで書く。それを手渡された僕は「りょーかい」と笑った。

「何してんだ、そんな微妙なとこで」

 瞳の手紙を鞄に入れているとき、背後から話しかけられた。池を囲む木々の向こうがわで、村山が眉をひそめてこちらを見ていた。あー、と僕が返事に困っていると、隣の瞳が口元をおさえて小さく叫んだ。

「ユキくんだ」

「え、なんで知ってんの、しかもそのあだ名で」村山は大きなストライドで池まわりの石をまたぎ、僕たちの前に立った。「よう、立浪」

「よっす」

「いやどういう関係だよ」賢一は僕と村山を見比べて言った。「いつの間にそことそこが知り合いになってんだ」

「病院でたまたま夏香の面会時間がかぶったんだよ」

「ああ、やっぱ夏香絡みなんだ」

 村山は少しだけ笑った。寂しそうな笑顔だった。首にぶ厚く巻かれたマフラーで口元を隠し、その隙間から白い息を吐いた。わたあめのように固まった吐息が、ひび割れたガラスのように複雑に細い枝を伸ばす木の間に溶けてゆく。

「同じクラスの賢一と、瞳」僕はかるく友人たちを紹介した。「夏香絡みというか、俺絡みかも」

「よろしく」村山は自分の立場が知られているのをわかっているように、それだけしか言わなかった。彼のはにかむような笑顔に、うわ、と瞳が艶っぽい声をあげる。夏香の彼氏だから、という不文律が成り立っている学年だが、村山が女子の目線を無意識に集めるのはあらがいようがないのだろう。

 僕は彼が違和感なく笑っているのを確認して、ゆっくりとたずねた。

「同中の俺と賢一で、今から夏香の家に行くけど」

 慎重に、丁寧に言葉を選ぼうとする。「お前も来る?」

 だが、失敗したらしい。コップの底で角砂糖が溶けるように、村山は笑顔を消した。マフラーに顔半分をうずめたまま、僕のほうを見て「んー」と間延びした声で言った。

「やめとく。病院だって、あれから一回しか行ってないし」

「夏香が」僕はもう一度、彼が悲しまないようにと願いながら言葉をつづった。「村山に謝りたいってずっと言ってた。申し訳ないって」

「真面目だなあ、俺と会う前から」

 村山は目尻に皺を寄せて苦笑した。俺と会う前、という言葉をおそれずに使っている。彼の中でも、ここ数日でようやく飲みこめた出来事だったのだろう。自分と会う前の夏香。自分じゃない人とつきあっていた時の夏香。

「でも、それでも遠慮しとくわ。謝られるなら学校のほうがいい」

「お前も大概真面目だな」

「違う違う。家ってのがだめなんだ。病院だったら人の目もあるけど、夏香のプライベート空間に今の俺が行くのは、さすがにちょっと怖がらせる気がする。そう言ってもらえるのは嬉しいけど」

 寂しそうに微笑みながら話す村山。怖がらせる、という言葉を使うあたり、突き飛ばされたことがよほど堪えたらしい。

 僕は薄々感じていた。贅沢な立場にいるのは僕のほうで、実はこの状況でいちばん苦しんでいるのは、夏香をのぞけば村山なんじゃないか、と。それでも彼は夏香を第一におき、彼女のためにと考え、行動し、また行動せずにいる。

 彼のようになれず、僕はただ幸福にとまどって、笑顔になりながらもおろおろしているだけなのかもしれない。

 僕の不安をよそに、村山は賢一と瞳を相手に談笑していて、いつのまにかLINEも交換していた。こういうコミュニケーション力の高さも、僕にない部分だ。

「じゃあ、夏香によろしく」

 マフラーを口元まであげた村山は、僕たちに手をふりながら背をむけた。その後ろ姿からは、彼の感情はわからない。ただ、僕は自分を殴りたくなる衝動をこらえながら、校舎の反対側へむかうその背中を見送った。


 いつまでも名残り惜しそうに「夏香に、高校の友達が心配してるって言っといてね」とくりかえし、自転車に乗って走り去る瞳。笑って彼女に手をふり、僕と賢一は夏香の家にむかった。同じ中学校だったので歩いて行ける距離だ。

 賢一は夏香の家の前で「久しぶりだな」とつぶやく。彼も夏香の両親に気にいられていて、よく三人で遊んでいた。インターフォンを押すと、夏香の母親に招きいれられた。ノックをしたのち夏香の部屋のドアをあける。

「夏香、具合はどう?」

 CDプレイヤーから坂本龍一のピアノソロが流れる室内で、夏香はリラックマのカーペットの上にぺそっと座り、タブレットをいじっていた。ふんわりした真っ白なニットにスカート。その細い身体がぴょこんとはね、満面の笑みを浮かべて「彰!」と叫んだ。

「来てくれたんだ」

「そりゃ、来るって言ったし」

「よう、元気そうだな」賢一が僕の横から出てきて手をあげる。

 夏香は一瞬息をのんだ。だがすぐに彼の全身を下から上まで目で追い、あ、と声をあげる。

「賢一だ!」

「忘れたなんて言わせねえぞ。偉大なる古田賢一様だ」

「やば、ちょっと髪切った? 背も伸びたよね。そりゃそうか、みんな今は高校生だもんね」

 やはり、中学時代の友人のことは覚えているようだった。ハイタッチをする二人を見て、屈託なく話す夏香の笑顔がまぶしくて、僕は少し複雑な気分だった。夏香が記憶喪失の現状を受けいれはじめていることは喜ばしいのかも知れないが、自分の周りの人間がみんなすこし大人になっているという現実をここであらためて知り、どんな気分だろうか。

 夏香の母親が持ってきたミルクティーとクッキーを肴に、雑談に華を咲かせる。

「それじゃあ、高校生になった覚えはないのか」

「中三に進級した記憶もないよ。私の中では、私はまだ中二。私が知ってる賢一も中学生のはずなんだけど」

「むしろ永遠に中学生のままでいたかったよ」何言ってるんだこいつは。

「てか、夏香だって身体年齢は高二のはずだぞ。胸でかくなってるし」

「どこ見てんの、馬鹿」

 僕をどつく夏香を見て、賢一がゲラゲラと笑う。だが、ミルクティーをひとくち飲んで落ちついた賢一は、珍しく困惑したような表情で「あのさ」と言った。

「俺はこうして遊びに来てもいいのか? 彰は分かるけど。俺、夏香の彼氏でもなんでもないのに」

 それは先刻の村山の選択を気にしての疑問だろうか。僕はなかば夏香の答えを予想しながら、彼女の顔をのぞきこんだ。

 その言葉に、夏香は一瞬たりとも迷わずに答えた。ひまわりのような笑顔をふりまき、自信満々に。

「もちろん、友達だもん。中学の友達だったら、多分みんな覚えてると思うし」

 変わらず笑う夏香。僕と賢一も、つい笑ってしまう。中学時代、三人をまじえた仲間たちで遊んでいたときの記憶が鮮明に回顧される。僕たちまで記憶を失ってしまったようだった。三人分の笑い声が響く部屋に満たされる、あたたかな空気。

 ここにいる夏香は確かに夏香だった。中学生の、僕が愛した夏香だった。そのことを喜ぶべきなのか嘆くべきなのか、いまだによく分かっていない。しかし、三人で話しながら思ったことは、少なくとも彼女と僕が自由に会話をできる関係をとり戻していて、それ自体は悲観すべきことじゃないという前むきな意見。

 そして、彰はわかるけど、という賢一の言葉が妙にくすぐったかった。少なくとも、彼にとっては今の僕は夏香の彼氏で、そばにいてもいい人間だと認められたことがわかり、背中がむずむずする。

 村山との会話を思い出した。この状況に接して、もっとも近くにいたはずの人間がもっとも遠ざけられてしまった現実と、それを受け入れた本人。対して、もっとも遠ざけられてきた人間が近くにいて欲しいと求められ、周囲からもそれを認められている、できすぎた話。

「元気そうだったから、安心した」

 そう言う賢一に、夏香は極上の笑みで答えた。「今はね。これからどうなるか分からないけれど」

「なんとかなるだろ。彰もいるし、俺もいる」

「うん、ありがとう。なんか申しわけないね、私がドジったばっかりに」

 ドジったって? と僕がたずねると、夏香は「階段から落ちるなんて、まぬけすぎるじゃん」と答えた。

 僕は走馬灯のように、夏香が僕をにらんでいた目を思いだし、あのとき届かなかった自分の右手をじっと見つめた。ありきたりな悩みだと分かっているが、僕がもっとしっかり手をのばしていれば、彼女は階段から落下して、記憶をなくしたりすることもなかったんじゃないか、と思う。それが免罪符なんだとしても、止められない。

 そのとき、ノックののち夏香の母親が入ってきた。そして「賢一くん、ちょっとお願いしたいことがあるんだけど」と言って賢一を部屋の外へ連れだした。何の用事なのかまったく予想もできない僕らは首をかしげ、顔を見あわせて「なんだろう」と言った。

 夏香は立ちあがってCDをとめ、中身を入れかえた。キャメロン・クロウ監督の「バニラ・スカイ」のサントラ。ずいぶん前の映画だが、地上波で一緒に見たことがある。たった一回しか見ていなくて、中学生だった僕にはほとんど意味が分からなかったけれど。

 彼女はミルクティーをひとくち、上品な手つきで飲んで、そっと目を伏せた。

「私が失ったものは記憶」

 そしてつづける。「『バニラ・スカイ』の主人公は、自分の容姿と立場にプライオリティをおいていたから、それが事故でひどい顔になってしまってからは、周りの人がどんどん離れていった。あれはね、顔が事故で醜くなったから嫌われたんじゃないの。ディヴィッドが自分の見た目を気にして、どんどん卑屈で頑固になったから、人の心を失っていったのよ」

 ぼんやりと思いだしたストーリー。これまで、トム・クルーズ演じるディヴィッドがラストシーンでビルから飛び降りるところしか覚えていなかった。

 ハンサムで金持ちのプレイ・ボーイのデイヴィッドが、自分をひきたてるアクセサリーとしか思っていなかった女性のジュリーを捨て、クラブで出会ったソフィアになびき、恋に落ちる。ジュリーは怒り狂い、デイヴィッドとともに車に乗って橋から落ちて、心中しようとする。ジュリーは死んだが、デイヴィッドは顔にひどい怪我を負いハンサムな容姿を失ってしまう。それをきっかけにソフィアに避けられ、友人にも愛想をつかれ、信頼を失い、転落してゆく彼の人生。彼の失ったもの、むきあおうとしなかった自分の生きかた。夢と現実の混合。

 夏香は甘く怪しいテーマ曲が流れる中、僕のとなりに座って肩に頭をあずけた。少し重くて、けれどあたたかい。彼女の髪からはシャンプーの香りがした。

「記憶をなくしたことにおびえて、なくさなくてもいい別のものをなくしそうで怖い」夏香がかすかに身をよじった。「このまま私がどうなっていくのか、分からないことが多すぎて、怖い」

 大切なものを失って、主人公が見つけたもの。優しい幻想で耳をふさいでいて、いったい人はどうやって愛を知り、強く生きていけるというのだろう。自分の弱さと強がり。情けなさ。女々しさ。後悔。

 彼女の肩を抱こうとすると、部屋のドアが少しだけひらいた。慌てて反発する磁石のように夏香から離れてドアを見ると、賢一が大きな花束と、小さめの紙袋をかかえて肘でドアノブを押していた。

「夏香が入院してるあいだ、これが届けられてたらしい」賢一は僕らふたりのあいだにその花束と紙袋をどさりと置いた。「ただ、おばさんが夏香に渡していいものか迷ってたらしくて、家で保管してたらしいんだ。学校に復帰するのはずっとあとでもいいけど、とりあえずこれ、見る? 確認させてもらった感じ、俺は特に問題あるように思わなかったし」

 賢一が夏香に差しだした紙袋の中には、手紙が何通か入っていた。ざっと二十通近くある。どれも女の子らしい柄で、表に「夏香へ」と書いてある。夏香はしばらくとまどっているように黙って見ていたが、やがて紙袋の中身をカーペットの上にひろげ、ひとつひとつを見ていった。

 差出人のほとんどがクラスメイトの仲良しの女子たちで、夏香の記憶喪失の件をまだ知らされていない子たちだ。彼女は手紙を開封せず、差出人の名前だけを見て右、左とよりわけてゆく。

 どうして、そして何を基準に分類しているのだろうと思いながら黙って見ていたが、やがて気がついた。右側には、僕も知っている中学時代からの友人たち。左側には、高校に入ってから仲良くなった新しい友人たち。

 夏香はカーペットに手をついて呆然とその山を見つめた。デスクからカッターナイフを持ってきた夏香は、左側に寄せた知らない差出人の手紙を一通開封し、便箋を取りだす。

 となりで見ていた僕たちの目に入ったのは、あまりにも明るい口調で、かわいらしいイラストの便せんに、ピンク色のペンで「早く元気になってまた学校で遊ぼう」などと書かれたありきたりな励ましの言葉だった。

 最初の数行に目をとおしていた夏香の黒くて大きな目から、涙がひと粒、ぽろりとこぼれた。それに続いて、ぼたぼたっ、とあふれる雫。彼女は手紙を床に落として、顔を手のひらで覆った。

「夏香」

 僕と賢一はあわてて彼女の目の前から手紙をよけ、肩を抱いた。子供のようにしゃくりあげる夏香の涙をぬぐい、僕は「無理すんな、大丈夫、俺がいるから」とささやいた。賢一は夏香の背中を撫で、「ごめん、悪かった、許してくれ、夏香」と何度も謝った。

 僕は瞳の手紙を渡せなかった。

 窓の外では、今年初めての粉雪が降っていた。

 冷たい冬が、いつまでも僕たちを脅迫している。

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